桂小五郎 その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/12/23(土) 08:15

 元治元年・1864年7月に起きた禁門の変(蛤御門の変)で敗れた長州藩は朝廷側に敵視され、桂小五郎も追われる身となりました。

 しばらく京都で身を隠しながらの生活が続いていましたが、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになると、いよいよ潜伏も厳しくなりました。そこで但馬国の出石の町人・甚助、直蔵兄弟の助けにより京都を脱出、出石の町内各所で匿われることになります。

 小五郎がそこで潜伏生活を送っていた場所、現在の兵庫県豊岡市出石には、「桂小五郎住居跡(荒物屋跡)」と題された一角があります。町の老舗そば屋の横にあり、中央には「勤王志士桂小五郎再生之地」と刻まれた石碑が建てられています。周りには3つの記念碑も置かれ、その存在を後世に伝えています。

 当時は廣江屋という名の荒物屋が営まれていた場所で、小五郎は廣江孝助と偽名を使っていました。愛人の幾松もここを訪れたといいます。9ヶ月にわたる潜伏生活の末、九死に一生を得た小五郎は後に大業を成し遂げるわけですが、出石は小五郎が再生した地であるという意味合いが強いのです。

 その他にも町内には、小五郎が転々とした潜伏先に記念碑がいくつも置かれています。中でも、「畳屋茂七屋敷跡」と「角屋喜作屋敷跡」、「鍋屋喜七屋敷跡」の3つは、一つの交差点をほぼ取り囲むように石碑が置かれており、さほど離れていない住居を転々としていたことが伺われます。

 しかしその後、新撰組は小五郎が出石に潜伏している情報をつかみ、巡察にやってきました。彼らの目を逃れるため小五郎がさらに向かったのは、現在の兵庫県養父市にある西念寺です。

 創設されたのは慶長19年・1614年で、当初は西念庵と称する庵であったと伝えられています。寛政4年・1792年4月には、本堂・庫裡・楼門に至るまで焼失し、古い記録なども含め、全てを失ってしまいました。

 その13年後には再建されましたが、その翌年の文化3年・1806年1月、養父市場の大火の時に再び被災の憂き目に遭います。しかしその年の4月には庫裡が再建され、文政2年・1815年に本堂が建立され今日に至っています。(写真)



      


 つまり、小五郎がこの寺に匿われていたのは、焼失と再生を繰り返していた後の時代ということになります。境内には「維新史蹟 木戸孝允公 潜伏遺跡」と記された石碑があり、今や小五郎潜伏の地として知られています。

 今回ご紹介した「桂小五郎住居跡」は、JR山陰本線の八鹿、江原、国府の各駅から車で約25分の場所にあります。徒歩圏内に最寄りの駅がありませんので、車でのアクセスをおすすめします。一方、西念寺はJR山陰本線の養父駅から約1.1kmの場所にあります。

 次回はついに最終回。日本で政治の行方を決めるため、小五郎ら要人たちが大阪に集結します。どうぞお楽しみに!

桂小五郎 その三 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/12/16(土) 08:15

 新国家の建設を目指していた桂小五郎を筆頭に、長州藩は京都で中央政界を牛耳る存在となりました。しかし、文久3年・1863年、彼らと相対する会津藩、薩摩藩が八月十八日の政変を起こし、小五郎は京都から追放の憂き目に遭います。

 翌年、小五郎は再び京都に入り、潜伏しながら長州藩の立場を回復させようと奔走しました。長州藩など攘夷派の志士たちが潜伏する旅館・池田屋へは一番早く行きましたが、まだ同志が集まっていなかったため、近くの対馬藩邸に向かっていました。その間に起こったのが、新撰組が攘夷派を襲撃した池田屋事件です。つまり小五郎は運良くこの難を逃れたのです。

 池田屋事件の跡地は現在、居酒屋となっており、その前に「維新史跡 池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。これについては去年、新撰組を特集した際にご紹介しています。詳しくはバックナンバーをご覧下さい。

 池田屋事件の騒動は、長州藩の急進派を刺激することになり、元治元年・1864年、禁門の変(蛤御門の変)を起こします。現在の京都御苑の西側に位置する蛤御門の周辺で、長州藩と、御所の護衛にあたっていた会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が繰り広げられました。

 御苑の周りには、かつての公家町と市中を区切っていた9つの御門があります。その一つが蛤御門です。(写真)


          


 もともとは新在家御門という名前でしたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたことから、「焼けて口開く蛤」に例えて、蛤御門と呼ばれるようになったと言われています。

 烏丸通りに面した門の前には「蛤御門」と書かれた石柱があり、門をくぐってすぐの所に説明板があります。現在も門の梁には、その時の鉄砲の弾傷らしき跡が所々に残っています。結局、この戦は長州藩の惨敗となり、戦火で民家38000戸余りを焼いたということです。

 禁門の変以降、再び小五郎は幕府に追われる身となります。恋人の幾松などの助けを借りて、潜伏生活に入りました。その際に暮らしていた場所が現在も残っています。

 それが京都市中京区木屋町にある旅館「幾松」です。長州藩控屋敷として建てられたのが始まりで、上記のエピソードから「幾松・桂小五郎寓居址」とも呼ばれます。鴨川に面した幾松の部屋には、幾松の肖像画や小五郎直筆の掛け軸が飾られ、新撰組に襲撃された際に桂小五郎が隠れた長持(衣類などを収納する長方形の木箱)も残されています。

 さらに、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井など出来る限り当時に近い状態で保存されています。当時は、不意の敵にそなえて、幾松の間の天井には大きな石が仕掛けられていたそうです。

 なお、幾松の部屋は国の登録有形文化財となっており、宿泊はできませんが、旅館での宿泊や食事をする人には希望に応じて、説明付きで案内してもらえるということです。見学できる期間や時間帯は限られているので、詳しくは旅館のホームページをご覧下さい。

 京都御苑の蛤御門は、地下鉄烏丸線の丸太町駅から北へ、同じく今出川駅からは南へともに徒歩約8分です。一方、旅館・幾松は、地下鉄東西線の京都市役所前駅から徒歩約2分です。

 次回は、京都を離れる小五郎、出石に向かいます。どうぞお楽しみに!

桂小五郎 その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/12/09(土) 08:15

 桂小五郎が京都に来た頃、攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力へと結集していきます。今回の講談で登場する舞台の一つ・翠紅館は幕末の頃、西本願寺の別邸で、たびたび志士たちの会合の場となっていました。

 文久3年・1863年1月27日、ここに土佐藩の武市半平太、長州藩の井上聞多・久坂玄瑞など多数が、次いで6月17日にも小五郎はもちろん、久留米藩の真木和泉などが集まりました。これら各藩の志士を代表した者たちが会議をし、攘夷の具体的な方法が検討されました。世にこれを翠紅館会議と言います。8月13日には、孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達します...。

 翠紅館はもともと正法寺の子院(付属の寺院)でしたが,眺望に優れていたので,庶民の遊興や文人の詩歌・書画会などの貸席として使われていました。鎌倉時代には公家の鷲尾家が買い取り、西本願寺の東山別院に寄進されました。荒廃していた庭園を整備,書院を新築し、その景観の素晴らしさから、「翠」と「紅」の素晴らしい館という意味で翠紅館と名付けられました。

 西本願寺がこの地を手放してからは、2人の経済人の所有を経て、現在は料亭に姿を変えています。残念ながらこの料亭は今年2017年1月から2年間、改修工事のため休業となっています。工事期間中は史跡を見ることはできませんが、ここでは改修前の様子をご紹介します。

 入り口の立派な門構えには寺の山門の名残があり、その横に「翠紅館跡」と書かれた石碑と説明板が置かれています。店を代表する部屋は、その名も「翠紅館広間」(写真)。まさに小五郎たちが会議を行っていた場所です。


     
 
   

 この部屋はもともと西本願寺門主の居間として使われていました。京都の町を一望でき、八坂の五重塔を見るのにちょうど良い角度に窓が開かれていて、素晴らしい景色を楽しめます。部屋の上に飾られている「翠紅館」の扁額は、三条実美の筆によるものです。

 山門に程近い「送陽亭」も会議の場所として提供されました。ここには小五郎はもちろん、長州藩や土佐藩の主だった会議参加者の写真が飾られています。映画の撮影などにも使われるほど、夕刻の風情が素晴らしい場所です。現在は、保護建造物に指定されています。

 ここからは、今回の講談の途中から登場する女性・幾松についてもご紹介します。若狭小浜(現在の福井県)で、小浜藩士の木崎市兵衛と、医師の細川益庵の娘との間に生まれました。しかし幼少の頃、藩内の事件から父・市兵衛が妻子を残して出奔。8歳の時に京都に出た後、三本木(現在の京都市上京区三本木通)の芸妓になりました。

 小五郎が京都に来て、喧々諤々の議論を行っている頃に出会い、恋に落ちたと言われています。その後、小五郎を大事な局面で支えていくわけですが、この様子は次回の講談でご紹介します。明治維新後、小五郎は木戸孝允と名を改めますが、幾松も長州藩士・岡部富太郎の養女となり木戸松子と改名、正式に木戸孝允の妻となりました。

 今回ご紹介した翠紅館跡となっている料亭・京大和は、JR京都駅からバスで15分、「東山安井」で下車、そこから徒歩約5分です。阪急電車の四条河原町駅からもバスが出ています。

 次回は、小五郎が命を狙われる危機に瀕しますが、幾松がひと芝居打ちます。どうぞお楽しみに!

桂小五郎 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/12/02(土) 08:15


 今月は、長州藩のリーダーとして活動し、明治新政府でもトップの一人として近代国家・日本の建設に大きな役割を果たした桂小五郎、後の木戸孝允を取り上げます。

 小五郎は、天保4年・1833年に現在の山口県萩市で長州藩医(藩に仕えた医師)・和田昌景の長男として生まれました。その後、吉田松陰に兵学を学び、江戸への留学では剣術の免許皆伝を得て、道場の塾頭(塾長)になるなど、剣豪の名を轟かせました。

 小五郎が藩の命令により京都にやってきたのは文久3年・1852年のことです。小五郎の拠点である長州藩邸があった場所は、今も石碑や小五郎の銅像が置かれ、後世に伝えられています。

 現在は京都ホテルオークラの敷地となっていますが、その南側、御池通りに面した柱の陰に「長州屋敷址」と刻まれた石碑がひっそりと建っています。横にある説明板によると、藩邸は初め南北2ヶ所に分かれていたということです。北側の屋敷は表口約70m、奥行は約56m。一方、南側の屋敷は表口約54m、奥行は約14mに及びました。

 しかし、元治元年・1864年の蛤御門の変(禁門の変)で長州藩は朝廷・幕府側に敗れたため、自らこの邸内に火を放ち、逃れました。明治維新後、この藩邸跡は国の所有となり、産業の振興を図るため勧業場が設立され、後にホテルが建てられることになります。

 また、ホテルの北西側、河原町通りに面した柱の間には、小五郎の像があります。(写真)剣を携え、どっしりと腰を下ろし遠くを見つめる姿は、小五郎の凛とした存在感を示しています。


        
     




 今回の講談にも出てきますが、長州藩邸跡であるホテルから5分ほど歩いた所には、高瀬川一之船入があります。これは現在、国の史跡に指定されている場所で、船入とは、荷物の積み下ろしや船の方向転換を行う入り江のことを言います。

 高瀬川は慶長19年・1614年、嵯峨の豪商・角倉了以・素庵父子によって開かれた物流用の運河です。京都は古代・中世を通して経済・文化の中心でしたが、内陸部に位置していたため、交通・運輸の面で難点を抱えていました。これを打開するために、大量輸送を目的とした、伏見・二条間を結ぶ水運を完成させたのです。高瀬舟(川の浅い所を航行できるよう底を平たくした船)が使われたことから、この名前が付けられました。

 物流が盛んな頃には、百数十艘の船が行き交い、伏見を通じて大阪などの物資を運び入れ、京都の経済発展に大きな役割を果たしました。この頃は多くの問屋が立ち並んで賑わったということです。現在も高瀬川流域には、材木町や石屋町など当時の職種や商品を反映した町名や、船頭町など町の成り立ちを反映した町名が残っています。

 
 明治になって鉄道が開通すると、次第にその機能を失い、大正9年・1920年には廃止されます。現在は「史蹟 髙瀬川一之舩入」と書かれた石碑が置かれ、当時を再現した船が川に浮かべられています。入り江沿いには了以の名前を取ったカフェがあり、盛時の高瀬川に思いを馳せることができます。

 長州藩邸跡や小五郎の像がある京都ホテルオークラは、地下鉄・東西線「京都市役所前駅」直結です。高瀬川一之船入の石碑は、そこから北東に2分ほど歩いた所にあります。

 次回は、日本の行方を京都で議論する小五郎が、一人の女性と出会います。どうぞお楽しみに!


