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テイスト・オブ・ジャズ

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テイスト・オブ・ジャズ」は毎週土曜日18:00-18:30(本放送)ほか、各曜日で再放送中。番組進行は山本郁アナウンサー。 番組収録のウラ話はこちらのブログでも紹介されています。

【小西啓一の今日もジャズ日和Vol.367~日野原重明氏死去】

 日本の医学界の良心とも言える日野原重明先生が亡くなった。享年105才。我がラジオ日経では今年の5月まで週一回のレギュラー番組「日野原重明の輝く顔と輝く心」をこなしており、放送媒体での先生の最後の声もラジオ日経で、と言うことで、局と先生との関係は本当に因縁浅からぬ所。死亡のニュースが出た翌朝のTVワイドショーを何気なく見ていたら、ラジオ日経と局のプレートが大きく映り、カメラはスタジオにパンしていき、そこに居るのが大宮杜喜子女史。日野原番組を先生と務めていた彼女が、番組の最後の収録模様や想い出などを語っており、感慨深いものがあった。彼女はぼくが担当してからの「テイスト・オブ・ジャズ」の2代目担当アナウンサー。局に入って直ぐの彼女に番組担当を頼み、以来10数年色々なミュージシャンやレコード会社のジャズ担当者などをゲストに迎え、番組を続けて来たものだった。あの頃は仲々に可愛い女性だったが、今や医学関連に精通したベテランプロデューサー兼パ=ソナリティーと言うオールドガール。歳は取ったがまだチャーミングさも残した、ぼくにとっても愛しのジャズガールの一人でもある。

 まあそんな脱線話は置いておくとして、肝心の日野原さんだがぼくが初めて先生と会ったのは、タンパ放送の一つの柱だった(今もそうだが)医学関連番組の企画委員の一人としてのこと。担当したこの医学番組は東大の内科教授連中(第3内科まであった)や慈恵医大の教授など錚々たるメンバーばかり。局に入って間がなかったぼくには、超一流が集まる番組だけに企画委員会はそれこそ超が付く高級料亭やレストランで開催、そこだけは初体験ばかりで嬉しくもあったが、企画委員の顔ぶれだけでもかなり荷が重いものだった。その上当時の教授連はどれもその道の最高権威だけに、生意気なぼくなどは態度が良くないと叱られることもしばしば。そんな中にあって一人優しかったのが日野原先生で、他の権威に懲り固まった面々(反権威主義の京大医学部出身も影響あるかも...)とは大違い。当時はまだ学生運動も全盛で、特に大学の医学部変革なども運動の大きなテーマになっていたが、あの日野原さんの存在を一躍有名にした「よど号事件」の直後だけに、教授連も学生を悪者のようにののしることもしばしばだった。ただ日野原さんだけは、あんな死に繋がる様な恐ろしい経験をした後でも、決して彼らのことをひどい口調で語ったりしなかった。まあそんなこんなあって日野原重明と言う先生は、人格的にも素晴らしい人だと敬愛していたし、ある意味憧れの存在のでもあった。ただぼくが医学番組を担当したのは局に入って2年ほどで、以降は他の関係番組の担当になってしまい、先生とは余り関係を持つことは無かった。ただ局で出会ったりした時には挨拶を交わし、音楽の話(クラシックに造詣が深いのだが、結構ジャズなどにも関心があった)などもしたものだった。

 その先生と再び関係が出来たのは、前述した先生と大宮女史との対談レギュラー番組「日野原重明の輝く顔と輝く心」を、ソニー・エンターテインメントの子会社役員E氏(昔はジャズ番組の敏腕ディレクターだった)と共同企画でCDブック化して、ソニーから同名タイトルで発売したことにより、何回か挨拶などで聖路加病院の名誉院長室へもうかがった。このCDブック売れ行きはイマイチだったが内容はソニーミュージック・ダイレクトのスタッフの中でも好評で、ソニーのくんとは日野原企画第2弾として、先生の書いた曲(「葉っぱのフレディー」等々かなりな佳曲多し)をソニーが抱えているクラシックの有名ピアニストなどを起用し、CDブック化しようという企画を立案、先生も乗り気だったのだが、肝心のソニーミュージック・ダイレクトの動きが遅く、同じような企画を他のレコード会社がやってしまい、計画は残念ながらおじゃん、日の目を見ることはなかった。

 先生はあの「よど号事件」に関わったことで、それからの自身は生かされているんだ...と言う強い認識を持ち続けていただけに、心の底からボランティア精神に溢れた博愛の人生を生きた。まさに素晴らしい人だった。合掌! 
【今週の番組ゲスト:シンガーのギラ・ジルカ」さん】
『ギラ山ジル子project  one・two』から
M1「年下の男の子」
M2「あなた」
M3「木綿のハンカチーフ」
M4「喝采」

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