  

秀吉・紀州攻め その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/11/25(土) 08:15

 羽柴秀吉による紀州攻めのお話も今回が最終回。根来寺を陥落させた秀吉の残る目標は、太田城(現在の和歌山県和歌山市太田)です。

 太田城は延徳年間・1490年頃に、紀俊連が日前神宮・国懸神宮の神領保護を目的として、秋月城、三葛城と共に築城したのが始まりと言われています。

 天正4年・1576年には、太田村の郷士・太田源三郎が修築しました。城は周囲を深い堀で巡らされ、その塁上には土壁が建てられ、各所に高い櫓を設けるなど平城ではありましたが、堅固な造りになっていたといいます。

 秀吉の紀州攻め以前にも、この城は戦の舞台になっていました。天正5年・1577年、織田信長が雑賀城を攻める際には、太田衆が信長軍を先導しました。翌年、信長軍が引き上げた後、雑賀衆は太田城を攻めましたが、その堅固な守りに和睦を申し入れて停戦しています。

 その8年後、秀吉が攻め入った際には、太田左近を大将に約5000人の太田衆が城に立て籠もり、10万人余りの秀吉軍に対して強く抵抗しました。秀吉軍は、いったんは力攻めを敢行しましたが高い土塁に守られた城内からの弓や鉄砲の攻撃に多数の死傷者を出すことになります。

 そこで秀吉は、城を取り囲む総延長5~6kmにも及ぶ堤防を築き、川の水を流し込み、城を水で囲む、いわゆる水攻めを行いました。雨が降ったこともあり、水かさが増し、城は完全に水の中に孤立しました。一ヶ月続いた攻防の末、ついに左近ら中心人物50人余りの首を差し出すことを条件に、他の者の命が助けられたのです。

 太田城は今や、岡山県高松城、埼玉県忍城とともに、日本三大水攻めの一つに数えられています。城の遺構は全く存在せず、来迎寺の境内がその城跡とされています。山門の横には城に関する歴史が詳しく書かれた説明板があり、境内には「太田城址碑」と刻まれた大きな石碑が建っています。(写真)


           


 城の範囲は、来迎寺やその隣の玄通寺を中心に東西250m、南北200mあり、東に大門を持っていたとされます。

 来迎寺の隣、北東に約50m進んだ所には、この戦いで亡くなった者を葬った小山塚があります。「太田城水攻遺蹟 小山塚」と記された大きな石碑があり、その裏に碑文が書かれています。もともとは別の場所にありましたが、昭和60年・1985年の土地区画整理事業により、現在の場所へ移されました。毎年4月には、この場所で太田城士祭りの法要が営まれています。

 寺の北東約250mの所には、太田城の大門があったとされる大門橋があり、北東約700mには秀吉軍が水攻めの際に築いた堤防跡「太田城水攻め堤跡」があります。一方、寺の西約1kmの場所にある大立寺の山門は、太田城の大門を移築したものと言われています。この門はもともと和歌山市内の功徳寺にあり、第二次世界大戦後に現在の場所に移築されました。なお、堤跡と山門は、ともに和歌山市指定文化財となっています。

 太田城跡の来迎寺は、JR阪和線・和歌山駅から徒歩約7分です。
 
 来月は、明治維新に貢献した維新の三傑の一人、桂小五郎(木戸孝允)のお話です。どうぞお楽しみに!

秀吉・紀州攻め その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/11/04(土) 08:15

 今月は、秀吉が豊臣の姓を名乗る前、羽柴秀吉として活躍していた時代のお話です。


 秀吉は、現在の和歌山県や三重県南部にあたる紀伊国を平定しようと動き出します。いわゆる紀州攻めです。当時の紀伊は、寺社など中央集権思想に真っ向から対立する勢力がしっかりと根を張っていました。その中心的な存在が根来衆、雑賀衆などです。

 彼らは大坂への侵攻の動きを見せていたため、秀吉は強く警戒し、彼らの拠点である根来寺(和歌山県に現存)を攻略する機会をうかがっていました。天正11年・1583年、秀吉は家臣の中村一氏を岸和田城に入れ、紀伊に対する備えを固めます。

今回ご紹介するのは、その岸和田城です。(写真)

 

        
 
   

 伝承によると、建武の新政があった1334年頃に楠木正成の一族・和田高家が築いたのが始まりとされています。紀州攻めの拠点になった後は、秀吉の叔父にあたる小出秀政が城主になり、五層の天守を築いて本格的な城構えとなりました。

 元和5年・1619年、松平康重の代になると、総構えと城下が整備されます。寛永17年・1640年に岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を統治しました。

 時は流れ、岡部長泰公が城主だった時代の元禄16年・1703年、京都伏見稲荷を城内三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈った稲荷祭を行いました。この稲荷祭が現在の岸和田だんじり祭の始まちと伝えられています。

 その後天守閣は、文政10年・1827年に落雷により焼失してしまいます。明治維新の時代には、櫓や門などの城郭施設を自ら破壊したため、在りし日の城の様子がうかがえるのは、今や堀と石垣しかありません。

 しかし、昭和29年・1954年に天守閣は再建されました。市民からの強い要望と寄付金、さらに城主だった岡部氏の子孫も復活を望んでいたことが、再建を後押ししたと言われています。また昭和44年・1969年には城壁・城門・隅櫓が再建されました。

 平成3年・1991年からは、天守閣の屋根葺き替え、外壁の塗り替え、内部の改修など、約1年かけての大改修を行いました。この時に生まれ変わった姿が現在に至っています。今や観光振興の拠点となり、天守閣はウエディング会場に、多聞櫓・隅櫓もギャラリーや各種イベントに使われることがあります。

 天守閣の前には、八陣の庭と呼ばれる庭園が広がっています。昭和28年・1953年に作庭されたものですが、その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値が高いことから、平成26年・2014年に国の名勝に指定されました。こちらも訪ねてみて下さい。

 岸和田城は、南海電鉄・蛸地蔵駅から徒歩約10分、同じく岸和田駅から徒歩約15分です。開場時間が午前10時から午後5時まで(入場は午後4時まで)です。毎週月曜日と年末年始(12月29日~1月3日)は休場です。入場料は大人300年、中学生以下は無料です。詳しくは、岸和田市のホームページをご覧下さい。

 次回は、根来衆や雑賀衆などが拠点の一つとした千石堀城をご紹介します。どうぞお楽しみに!

足利義昭 その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/10/14(土) 08:15
足利義昭は、織田信長を後ろ盾に室町幕府第15代将軍に就任。仮の御所を本圀寺に定めるも、その翌年には襲撃を受けます。相手は三好三人衆。兄の義輝を暗殺した勢力です。信長が本国である美濃に戻り、本圀寺の警護が手薄になった隙を狙いました。

 義昭を守ろうと織田の軍勢は何とかこれを凌ぎましたが、本圀寺での防衛に脆弱さを感じた信長は永禄12年・1569年、城を築くことを決めました。それが二条城です。二条城といえば江戸時代に徳川家康が築いたものが有名ですが、それとは別の城で、区別するために「旧二条城」とも呼ばれます。

 現在、京都御所の西側、京都市上京区五町目町にある平安女学院大学の敷地内に「旧二條城跡」と書かれた石碑があります。(写真)


        

     

 石碑の背後にある説明板には、当時の建設現場に立ち合ったポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス・フロイスがまとめた記録などが書かれ、在りし日の城の様子を知ることができます。

 フロイスの記録によれば、この石碑を中心とした約390m四方の敷地に、70日近くで二重の堀や三重の天主を備えた堅固な城が築かれたということです。城を築くには短い期間でした。工事には日々15000人から25000人が従事し、本圀寺の建築物から荘厳・華麗なものを選んで解体、調度品とともに運んで再建されました。

 また、濠の石垣構築に際しては、洛中・洛外の石仏・五輪塔・庭石・石灯籠等を手近な所に求め、単なる用材として石垣に積み込みました。急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀を散りばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったといいます。

 旧二条城は後に、信長が東宮誠仁親王を迎え入れ、「二条御所」としても使われていました。しかし、室町幕府の滅亡により廃城となりました。天正4年・1576年に旧二条城は解体され、安土城の築城に際して建築資材として再利用されました。

 現在ある二条城の本丸西側には、復元された旧二条城の石垣を見ることができます。これらの石垣は、地下鉄烏丸線の工事中に発見されたものです。その石組みからは、「犬走り」と呼ばれるテラス状の防御施設が城を巡っていたことも分かっています。石垣の近くには説明板があり、旧二条城の範囲が、北は出水通り、南は丸太町、東は烏丸通りから京都御所に少し入った辺り、西は新町通りの東側にあったという推定図も見られます。

 烏丸丸太町交差点を北へ約120m行った、京都御所の椹木口を入ってすぐの所にも旧二条城の石垣が保存され、石仏などの発掘品は京都文化博物館や洛西竹林公園内などに展示されています。ちなみに、旧二条城跡の石碑の近くには、兄・義輝の邸宅跡を記す石碑もあります。義輝はここで政務をとり、暗殺に伴い邸宅は焼失したということです。こちらも訪ねてみて下さい。

 旧二条城跡の石碑は、地下鉄烏丸線の丸太町駅から徒歩約5分です。一方、旧二条城の石垣が見られる二条城は、地下鉄東西線の二条城前駅を下車してすぐです。

 来週は、義昭と信長の関係に変化が起きます。どうぞお楽しみに!

足利義昭 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/10/07(土) 08:16


 今月の主役は、室町幕府最後の将軍・足利義昭です。

 第12代将軍・義晴を父に持ち、兄には第13代将軍・義輝がいます。しかし、義昭はもともと将軍家の跡継ぎではなかったため、慣例によって仏門に入ります。奈良の一乗院で門跡(皇族・公家出身の住職)となり、覚慶と名乗っていました。

 しかし、兄の義輝が三好三人衆らによって暗殺。覚慶も捕えられ幽閉されていましたが、義輝の側近らに助けられ脱出することに成功しました。ここで覚慶は将軍家の当主になることを宣言します。還俗(僧侶になった者が俗人に戻ること)して、その後織田信長に擁されて京都に入り、第15代将軍に就任しました。

 この時、義昭が仮の御所としたのが本圀寺(六条御所)です。現在は京都市山科区御陵にありますが、以前は別の場所にありました。ここからは本圀寺の歴史を紐解きましょう。建長5年・1253年8月、日蓮が鎌倉に法華堂を構えたことが始まりとされています。当初は本国寺という表記でした。

 鎌倉幕府が滅び、政治の中心が京都に移った貞和元年・1345年3月、第4代の日静が光明天皇から寺領を京都の六条堀川に授けられたことにより移転しました。寺の領地は北が六条坊門(現五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めたといいます。

 天文5年・1536年に起きた天文法華の乱で焼失し、一旦は堺に非難しますが、11年後には元の場所に再建されました。義昭がここを仮の御所としたのは永禄11年・1568年のことです。現在の京都市下京区には、その痕跡を記す石碑があります。(写真)



                        

 
 西本願寺の北側・大宮通り沿いと、さらに北上した堀川通り沿いの2ヶ所で、ともに「大本山本圀寺」と刻まれています。堀川通り沿いの石碑の横には説明板がありますが、義昭が御所としていた時代の言及はありません。そして残念ながら、いずれの地にも遺構はありませんでした。

 義昭が御所を構えた翌年、兄の義輝を暗殺した三好三人衆らが義昭を襲撃する「本圀寺の変」が起きます。寺は損傷を免れましたが、防衛上の脆弱さから新たに二条城を建築することになりました。その際に寺の一部を解体、移築しました。江戸時代には徳川家康が寺領を継承します。その後徳川光圀が生母の追善供養を行うなど様々な交流があったことから、光圀より圀の字が贈られ、名を本圀寺に改めます。

 しかし近代に入り、末寺の解体、戦後の農地改革、寺所の散失など時の流れに抗うことはできず、経営難に陥りました。昭和46年・1971年に敷地を売却して、山科に移転、現在に至ります。門や鳥居などには金色の装飾が多く施されている煌びやかな寺院です。天智天皇の御陵と並び、桜並木と美しい幹の松林に包まれ、四季折々の風情にも彩られています。

 本圀寺跡の石碑はそれぞれ、JR京都駅から徒歩約15分です。一方、現在ある本圀寺は、京都市営地下鉄・御陵駅から徒歩約15分です。

 次回は、ついに襲撃を受ける義昭。舞台は本圀寺から二条城へと移ります。どうぞお楽しみに!


     






後醍醐天皇 その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/09/23(土) 08:15

 後醍醐天皇は笠置山に籠り、幕府軍に対し徹底抗戦を続けましたが落城。捕えられて、隠岐の島に流刑となりました。一方、幕府側は後醍醐天皇をただちに廃位し、光厳天皇を即位させました。そのような中でも後醍醐天皇は幕府を倒す思いは変わらず、名和長年らを頼って隠岐の島を脱出します。


 反幕府の勢力が強まり、ついに鎌倉幕府は陥落。京都に戻った後醍醐天皇は、光厳天皇の即位を否定し、光厳天皇下で行われた人事などを全て無効にしようとします。さらに幕府や摂政・関白を廃止して、建武の新政を始めました。

 しかし、改革が急だったり、恩賞が不公平だったりしたことから、不満を抱いた足利尊氏が反旗を翻します。尊氏は京都で敗れ、一旦九州に落ち延びますが、態勢を立て直します。湊川の戦いでは、後醍醐天皇につく新田義貞、楠木正成の軍を打ち負かし、再び京都に攻め入ります。

 その時、後醍醐天皇は比叡山に逃れて本陣を置きます。一方、尊氏が本陣を置いたのは東寺。両者に睨み合いが続きましたが、後醍醐天皇側・新田義貞の軍が攻撃に出て、尊氏の軍もこれに応戦。しかし、山を味方につけた新田軍が有利となり、山を攻めるのは不利と見た尊氏は市街戦に出ました。

 糺の森、加茂川、桂川の西で激戦が繰り広げられましたが、戦局は変わりません。尊氏の軍は退却するしかありませんでした。対する新田軍が目指すのは尊氏のいる東寺。痛手を負った尊氏の軍は続々と境内に逃げ込みます・・・。

 今回、まずご紹介する史跡は、講談の最後にも登場した東寺(現在の京都市南区九条町1番地)の東大門です。尊氏の軍がこの門を閉めて危うく難を逃れたことに因み、「不開門(あかずのもん)」とも呼ばれています。創建された年代は不明ですが、現存する建物は建久9年・1198年に文覚上人が布教活動の一環として再建されたものです。後の慶長10年・1605年には、豊臣秀頼が大改修を加えたと伝えられています。

 境内にはその他にも尊氏ゆかりの史跡を見ることができます。境内のほぼ中央に位置する「食堂(じきどう)」は、尊氏が居住していた場所です。食堂とは、僧が生活の中に修行を見出す場所のことを言います。建立は平安時代で、当時の本尊は約6mにも及ぶ千手観音菩薩でした。昭和5年・1930年に焼失した後、3年間の工事を経て完成したのが現在の建物です。堂内には納経所もあり、多くの巡礼者の祈りの場となっています。

 「小子房」は、天皇を迎える特別な場所です。尊氏が本陣とした際には、光厳上皇がここで政務を見ることになりました。現存の建物は、昭和9年・1934年に弘法大師1100回忌の記念事業として再建されました。用材は全て木曾檜を用いており、昭和を代表する建築物の一つです。

 「鎮守八幡宮」は、戦勝祈願の社として名高く、尊氏も祈願に訪れました。戦の際には、この社殿から流鏑が新田軍に向かって飛び、勝利を収めたことでも有名になりました。社殿は延暦15年・796年に創建、平安京と東寺を守護するために祀られました。明治元年・1868年に焼失しましたが、平成3年・1991年に123年ぶりに再建されました。僧形八幡神像と二体の女神像は弘法大師による作で、日本最古の神像です。

 東寺は唯一残る平安京の遺構で、創建から約1200年が経ちました。平成6年・1994年には世界遺産にも登録されました。日本で最も高い55mの五重塔が有名で、京都を代表する名所の一つです。開門時間は午前5時から午後5時までで、境内へは無料で入れます。しかし、金堂、講堂、五重塔の拝観は有料です。その他、特別な時などに限られて公開される場所もあります。

 JR京都駅からは徒歩約15分、近鉄東寺駅からは徒歩約10分です。市バスでは、東寺東門前、東寺南門前、九条大宮、東寺西門前、それぞれの停留所が寺のすぐ目の前にあります。拝観料や詳しいアクセス方法などは、寺のホームページも合わせてご覧下さい。

 来週は、後醍醐天皇と足利尊氏の物語も最終回。天龍寺にまつわるお話です。どうぞお楽しみに!

後醍醐天皇 その三 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/09/16(土) 08:15

 今回は、恋志谷神社の始まりにまつわるお話をお聴きいただきました。京都府にある唯一の村・相楽郡南山城村にある恋志谷神社は、縁結び、恋愛成就、子授け、安産、病気平癒、家内安全、無病息災のご利益があり、女性の守り神として知られています。

 創建当時の詳細は不明ですが、神社の名前の由来は鎌倉時代末期に遡ります。これまで2回にわたってご紹介してきましたが、元弘元年・1331年に倒幕の計画を知られてしまった後醍醐天皇は、京都の御所を脱出し、笠置山に籠って挙兵しました。

 当時、後醍醐天皇に思いを寄せていた妃は、伊勢の海辺で病気療養の最中にその事を聞きつけます。そして病気が治った後に笠置山へ向かう途中で、南大河原の古森という地に辿り着きました。しかし、後醍醐天皇はすでに幕府軍から逃れるため山を後にしていて、時すでに遅し。妃は悲しみと長旅の疲れから持病が再発してしまいます。

 妃は「恋い焦がれ、病に苦しむような辛いことは自分一人で十分。これからは人々の守り神になりたい」と言い遺し、自ら命を絶ったといいます。これを哀れんだ人々が祠を建て、祀ったのが恋志谷神社の始まりだと言い伝えられています。最期まで「天皇が恋しい、恋しい」と言い続けていたことから、いつからか親しみを込めて「恋志谷さん」と呼ばれるようになったのです。

 もともとは古森に祀られていましたが、江戸時代末期の元治元年・1864年に現在の地に移され、天満宮社と並んで合祀されています。「恋志谷神社」と書かれた鳥居の横には、「恋志谷神社口碑伝説」と題された石碑があり、上記で述べた神社の由来が記されています。(写真)


    

  

 大祭が毎年春と秋の2回行われ、五穀豊穣に感謝し、地域住民の健康や安全なども祈願します。当日は、境内に「恋志谷姫大明神」と書かれた旗が掲げられ、野菜や米を持ち寄った地元の村民など多くの人で賑わいます。大祭に限らず、恋愛成就を願う人が遠方からやってきて、御守りを買い求めることもあるということです。

 神社へは、最寄りの大河原駅から国道163号線に沿って流れる木津川を渡ります。川には「恋路橋」という欄干のない低いコンクリート製の橋が架かっていて、それが参道になっています。長さ95m、幅は3.6m、花崗岩でできた橋です。

 以前は渡し舟が北と南の集落を結んでいましたが、1945年・昭和20年に橋が架けられました。川が増水した時には陥没することから、当初は「潜没橋」、また「沈み橋」、単に「石橋」とも呼ばれていました。1996年・平成8年に村のイメージアップを図るため、公募で現在の名になりました。

 恋志谷神社は、JR関西本線の大河原駅から徒歩約10分です。前回ご紹介した笠置駅からは一駅です。拝観は自由で、いつでも入ることができます。

 
 次回は、ついに迎える南北朝時代。それに至るまでの攻防をお聴きいただきます。どうぞお楽しみに!

後醍醐天皇 その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/09/09(土) 08:15

 今週は、笠置山での激しい攻防をお聴きいただきました。現在も笠置山(京都府相楽郡笠置町)の周辺や山中には、後醍醐天皇に関する史跡などが数多く残っています。それぞれをご紹介しましょう。

 JR関西本線の笠置駅を降りてすぐの所には、笠置山の戦いの様子が象られたオブジェが置かれています。タイトルは「太平記元弘の乱笠置合戦」。笠置山に逃げ込んだ後醍醐天皇が率いる軍勢は3000人余り。一方で、笠置山を四方から包囲し追い詰める幕府軍の数は75000余りと言われています。

 数では圧倒的に不利な天皇方ですが、笠置山は全てが巨大な岩や怪石で覆われた"天然の要害"。幕府軍にとって攻撃は容易ではありません。しかも、後醍醐天皇側には主に2人の人物が活躍し、幕府軍に甚大な被害を与えました。

 小高い山のオブジェの左側、弓を引いているのが三河国に住む武士・足助次郎重範。彼の強弓により幕府軍の先陣がいとも簡単に射殺され、これを皮切りに激しい戦闘が始まりました。夕刻になった頃、今度は般若寺の本性房という大力の僧が巨岩を投げつけ、またもや幕府軍を後退させます。その姿はオブジェの右側、重範の隣で力強く表現されています。

 そこから数歩進むと産業振興会館がありますが、入り口からすぐの場所には、楠木正成が後醍醐天皇に拝謁する場面がほぼ等身大にジオラマ化されています。産業振興会館の道路沿いには、「笠置元弘の乱絵巻」と題された長く連なるパネルがあり(写真)、戦の様子を詳しく知ることができます。


         

 
 そこから山の麓に辿り着き、さらに歩行者用の登山道を上がること約30分。笠置寺の山門が現れます。山門から頂上に至るまでの間にも、様々な史跡が点在しています。

 「二の丸跡」は現在、休憩所が建てられているほどの広い場所です。笠置山はあくまで後醍醐天皇の仮の皇居だったので、正式な築城はされなかったということです。しかし室町時代以降、山頂付近にある仮皇居を本丸と見たて、この場所を二の丸と呼ぶようになりました。当時の山の構造が分かる貴重な痕跡です。

 「十三重石塔」は、笠置山の戦いにおける戦死者の供養塔とも伝えられています。もともとは木造瓦葺きの十三重塔が建立されていましたが、笠置山の戦いで焼失していました。

 「行宮遺址」は仮皇居が置かれたのを記念して、明治22年に有志者により、高さ7.6m、幅6mの巨大な自然石に刻んだ碑です。もちろん「行宮遺址」と刻まれていますが、一字が1m36cm四方もあるということです。

 頂上に近づくにつれ、巨大な岩や怪石が増えてきます。「ゆるぎ石」は、幕府軍の奇襲に備えるため武器として持ち運ばれたものですが、実際は使用されませんでした。重心が人の力で動くことから、この名が付けられました。「貝吹き岩」は、天皇方の武士が士気を高めるために、この岩上から盛んにホラ貝を吹いたと言われている場所です。

 一旦山頂を経由して少し下がった場所に、「後醍醐天皇行在所跡」がついに見えてきます。玉垣で囲まれた一角が後醍醐天皇の仮皇居とした場所です。その近くには、後醍醐天皇が詠んだ歌が記された石碑もあります。「うかりける 身を秋風に さそわれて 思はぬ山の 紅葉をぞ見る(憂き身は苦しく辛いが、秋風に誘われるように都を出て、思いかけずに吉野山の紅葉を見ている)」。結局、約1ヶ月にわたる攻防の末、夜半の風雨を味方にした幕府方の北条軍50人の決死隊により奇襲攻撃を受け、笠置山全体が灰塵に帰してしまいました。説明板の横には行在所跡へつながる長い階段が続いていますが、階段から先は枯れ木落下などの危険防止のため、"ご遠慮下さい"という注意書きがあります。

 その他、巨岩でできた岩のトンネル「胎内くぐり」や、大岩の細かい隙間を通る「蟻の戸わたり」、高さ16m近い日本最大の磨崖仏「弥勒石」など見どころ満載です。

 笠置山は、JR関西本線の笠置駅から山頂まで徒歩約45分です。

 次回は、後醍醐天皇を愛した妃のお話です。どうぞお楽しみに!

後醍醐天皇 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/09/02(土) 08:15

 今月の舞台は、鎌倉から南北朝に移り行く時代、つまり政治勢力が二つに分かれる動乱の時代です。その渦中にいた後醍醐天皇と足利尊氏の物語をお送りします。

 後醍醐天皇は、天皇による親政と自らの皇統を維持するため、鎌倉幕府の存在を排除しようとしていました。最初の倒幕計画は正中元年・1324年に立てられましたが、事前に発覚したため失敗。幕府の機関・六波羅探題により天皇の側近が処分されましたが、後醍醐天皇には処分は下されませんでした。

 
 その後も、後醍醐天皇による倒幕の意志は変わりませんでした。しかし、着々と進めていた倒幕計画は元弘元年・1331年、密告によって再び露見されてしまいます。側近である日野俊基ら関係者は処刑され、追及の手はついに後醍醐天皇にも及びました。

 後醍醐天皇は急遽、京都の御所を後にし、幕府側の追跡をかわすため各地を転々とします。そして、御所を脱してから4日後に辿り着いたのが、今回の講談の舞台でもある笠置山です。

 現在の京都府相楽郡笠置町にある標高289mの笠置山には長い歴史があります。弥生時代の石剣が発掘されたことから、山中にある巨石は2000年前から信仰の対象だったことが分かっています。しかし、実際に建物が建てられ、人が住むようになったのは1300年前ということです。

 そしてその頃、東大寺を開山した良弁によって、笠置山の大岩石に仏像が彫刻され、それを中心として山全体が一大修験行場として栄えました。このように自然の岩山に仏像を刻んだものを磨崖仏と言います。平安時代には、この磨崖仏が多くの信仰を受けることになります。

 笠置山が全盛を極めたのは鎌倉時代の建久2年・1191年。藤原貞慶(後の解脱上人)が日本の宗教改革者として、その運動を笠置寺から展開するとき、笠置山は宗教の山、信仰の山としての地位を不動のものとします。後醍醐天皇が逃げ込んで来たのは、それから140年後のことでした。

 後醍醐天皇と幕府側との攻防の末、山は焼き尽くされました。その後も少々の復興と荒廃を繰り返し、ようやく現在の山容になりました。昭和7年・1932年に史跡名勝の指定を受け、昭和39年・1964年には京都府立自然公園として整備されました。ハイキングコースとしても親しまれています。(写真)

             
 

 山域には、アラカシやクヌギ、アオキなどが自生しています。山のほとんどが広葉樹に覆われていて、明るい自然林となっています。ふもとの河原にはサクラが植えられ、花の季節や秋の紅葉シーズンには、特に多くの行楽客で賑わいます。

 今回の講談の中では登るのが非常に大変な要害とあったように、北・東面は木津川が笠置山脈を横断する急斜面となっていますが、山の南・西面は比較的傾斜がゆるく、この方面から頂上近くまでは自動車で登ることもできます。しかし、歩いての登山は足場が整備されていない部分もあるのでご注意下さい。川岸はカヌー広場、児童広場などに利用されています。笠置寺のある頂上付近には奇怪な石が多く、ひときわ神秘的な雰囲気があります。

 笠置山は、JR関西本線の笠置駅から山頂まで徒歩約45分です。

 次回、笠置山での戦いは大詰めを迎えます。ホームページでは、笠置山付近や山中にある後醍醐天皇ゆかりの史跡をご紹介します。どうぞお楽しみに!

大塩平八郎  その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/08/26(土) 08:15

 
 天保四年・1833年に始まった天保の大飢饉。日本中を苦しめ、大坂の町も飢餓にあえぐ人々で溢れるようになります。一方で、強欲さにまみれた商人や、汚職に手を染める役人が減ることはありませんでした。

 その現状に耐えかねた大塩平八郎は、私塾の門弟や養子の格之助などに武装蜂起の計画を打ち明け、ついに挙兵を決意します。大砲などの火器や爆薬を整え、蜂起の前には心血を注いだ檄文(手紙)を書き上げました。

 "天下の民が生前に困窮するようではその国も滅びるであろう。政治に当たる器でない小人どもに国を治めさして置くと、災害が並び起こるとは昔の聖人が深く天下後世の人々に教戒されたところである。もう我々は堪忍できない。民衆を苦しめている諸役人を攻め討ち、驕り高ぶる金持ちを成敗することにした。生活に困っている者は一刻も早く大坂に駆けつけてほしい"(主旨)

 この檄文を極秘に摂津・河内・和泉・播磨などの村役人に送り同調を促し、建議書を江戸幕府に送りつけました。しかし、密告によってこの計画が漏れてしまい、準備が整わないまま、予定を大幅に早めた決起となりました。集合した場所は川崎東照宮です。

 川崎東照宮の跡地は、現在の大阪市北区天満にある滝川小学校となっています。入り口の脇に「川崎東照宮跡」と刻まれた石碑がひっそりと佇んでいます。遺構はありませんが、石碑の横に説明板があり、明治初期の東照宮の様子を写真で見られ、その歴史も知ることができます。

 「救民」と書かれた旗を掲げて進む平八郎の一団は、途中から農民や町民も加わり、300人ほどに膨れ上がったといいます。次々に豪商の屋敷に火を放ち、奪った米や金銀を貧民に分け与えました。しかし、幕府の鉄砲隊と対峙して死傷者が出ると、逃げ出す者もいたこともあり、味方は次第に減っていきました。

 「大塩平八郎の乱」ゆかりの史跡はもう一つあります。造幣局の正門付近、京阪国道沿いにある「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の石碑は、昭和59年・1984年に建立されました。石碑に書かれた説明によると、この場所には乱による砲弾で裂けた樹齢200年の槐があったということです。槐とはマメ科の落葉高木で、幹の高さが20mにも達します。当時の槐はすでに枯れ死してしまい、新たに若木を植えて、歴史を今に伝えています。

 結局、平八郎らによる蜂起は約8時間で制圧され、多くの町屋も焼失しました。平八郎と格之助は逃走し、靭油掛町の手拭い生地の仕入れ職だった美吉屋五郎兵衛の家に潜伏します。しかし、40日後に所在を突き止められ、2人は自決しました。平八郎、享年45。

 当時、平八郎が潜伏した場所の近く、現在の大阪市西区靭本町1丁目には「大塩平八郎終焉の地」と題された記念碑が置かれています。横にある説明板(写真)には、美吉屋宅があった場所を文化3年・1806年当時と現在で照らし合わせた2つの地図があり、興味深い資料を目にすることができます。


      

 
 平八郎の決起は失敗に終わりましたが、幕藩体制崩壊の重大な契機にもなり、新しい時代の到来を告げるものとなりました。一方、檄文は密かに書き写され、全国にその行動を伝えました。現在も大阪市北区末広町にある成正寺には、檄文の写しが保存されています。境内には、「大塩の乱に殉じた人びとの碑」や、平八郎と格之助の墓もあります。こちらも訪ねてみて下さい。

 今回ご紹介した川崎東照宮跡がある滝川小学校は、JR大阪天満宮駅から徒歩約7分。「大塩の乱 槐跡」はそこから徒歩約3分。いずれも造幣局の周辺にあります。一方、「大塩平八郎終焉の地」記念碑は、大阪市営地下鉄・四つ橋線の本町駅から徒歩約2分。その他、御堂筋線、中央線の本町駅からもアクセスできます。本町通りに面した天理教飾大分協会の前にあります。

大塩平八郎  その三 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/08/19(土) 08:15

 今回は、講談の冒頭にも出てきた与力・同心という役職について、あらためて簡単にご説明します。江戸時代の警察機構のトップは町奉行で、市中の行政・司法・警察・消防などを司っていました。町奉行に就任した有名人としては、時代劇でもおなじみの大岡越前や遠山金四郎などがいます。

 大塩平八郎が属していた与力は、その直下の組織です。警察組織の中では中核の存在で、4~5人の同心を指揮し、捜査や治安活動、さらに庶務や裁判事務などを担当しました。つまり、町奉行から与力、同心、さらに岡っ引・・・というように組織が細分化されていきます。

 当時の大坂も江戸幕府の直轄地だったため、東西に奉行所が置かれ、平八郎が与力として働いていたことは前回ご紹介しました。現在も大阪には、その与力の歴史を今に伝える史跡があります。造幣局の敷地内にある与力役宅門です。(写真)


    

     

 この瓦葺きの武家屋敷風の建物は、東町奉行所の与力・中嶋家の門です。

 当時、この付近一帯には与力の役宅が軒を連ねていたということです。しかし、現在はこの建物が唯一現存するものとなりました。大正末期に現在の位置へ移築され、昭和23年・1948年に茶室として大幅に増改築されました。その後老朽化が著しくなり、平成12年・2000年にさらに改築となり現在に至っています。

 あくまで門構えだけですが、貴重な遺構には、所々に増築の跡があり、茶室として使われた内部も残っているということです。しかし、造幣局の官舎内にあるため、常に公開はしていません。見学の際には造幣局の許可が必要です。

 一方、大阪の北区には与力、同心の名を残す場所があります。造幣局から北西に10分ほど歩くと、与力町、同心1丁目、同心2丁目の3つの町に辿り着きます。マンションなどが立ち並ぶ閑静な住宅街で、残念ながら当時の与力、同心の歴史をとどめる石碑などはありません。東にある同心1丁目1から西の与力町2までの6区画は一直線に連なっていますが、1区画に少なくとも一つは寺があり、静かな中にも厳かさも感じさせます。町のほぼ中央に位置する運動場がこの周辺を代表する大きな施設と言えるかもしれません。

 後に平八郎は与力を退職し、私塾での講義に専念します。しかし、1833年に天保の大飢饉が起こり、平八郎の人生はここから激動の時を迎えます。大坂の民衆が飢餓に喘いでいることに心を痛めた平八郎は、上司の跡部良弼に対し、蔵米(幕府が年貢として収納し、保管する換金前の米)を民に与え、豪商に買い占めを止めさせることなどを進言します。

 しかし、その跡部が幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ強制的に米を輸送し、豪商と口裏合わせをしていた張本人であり、全く聞き入れようとしません。結局、平八郎は自分の蔵書を処分するなど私財を投げ打って救済活動を行いますが、それも限界に達する時が来ます。ついに考えたのが武装蜂起でした。

 今回ご紹介した与力役宅門がある造幣局は、JR東西線の大阪天満宮駅から徒歩約10分です。その他、様々なアクセス方法がありますので、造幣局のホームページを参考にして下さい。
 
 次回は、平八郎のシリーズも最終回です。どうぞお楽しみに!







   

大塩平八郎 その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/08/12(土) 08:15

 今回、大塩平八郎が見事な謎解きを果たした舞台は大坂東町奉行所です。当時、大坂は幕府の直轄地で、老中が支配する大坂町奉行が警察・行政・司法を任されていました。大坂城下(大坂三郷)、摂津、河内の支配が目的だったといいます。東西2つの奉行所が置かれ、1ヶ月交代で執務にあたっていました。
 
 東西ともに、大阪城北西にある京橋口の門外に設置されていました。しかし、享保9年・1724年の大火事で両奉行所がともに焼失してしまい、場所を移転します。その後、東町奉行所は元の場所に戻り、西町奉行所は本町橋東詰の内本町橋詰町に移転されました。

 平八郎が勤めていた東町奉行所は当時、広大な敷地を持っており、門前は広場になっていました。表門を入って正面が玄関、右が当番所。敷地の北側が役所のエリアで、砂利が敷かれた江戸時代の法廷・白洲はその場所にあったということです。裁きを受けた罪人は、東横堀川を船で渡り、現在の難波・千日前辺りにあった刑場に運ばれ、刑が執行されました。

 その跡地は現在、大阪市中央区大手前の大阪合同庁舎1号館前にあります。「東町奉行所址」と書かれた石碑が建っています(写真)


               


 残念ながら、側に説明板などはなく、当然遺構もありません。当時の様子を知ることができるのは、この記念碑しかないのです。しかし、石碑がある通りからは、大阪城の乾櫓が見え、付近には大阪府庁、大阪警察本部などの官庁が立ち並んでいます。昔と変わらず町を機能させている様子を見ると、もはや説明いらずということなのでしょうか。

 一方で、西町奉行所の跡地は現在、大阪産業振興機構が運営する多目的ホール「マイドームおおさか」の前にあります。こちらは対照的に説明板も設置されており、大坂城の城壁があった頃の歴史から詳しく書かれています。ぜひ訪ねてみて下さい。

 平八郎の活躍の一つとして挙げられるのは、奉行所内にはびこる汚職の処理です。平八郎の相手として今回の講談にも登場した弓削新左衛門は、その西町奉行所の役人でした。新左衛門の汚職事件では内部告発を行い、その辣腕ぶりは市民の尊敬を集めたといいます。

 しかし、奉行所内は腐敗しきっていたので、平八郎の行動に反発する者も多くいました。その中での勇気ある行動は、頑固で実直な平八郎だから成せる業でした。一方で、上司である高井実徳からの信頼が厚く、その支持があったことも忘れることはできません。実際、平八郎は実徳が転勤になった際、与力を辞めています。それだけ平八郎も実徳のことを慕っていました。

 東町奉行所址は、大阪市営地下鉄・谷町線ならびに京阪電車の天満橋駅から、徒歩約5分です。

 次回は、日本を苦しめた天保の大飢饉。その時、平八郎は民衆を救うためにいよいよ立ち上がります。どうぞお楽しみに!



大塩平八郎 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/08/05(土) 08:15


 今月お届けするのは、幕府機構の汚職と戦い、民衆を救うために反乱を起こした江戸時代の役人・大塩平八郎です。

 平八郎は、江戸市中の行政、司法、警察の任にあたる与力の職に就いていた大塩敬高の子として、寛政5年・1793年に大坂の天満に生まれました。7歳の時に父母と死別し、祖父母に育てられる中、14歳で与力を継ぐため見習いとして出仕し、26歳で与力となります。

 一方で、平八郎は学問を好んだと言われ、20歳になると儒学者・林術斎のもとで朱子学を、その後陽明学を学びます。特に陽明学は独学で習得するほどの熱心ぶりでした。儒学者・頼山陽とも交わりを持ち、山陽が平八郎のことを「小陽明」と呼んでいたことからも、この学問を深く身につけていたことが分かります。

 そんな平八郎が陽明学をさらに広めるため自宅に開いたのが、私塾である洗心洞です。現在はその遺構はありませんが、大阪の市北区天満にある造幣局官舎の敷地内に「洗心洞跡」と刻まれた石碑があります。(写真)昭和43年・1968年3月、大阪市によって建てられました。さらに市の顕彰史跡にも指定されています。

 その横には、平八郎を顕彰する説明板もありますが、それによると平八郎には青年時代、3度にわたる人生観の転換があったとの記述があります。その中でも大きな転換だったのが陽明学との出逢いでした。

           
 
  平八郎は24~25歳の頃から自宅で儒学の講義をしていましたが、文政8年・1825年、32歳の時に洗心洞と名付け、本格的に塾をスタートさせました。"洗心"とは文字通り心を洗うという意味ですが、中国古代の書物・易経繋辞伝にある「聖人此レ以テ心ヲ洗ヒ、退イテ密ニ蔵ス」の文から採りました。"洞"は塾舎の意味です。

 屋敷内に講堂と塾舎を設け、塾生を寄宿させ、通学生と共に日夜、文武両道を教授しました。その門弟は40~50人に達したということです。学風は非常に厳格で、子弟の名分を正し、知行合一(知って行わないのは知らないのと同じ、知っている以上は必ず行いに表れる)の考えを重んじました。さらに平八郎は号を中斎と称し、著書「洗心洞剳記(さつき)』を刊行して、この精神を説きました。

 講談の中にもありましたが、平八郎は規則正しい生活を送っていました。午前2時に起床し、心身を清め、武芸に励みました。朝食を終え、午前5時には門弟たちに講義を行いました。その後、与力の仕事をするため奉行所に出仕し、夕方には床に就いたということです。

 その後平八郎は、自身に理解のあった上司の奉行・高井実徳が転勤となったことを契機に、与力を辞職し、洗心洞での講義に専念します。しかし、その後の天保の大飢饉に端を発する、いわゆる「大塩平八郎の乱」ではこの場所から出陣し、火の手が上がったということです。この乱については、もちろんシリーズ後半で取り上げていきますので、どうぞご期待下さい。

 洗心洞跡は、JR大阪天満宮駅から徒歩約10分、JR環状線・桜ノ宮駅から徒歩約15分です。石碑が置かれている官舎の敷地は門扉で閉ざされていて原則立ち入り禁止、訪れる際は許可が必要です。

 次回は、平八郎が謎解きに挑みます。どうぞお楽しみに!



石田光成 その五 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/07/29(土) 08:15

 石田光成の物語も今週が最終回となります。
 
 関ケ原の戦いで、光成が率いる西軍は完璧ともいえる陣形と整え、当初は優勢を誇っていました。しかし、小早川秀秋隊などの寝返りにより、戦況は一変します。

 秀秋は当時、弱冠19歳。西軍有利の戦況の中、当初は傍観の立場でした。しかし、度々使者を送ってきたにもかかわらず傍観し続ける秀秋に徳川家康は苛立ちのあまり、催促の鉄砲を撃ち込みます。ついに秀秋は西軍を裏切り、形成を逆転させました。

 西軍の各隊は防ぎ切れずに崩れていきます。光成の軍勢も討ち死にしていく中、光成は再起を誓って伊吹山へと逃れました。その後、母の菩提寺に辿り着きます。しかし、村人たちの噂になってしまったため、光成の旧知の村人である与次郎によって一時匿われます。

 それが今回の講談の場面にも登場した場所、オトチ(大蛇)の洞窟(現在の滋賀県長浜市木の本町古橋)です。(写真)現在は一部の岩が崩れて土砂が入り込んでいる場所ですが、かつては25㎡前後の岩窟だったと言われています。


    


 林道の登り口からつづら道を230mほど登ると、岩窟の入り口が見えてきます。入り口の穴は大人一人がやっと通れるような竪穴で、内部に入るための梯子が取り付けてあります。内部は真っ暗で懐中電灯が必要です。なお、この場所はクマなどが出没するので単独で行動するのは危険です。

結局、光成は自分の意思で、家康の命で捜索していた田中吉政の前に現れ、捕えられました。その後、京都の六条河原で斬首に処せられます。遺体は同じ京都の大徳寺三玄院に葬られました。現在は大徳寺の中に入ることはできず、見られるのは門前にある「石田光成公御墓地」と書かれた石碑だけです。

 一方で、1回目でご紹介した石田会館に程近い場所に、光成の一族および家臣が供養されています。その名も石田神社です。瓦付きの塀で囲まれた一角に、光成ゆかりの人物の魂が眠っています。境内にある供養塔建立の由来を見ると、この場所に供養されている理由が分かります。

 現在、この神社には八幡神社が隣接していますが、昭和16年・1941年に八幡神社の地中から欠けて残った多数の五輪塔が発掘されました。その一部に「永禄5年6月」「天正14年正月」などの文字が刻まれていたのが発見され、これらは光成の先祖に深い関係があるものと推定されました。関ケ原の戦い直後に村人が徳川方の追及から逃れるために神社を隠れ蓑にし、密かに埋め隠したものと考えられています。

 供養塔の横には、光成直筆の歌が刻まれた石碑や、光成辞世の句を記した石碑があります。辞世の句は「筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく わが身なりけり」。筑摩江を照らす、芦の間から垣間見えるかがり火とともに、自分も消えていくのだな・・・と、光成は故郷を見やりながら、自分の最期とともに、仕えてきた豊臣家の衰退にも思いを馳せたのでしょう。

 石田神社は、1回目にご紹介した石田会館と行き方は同じです。JR長浜駅から湖国バス近江長岡駅行きに乗り約20分、石田の停留所で降りて下さい。八幡神社の鳥居が目印になります。そのまま奥へ入ると、石田神社と書かれた石碑が見えてきます。石田会館からは徒歩約1分で行ける場所です。

石田光成 その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/07/22(土) 08:15

 豊臣秀吉の死後、天下を獲らんとする徳川家康が次第に台頭していき、勢力を拡げようとします。一方で、石田光成は豊臣家の安泰のためには家康を亡き者にしなければならないと立ち上がります。そして時は慶長15年・1600年9月15日、光成率いる西軍と家康率いる東軍が、関ケ原を舞台に天下分け目の決戦を繰り広げました。


 光成は決戦前夜に、関ケ原を一望できる笹尾山に本陣を置きました。それが今回ご紹介する笹尾山・石田光成陣跡(場所は現在の岐阜県関ケ原町)です。決戦地のすぐ西北に位置する、標高198mの小さな山が笹尾山です。

 麓から階段を約5分登ると展望台が見えてきますが、その付近には「史蹟 関ケ原古戦場 石田光成陣地」と書かれた大きな石碑が置いてあります。石碑にもあるように、この地は昭和6年・1931年に国の史跡に指定されました。

 展望台からは古戦場全域を見渡すことができます。光成はこの山頂から指揮を執っていました。展望台に置いてある関ケ原合戦陣形図を見ながら眺めると、よりイメージが沸くのではないでしょうか。陣形図にあるボタンを押すと、3分半にわたるBGM入りの解説を聴くこともできます。

 光成率いる西軍は決戦当初、山や丘を見事に押さえていました。あたかも鶴が翼を広げて敵を包囲しているかのような形から、「鶴翼(かくよく)の陣」とも呼ばれる必勝の陣形を構えていたのです。後に語り継がれた話では、明治政府の軍事顧問だったドイツのメッケル少佐が、この陣形図を見た瞬間に西軍が勝利すると即答したということです。光成の布陣がいかに完璧だったかを物語るエピソードです。

 笹尾山の登り口付近には、当時使われた竹矢来(馬防柵)が復元されています。(写真)


   


   

 矢来とは、竹や丸太を粗く組んで作った臨時の囲いのことです。これで敵の侵入を防ごうとし、陣地の正面に二重に張り巡らしたと言われています。騎馬の動きを防止・妨害する役目も果たすことから、馬防柵とも言われます。

 光成は手勢約6000の兵を配し、竹矢来の前面に島左近、中間に蒲生郷舎といった配下を置きました。笹尾山にはこの2人の陣跡も見ることができます。竹矢来が張り巡らされた一角には、島左近陣跡と題された説明板があります。左近は奮戦し、家康の本陣まで迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたとも言われています。その時の勇猛さは語り草となっており、鬼の左近とも称されるほどでした。

 郷舎も左近とともに終始右翼から奮闘を続けました。このため東軍は容易に笹尾山を攻めることができませんでした。西軍が劣勢になると、降伏勧告に腹を立て、敵中に躍り込みました。その後討たれたと伝えられています。

 関ケ原の町は、西軍・東軍問わず多くの武将たちの史跡が残る一大観光名所です。この番組で2月にご紹介した藤堂高虎の陣跡はもちろん、開戦地、決戦地、家康が最初に陣を置いた桃配山の陣跡など、合戦に関する史跡は20を優に超えています。ぜひ訪れてみて下さい。

 次回は、光成シリーズの最終回。関ケ原の戦いもクライマックスです。どうぞお楽しみに!

石田光成 その三 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/07/15(土) 08:15

今週は、豊臣秀吉に仕えるようになった石田光成が、賤ヶ岳の戦いでの活躍で頭角を現し、その後家臣に島左近を迎え、佐和山城の主となるまでをお聴きいただきました。

 賤ヶ岳の戦いに関する史跡は、以前にこの番組でも取り上げています。ぜひバックナンバーをご覧下さい。 今回ご紹介するのは、現在の滋賀県彦根市にある佐和山城跡です。

 
 まずはこの城の歴史を紐解いてみましょう。佐和山のある湖東地方は、東山道や北国街道、琵琶湖がある交通の要衝です。戦略上の拠点として、古くから幾度となく戦乱の舞台となりました。鎌倉時代初期に、近江を治めていた佐々木定綱の六男である時綱が、山麓に館を構えたのが佐和山城の始まりと伝えられています。

 やがて佐々木氏の勢力は湖南と湖北に分裂して対立。佐和山城は、両勢力の境目の場所として攻防が繰り広げられました。織田信長の時代には、安土城が築城されるまでの間、重臣の丹羽長秀を配した佐和山城がその代役を果たしていました。秀吉に代が変わっても、堀秀政、堀尾吉晴、そして光成の入城と、この城に重きを置く姿勢は変わりませんでした。それと同時に、城は次第に整備されていきます。

 光成が城主になったとされるのは天正18年・1590年。五層の天守を構え、山の上には本丸以下、二の丸、三の丸、太鼓丸、法華丸などが連なり、山の下には大手門が開き、堀の内には城下町も形成されていました。その後、光成が関ケ原の戦いで敗れ、彦根城の築城に伴い廃城となります。当時の建築物の多くは、彦根城や清凉寺、龍潭寺に移築されました。

 現在、麓にある龍潭寺から佐和山城跡まではハイキングコースとして整備されています。寺の参道脇には、「石田光成公像」と題された石台の上に鎮座する光成の銅像や、「石田光成群霊供養」と書かれた供養塔があります。山頂に至るまでの道のりには建造物こそ残っていませんが、石垣や土塁がわずかに見られ、城の堅固さがうかがえます。

 山頂に建っているのが「佐和山城址」の石碑です。(写真 *彦根市教育委員会文化財課提供)

  
 

 ここからは琵琶湖が一望でき、彦根城も見ることができます。光成が城主だった当時、「光成に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われた匿名の歌があったといいます。有能な島左近と立派な佐和山城は、光成にはもったいないという意味になります。いわゆる光成への風刺ですが、それだけ佐和山城が素晴らしいと思われていたことも分かるエピソードです。

 山麓には、その他にもゆかりの寺があります。清凉寺は島左近の屋敷地とされていますが、本堂の裏山には井伊家11代藩主が建てた「石田群霊碑」があります。仙林寺には光成が水を汲んだと伝わる井戸があり、山門脇にある石仏は「石田地蔵」と呼ばれ、佐和山城が落ちた後に領民たちが供養のために隠し祀っていたものです。

 彦根城周辺の寺にある宗安寺、ならびに妙源寺の通称「赤門」は、佐和山城の城門だったと伝えられています。宗安時には、光成が亡き母の菩提を弔うために建立した瑞岳寺に祀ってあったという地蔵尊像と千体仏が安置されています。一方、妙源寺の赤門に使われている柱材には無数の矢が放たれた穴の痕があり、佐和山城が攻められた時の激しさを物語っています。

 佐和山城跡は、JR彦根駅から徒歩約50分です。なお、この山は清凉寺や龍潭寺などが所有する山です。また、団体で登山を計画される場合は、山の所有者であるこれらの寺の了解を得るようにしてください。

 次回は、光成いよいよ関ケ原の戦いへ出陣です。どうぞお楽しみに!






石田光成 その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/07/08(土) 08:15

 石田光成と豊臣秀吉、初めての出会いをお聴きいただきました。その出会いの場所が、現在の滋賀県米原市にある大原観音寺です。今回は、この寺の歴史とともに、境内に残る光成ゆかりの史跡をご紹介しましょう。

 大原観音寺は、平安時代の前期にあたる仁寿年間(851~854年)に建立されました。もともとは伊吹山にあったことから、正式名称は伊富貴山観音護国寺。鎌倉中期の正元年間(1259~1260年)には現在の地に移築されています。寺の領主から手厚い庇護を受け興隆し、その後も湖北を掌握していた浅井氏から多くの寺領を保証されていました。

 本堂、鐘楼、惣門は平成4年・1992年に国の重要文化財に指定されました。その他にも様々な寺宝が所蔵されており、県や市の重要文化財に指定されています。境内には後鳥羽院が腰掛けたとされる石も置かれ、歴史にもゆかりの深い寺です。

 光成はこの寺で小姓(武将の身辺で雑用をする職)をしていましたが、鷹狩りの際にそこへ訪れた秀吉に茶を献じました。1杯目は大きい茶碗でぬるめのお茶を、2杯目は中くらいの茶碗でやや熱めのお茶を、3杯目は小さい茶碗で熱いお茶を差し出します。このいわゆる「三椀の才」に感心した秀吉にその才能を認められ、出世の糸口を作ったという話が、この寺には伝えられています。

 境内には、光成が秀吉に献じたお茶に使う水を汲んだ井戸が残されています。「太閤ニ茶ヲ献スル時 石田光成水汲ノ池」と書かれた石碑の下、小さく空いた穴に水がたたえられています。その付近にある説明板には、茶を献じるエピソードが江戸時代の逸話集「武将感状記」にも記されていることが分かります。

 一方、JR長浜駅前のロータリーには、茶を献じた様子を象った銅像があります。「出逢い」と記された石台の上に、光成、秀吉2人の全身の立像が建てられています(写真)。


    

 この頃はまだ光成は少年で、佐吉と呼ばれていました。横にある説明板には、「秀吉公と石田光成公 出逢いの像」と題され、「三献の茶」として今も語り継がれるこの時の状況が分かりやすく書かれています。像は昭和59年・1984年に建立されました。

 大原観音寺は、JR長浜駅から湖国バスに乗り、「観音寺前」停留所(先週ご紹介した「石田」停留所から2つ先)で下車、徒歩約5分です。駅前で出逢いの像をしっかり見届けてから、寺に行くと感慨がより深まるのではないでしょうか。

 次回から、いよいよ秀吉に仕えて数々の戦に向かう光成の勇姿をお聴きいただきます。どうぞお楽しみに!

石田光成 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/07/01(土) 08:15

 今月取り上げるのは安土桃山時代の武将・石田光成です。豊臣秀吉の家臣として活躍し、秀吉の死後、関ケ原の戦いでは徳川家康を打倒するために戦いました。このシリーズでは5回にわたって、光成が生まれてから生涯を閉じるまでのお話をお送りしていきます。一方、ホームページでは光成ゆかりの地をご紹介します。


 光成が生まれたのは、近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)と言われています。三成の父・正継は浅井長政の家臣で、石田村の地侍でした。この隣接地にも当時の豪族がいたことをうかがわせる地名がいくつかあるということです。石田町には現在、光成の出生を記念する場所があります。光成が生まれた屋敷跡に建つ石田会館です。光成に関する数々の資料が展示されています。

 町の公民館を思わせる外観で、光成の記念館としては存在感が乏しい印象はあります。しかし、入り口の周辺にある「石田光成公屋敷跡」と記された石碑やデフォルメされた光成の顔出しパネルがその存在を示しています。

 玄関には大きな木の置物と翁のお面が正面に出迎えており、迫力を感じさせます。中へ進むと、「石田光成史料室」があり、数々の写真資料が展示されていますが、特に目を引くのが、光成の頭蓋骨です。京都の大徳寺にある三成の墓を、研究家らが改葬した際に発見されたものです。そして「三成公の復顔像」は、京都大学に残っていた頭骨の計測値と写真をもとに昭和51年に復元されました。

  一方で、実物の史料としては、光成ゆかりの大きく立派な鎧(写真)や、当時の光成の屋敷を再現したジオラマがありました。


            

     

 ジオラマは現在の会館よりも広大な面積を誇っていたことを物語っています。三成が城主をつとめた佐和山城の復元模型は、現在天守閣が復元されていない中、貴重な資料と言えそうです。

 入り口正面の大広間には、「石田光成公の事蹟」として、数々の図説資料が展示されています。三成が幼い頃からの出来事が年表などとともに、絵で紹介されています。しかし、残念ながらここだけは撮影禁止ですので、ご注意下さい。その大広間を囲む襖の上には、全国にある光成関連の資料を紹介する数々の額が張り廻らされています。各地の寺社や個人で所蔵される肖像画や鎧の写真、光成が城主だった佐和山城の古地絵図、光成直筆の書状などがあります。あくまで写真での展示ですが、光成ファンも驚くほどの資料数ではないでしょうか。

 館の外には、三成の座像、出生地を示す石碑、三成を顕彰した歌の歌詞が書かれた石碑、関ケ原の合戦軍記を読んだ西郷隆盛が感想を述べた歌が記された石碑もあり、見所が満載です。

 なお、石田会館から北西に100mほど行ったところには、光成が産湯を汲んだといわれる井戸があります。細い路地を入ったところにあるので、道路沿いにある標識を頼りに訪ねてみて下さい。

 石田会館は、JR長浜駅から湖国バスの近江長岡行きに乗り約20分、「石田」の停留所で降りて下さい。そこから徒歩約3分でアクセスできます。入館は無料です。会館時間は、平日が午前9時30分から午後12時30分まで、土日は午後1時から午後5時までです。基本的にはほぼ毎日会館していますが、不定休となっていますので、事前に電話で確認するか、地元の観光情報サイトでパンフレットをダウンロードしてご参照下さい。

 次回は、ついに三成、秀吉との初めての出会いを迎えます。舞台は大原観音寺です。どうぞお楽しみに!

 

明智光秀 その三 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/05/20(土) 08:15

 天正10年・1582年、明智光秀は主君・織田信長に謀反を起こしました。この本能寺の変により、光秀の名が後世に語り継がれることになったことは間違いありません。
 しかし、なぜ光秀が謀反を起こそうとしたのか、その理由は解明されず、今では歴史上の大きな謎の一つとなっています。今回の講談ももちろん物語の域を超えませんが、玉秀斎さんの真に迫る語り口によって、光秀の心中がリアルさながらに描き出されたのではないでしょうか。


 事件で有名になった本能寺ですが、寺自体はどのような歴史を辿ってきたのでしょうか。今回はその点についてご紹介します。実は、紆余曲折を経て現在に至りました。建立、再建、復興の歴史です。


 応永14年・1415年、京都の油小路高辻と五条坊門の間に、日隆聖人が寺を建設したのが始まりでした。当時の名称は「本応寺」。しかし3年後、宗派内の対立が起きて、後に破却されてしまいます。


 永享元年・1429年には、寺の援護者である豪商・小袖屋宗句の援助によって内野(現在の西陣辺り)に再建されました。次いでその4年後、同じく寺の援護者・如意王丸の発願で六角大宮に広大な土地を得て移転、再建となります。この時に「本能寺」と改称します。


 しかし、天文5年・1536年、比叡山をはじめとする諸宗が京都の日蓮宗に攻撃を仕掛けた宗教戦争・天文法乱が勃発したため、寺は焼失の憂き目に遭います。

 天文14年・1545年、第12代貫主・日承聖人によって場所を四条西洞院に移転し建立。本能寺の変の舞台となったのはこの場所です。光秀の軍勢が本能寺を襲撃する中、信長は「是非に及ばず」との言葉を遺し、寺に火を放ち、自ら命を絶ちました。


 事件当時に寺があった場所は現在、特別養護老人ホームや市立高校などが建てられています。老人ホームの敷地内には、本能寺に関する2つの石碑があります。 「此附近 本能寺址」と記された碑は北東側にひっそりと置かれています。 一方で西側には「本能寺跡」と題された碑があり(写真)、この中には寺を歴史が詳しく書かれています。事件当時の寺に関する遺構はもちろんなく、今やこれらの石碑が歴史の証言者です。


      

   

 天正20年・1592年には豊臣秀吉の命により、鴨川町(現在地の寺町御池)に移転が決まりました。しかし、寺に平安は訪れません。天明8年・1788年には大火事(天明大火)により焼失。天保11年・1840年には再建がなされましたが、同じ年に武力衝突事件である禁門の変(蛤御門の変)が起きて焼失。現在の本堂が建立されたのは、昭和3年・1928年のことでした。

 
 先ほどご紹介した本能寺跡の石碑、そして現在の本能寺の「能」という字をよく見ると、常用漢字の表記とは微妙に違っていることが分かります。
 これは、度々火災に遭遇してきたことから、ヒ(火)の字が重なることを忌み、字を替えたということです。


 本能寺跡碑は、阪急京都線の大宮駅または烏丸駅から、ともに徒歩約10分です。京都駅からは地下鉄・烏丸線の四条駅で降りて、直結する烏丸駅の出口からアクセスするのが便利です。一方、現在ある本能寺は地下鉄東西線の市役所前駅すぐのところにあります。年中行事として6月2日に信長の命日の法要である「信長公忌」も行われます。
 
 次回はいよいよ光秀シリーズ最終回。明智藪をご紹介します。どうぞお楽しみに!

明智光秀 その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/05/13(土) 08:17

 天正7年・1579年、織田信長の命を受けた明智光秀は、丹波国を攻略するため軍を進め、塩見信房が居城としていた横山城を猛攻の末に落城させます。

 今回ご紹介する福知山城は、光秀がその城を丹波の拠点として大修築を行ったのが始まりです。 もともと城地は標高約40m、幅約100mの丘陵の上に位置し、さらに周囲を由良川・土師川が流れ、四方が守られた場所にありました。

 光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町には地子銭(税金)を免除する特権を与えて、商家を育てたとも伝えられています。


 一方で、福知山城の縄張りを行う際には、治政に反抗的だった近隣の社寺を打ち壊し、石塔などを天守台の石垣に利用したとも言われています。

 いかにも戦国の乱世ぶりを物語るエピソードです。天守の一部は、その後の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されています。

 
 明治時代には、廃城令によって本丸、二の丸の建物が取り壊され、堀も埋められ、残されたのは天守閣周辺の石垣や門の番所だけになりました。

 しかし、市民の熱い思いで昭和61年・1986年に天守閣が再建されました(写真)。もちろん当時は写真のない時代なので、外観は絵図をもとに復元したということです。


         


 石垣は自然の石をそのまま用いて積み上げるという豪放なもの。乱雑にも見えますが、石材は奥に長く用いられていて、強固に組み上げられています。

 天守閣の内部は現在、福知山市郷土資料館として公開されていて、城に関する資料や福知山の歴史・文化財が紹介されています。しかし、残念ながら撮影はできません。最上階からの眺めは抜群で、城下町の様子や川の流れ、遠くの山並みなどがよく見られます。城として使われていた当時の様子に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 城には、石落としと呼ばれる、隙間から直下の敵に攻撃を行う防御施設も再現されています。天守閣の東側には、豊磐の井と呼ばれる深さ50mという大型の井戸があり、今も海抜30mの高さまで清らかな水をたたえています。
 城郭内にある井戸としては日本一の深さだということです。一方、福知山城の本丸跡は現在、福知山城公園として整備されています。


 外装を天守閣に似せた雰囲気の櫓が立っていますが、その内部は福知山市立美術館です。地元出身の画家による作品を中心に展示されています。
 福知山城(福知山市郷土資料館)は、JR山陰本線、福知山線、または京都丹後鉄道宮福線の福知山駅から徒歩約15分です。開館時間は午前9時から午後5時(入館は午後4時30分まで)。休館は火曜日(祝日の場合は翌日)。入館料は、大人320円・供(小・中学生)は100円です。

 次回は、光秀がついに信長に謀反を起こす、本能寺の変です。どうぞお楽しみに!




  

明智光秀 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/05/06(土) 08:15


 今月も戦国武将を取り上げます。物語の主人公は明智光秀です。

 光秀といえば、最も有名なのが本能寺の変。主君である織田信長に対して謀反を起こした事件です。なぜ光秀は本能寺の変を起こして信長を自害へと追い込んだのか、今でも歴史上の大きな謎の一つとなっています。
 シリーズ後半では、光秀が謀反を起こすに至るまでの心境を、玉秀斎さんならではの語り口でご紹介します。こちらもどうぞご期待下さい!


 さて、物語は光秀が信長に仕えるところから始まりました。今回ご紹介するのは、光秀が築いた坂本城です。
 信長は、比叡山の焼き討ちを行った後、抵抗勢力が陣取る延暦寺の監視や琵琶湖の西や南の地方をおさえるために、光秀に支配を命じました。そこで光秀は、琵琶湖に通じる交通の要所である坂本の地に元亀2年・1571年、城を築きます。


 光秀は築城に造詣が深く、琵琶湖の水を上手く利用し、城郭に大天守、小天守を持った豪壮華麗な造りに仕上げました。今回の講談の中にもありましたが、当時、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスは著書「日本史」で安土城に次ぐ名城であると記しています。

 
 その後、およそ10年にわたって光秀が城主を務めましたが、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた翌日、光秀の家臣である明智秀満が光秀の一族とともに城に火を放ち自害したため、坂本城は焼失しました。その後再建はされましたが、秀吉が大津城を築いたことで建造物などもそちらへ移築。結局、戦略的な役割も譲ることとなり、廃城となりました。

 
 坂本城のあった一帯はその後開墾され、現在は大半が宅地となっています。遺構はほとんどありません。しかし、その功績を称える場所があります。坂本城址公園です。道路に面して「坂本城址」と刻まれた大きな石碑が建っています。
 そこから駐車場を通り抜けると、芝生の広場が見えてきます。ここに、坂本城に関する石碑などが多数あります。


 坂本城の説明板では、当時の城の縄張り図が紹介されています。琵琶湖に面して本丸があり、その西側に二の丸、三の丸が広がっています。この図からは、城址公園が当時の城の敷地とは別の場所にあることが分かります。
 城の石垣は現在、琵琶湖の中に眠っていて、渇水の時でないと見ることはできませんが、説明板にはその石垣の写真が掲載されているので貴重です。その他、焼け落ちた瓦の写真や、城に関する歴史・年表もまとめられています。

 
 その隣にあるのが光秀の石像。公園内で最も目を引きます。石台の下には彼の業績を説明した石碑、すぐ横には光秀が詠んだ歌が刻まれた碑もありました。(写真)
 光秀は優れた武将であっただけでなく、当代一流の文化人とも親交を持ち、茶の湯、連歌、詩歌などにも精通した文化人であった旨が記載されています。


    


 さらにその隣には、「光秀(おとこ)の意地」と題された歌詞が記された石碑があります。歌手の鳥羽一郎さんが2007年・平成19年にリリースしたシングルで、人間・光秀の生き様をとらえ、魅力を再発見しようと企画された作品です。石碑は坂本観光協会が建立しました。


 公園から北に歩いて数分の所には、「坂本城本丸跡」の碑があります。
 機器製造会社の研修所の入り口に石碑があり、坂本城の歴史や、当地の発掘調査の結果などが記されています。なお、本丸跡は現在、会社の敷地になっており、残念ながら入ることはできません。

 
 そこから西に数分歩くと、坂本城址を示すもう一つの石碑が建っています。二の丸と三の丸の中間ぐらいに位置しています。説明板によると、昭和54年・1979年に行われた発掘調査で、焼土の中から城の一部と見られる建物の磁石や、石組みの井戸、池、溝、石垣の基礎石などが検出されたことが分かります。

 
 坂本城に関する史跡以外にも、この地域には「明智塚」と呼ばれる場所もあります。坂本城が落城した際に光秀の脇差名刀や宝器物を埋めた跡、ならびに光秀一族の墓所であるということです。こちらも訪ねてみて下さい。坂本城址公園は、JR比叡山坂本駅から徒歩約20分です。

 次回は、福知山城をご紹介します。どうぞお楽しみに!

黒田官兵衛 その五 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/04/29(土) 08:15


 黒田官兵衛のシリーズもいよいよ最終回、そして三木合戦もクライマックスに入ります。

 羽柴秀吉は三木合戦の際、平井山(現在の兵庫県三木市平井)に本陣を置き、二人の軍師を作戦にあたらせていました。一人はもちろん今月の主人公・黒田官兵衛。そしてもう一人は、美濃(現在の岐阜県)出身で秀吉とは主従関係を超えるほどの深い友情を分かち合ってきた竹中半兵衛です。二人は後に"両兵衛"、"二兵衛"、とも呼ばれ、高い評価を受けています。


 三木合戦の真っ只中、半兵衛は胸を病んでいました。秀吉の勧めで一時は京都に移って療養していましたが、なかなか進展しない戦況を心配し、また平井山の本陣に帰ってきました。
 しかし、病魔には勝てず、天正7年・1579年6月13日、半兵衛は36歳の若さで亡くなります。臨終の時には、秀吉に対して"将来の天下人"と予言し、息を引き取ったとも言われています。秀吉は人前もはばからず、遺体に取りすがったということです。


 半兵衛の墓は現在、平井山の東南の山麓にひっそりと祀られています。山に続くぶどう畑の真ん中、白い練り塀に囲まれた一角に、「竹中半兵衛重治墓」と刻まれた墓石があります。敷地内には墓に関する説明板も見られます。


 これとは別に地元の老人会が昭和48年・1973年に作成した説明板もありました。内容はこちらの方が詳細ですが、文字が薄れていて読みづらくなっています。しかし、それによると、秀吉は半兵衛の策略家としての才能を見抜き、何とか家臣として迎え入れるために何回も口説いていたことが分かります。
 その他には、江戸後期の儒学者・山田翠雨がこの墓地を参拝した際に詠んだ漢詩を紹介した説明板もあります。


 半兵衛の墓地からなだらかな丘陵を数分歩くと、平井山に置いた秀吉の本陣跡が見えてきます。
 天正6年・1578年7月、織田信長の長男・信忠が三木城を支援する神吉城や志方城(ともに現在の兵庫県加古川市)を攻略した後、ここに築城したとされています。8月には秀吉が入り、10月には茶人・津田宗久を招いて茶会が催されました。


 平井山は、30ヶ所以上ある三木城攻めの付城(城を攻めるための城)群のうち、最大規模を誇ります。主郭の南西方向には三木城を望むことができ、尾根上の山道は「太閤道」とも呼ばれていたということです。(写真)
 現在、遺構などは残されていませんが、山頂に展望台があり、三木市の町並みを眺めることができます。


    


 三木合戦で秀吉は、三木城の周辺にあった別所長治方の城を順に滅ぼし、最後に三木城を多くの軍勢で包囲しました。これで長治軍は補給路が断たれて苦しい状況に追い込まれました。三木の干し殺しとも呼ばれる兵糧攻めです。長治は2年近く籠城を続けましたが、やがて食料は底をつき、飢える兵士が増え、戦力を失います。


 打つ手はないと考えた長治とその一族は、城内の家臣や領民を助けるため、自ら命を絶ちました。三木合戦はついに幕を閉じます。
 以前にご紹介した三木城跡にある長治の辞世の句碑には、「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」(自分が死ぬことで、長年親しんできた多くの領民の命が救われるならば、何の恨みもない)と記されています。

 今回ご紹介した竹中半兵衛の墓、ならびに秀吉本陣跡は、神戸電鉄恵比須駅から徒歩約30分です。近くには三木平井山観光ぶどう園があり、ぶどう狩りのシーズンである8月から9月にかけては恵比須駅から無料送迎バスが運行しています。

黒田官兵衛 その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/04/22(土) 08:15

 前回から続く三木合戦のお話です。


  黒田官兵衛が仕える羽柴秀吉の軍は、謀反を起こし三木城に籠る別所長冶を攻めていました。開戦から数ヶ月が経った頃、事態は急転します。今度は、秀吉軍に属していた荒木村重が突然、戦線を離脱し、居城としていた有岡城に戻ってしまいました。
 こちらも織田信長に対し反旗を翻したのです。時は天正6年・1578年7月、有岡城の戦いの始まりです。


 さらにこの時、官兵衛の主君だった小寺政職も村重に呼応しようとしました。これを知った官兵衛は、村重を説得すべく有岡城に乗り込むことにしました。しかし、面会は叶わず、官兵衛は牢屋に幽閉されてしまいます。


 今回ご紹介する有岡城跡は、JR伊丹駅から出てすぐのところにあります。 

 南北朝時代から伊丹氏の城として発展してきた伊丹城がその前身です。その後、天正2年・1574年11月に村重が伊丹氏を破って入城を果たし、有岡城と改名しました。


 当時の城の構造としては、「主郭部」、家臣が住む「侍町」、一般の町人が住む「町屋地区」に分かれていました。
 これらを含む東西0.8キロ、南北1.7キロの範囲を堀と土塁で囲み、北・西・南にそれぞれ砦を配しました。なお、このような城下町をも城の中に取り込んだ構造を「惣構(そうがまえ)」といいます。


 後に廃城となっても、城下町のうち町屋地区はそのまま残り、江戸時代には酒造りの町として栄えました。一方、城は放置されたままで、地元の人たちからは「古城山」などと呼ばれていました。堀の跡や土塁が残っていましたが、明治時代に鉄道(現在の宝塚線)が開通したことで大半が取り壊されました。


 しかし、昭和50年・1975年から行われた発掘調査により、土塁の石垣や建物跡など貴重な遺構が残されていることが分かりました。発掘調査から4年後には、国の史跡に指定されました。


 現存する有岡城跡は平成5年・1993年、当時の主郭部を整備して史跡公園としたものです。 「史跡 有岡城跡」と記された石碑を入り口にして、模擬石垣を階段で上って行くと、様々な史跡を見ることができます。
 
 
 入ってすぐのところに、城主である村重の生涯が詳しく書かれている説明板や、城の歴史を説明した石板があり、基礎知識を深めることができます。そして石垣(写真)や土塁、井戸跡、礎石建物跡があり、発掘調査の成果が確認できると同時に、当時の様子が再現されています。


  

  

 一番奥には、さらには懐古園の石碑があります。

 懐古園は、明治時代にこの地一帯の所有者が城跡が朽ちていくのを惜しみ、修復して永く後世に伝えようとしましたが、果たせずに亡くなり、その未亡人が碑を建ててお祀りをした場所です。石碑とともに、碑文の概要が書かれた説明板があります。その他、村重とその妻が読み交わした歌が綴られた石碑も見られます。


 JR伊丹駅前カリヨン広場には、官兵衛ゆかりの藤があります。有岡城に幽閉された際、官兵衛は、力強く咲く藤の花を見て、生きる勇気を得たということです。これは官兵衛が城主だった姫路城内の藤を採取し、接ぎ木をして育てたものです。官兵衛が主人公のドラマが放映され話題になったのを機に、地元のPR活動の一環で行われました。


 有岡城跡が近くにあるJR伊丹駅は、大阪駅から宝塚線快速で2駅、13分で着きます。なお、伊丹市にはその他にも、有岡城の砦の一部が残されている猪名野神社、城に関する出土品が展示されている伊丹市立博物館、伊丹市立伊丹郷町館などがあります。こちらも訪ねてみて下さい。


 次回は、官兵衛シリーズ最終回。三木合戦の結末やいかに。どうぞお楽しみに!

黒田官兵衛 その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/04/08(土) 08:15

 黒田官兵衛が頭角を現してきた当時、播磨国(現在の兵庫県)は、東から織田信長、西からは毛利輝元とそれぞれ巨大な勢力が迫り、どちらにつくかという緊迫した状況でした。小寺家に家老として仕えていた官兵衛は、家を代表して信長を訪ねることに決めました。そして、信長に臣従を誓うことになります。


 これを知った毛利輝元は、信長の勢力が育つことに危機感を覚え、天正4年(1576年)約5000の兵を引き連れ、英賀(現在の姫路市飾磨区)に上陸します。官兵衛が守る姫路城から約8キロの場所です。一方、迎え撃つ官兵衛の兵は500。前回ご紹介した青山の合戦と同様、多勢に無勢と言っても過言ではありません。そこで官兵衛は、様々な策を練ります。

 まず、毛利軍は水軍だったため、上陸して間もない頃は船に長時間揺られていた疲れで態勢が整っていないと判断し、そこを狙って奇襲攻撃をしかけました。さらに、近くの山に農民を潜ませ、大量の軍旗を持たせました。これで毛利軍は敵の援軍が来たと勘違いし、混乱に陥り敗走。官兵衛の勝利に終わります。


 古代から水の要所として知られていた英賀は、室町時代に大きな発展を遂げました。一時は「播磨最大の都市」と言われ、上記で述べた通り、戦に翻弄された都市でもあります。ここからは、英賀に古くから残る遺構をご紹介しましょう。


 英賀城は、別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城と称されました。英賀城の本丸があった場所は、今や住宅地に埋没しています。
 「英賀城本丸之跡」と記された石碑が、道路に面して生け垣で囲われた一角にありました。英賀城に関する説明板もあります。

 
 説明板によりますと英賀城は、南は海、西と東は川に面し、北は湿地帯で、守るのに都合の良い城だったということです。鎌倉時代には砦が作られていましたが、室町時代になると播磨の守護大名・赤松氏の一族が守りました。
 しかし、嘉吉の乱によって勢力を失った後は三木氏が城主となり、城をさらに整えました。


 天正8年(1580年)に羽柴秀吉に滅ぼされるまで約140年間、三木氏はその周辺を支配し、一大勢力を誇っていました。城内には本丸・二の丸をはじめ、一族がそれぞれ大きな屋敷を構えていました。また、多くの寺院や商人の住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町として大いに賑わいました。


 英賀城の土塁は現在、本丸跡の碑から歩いて10分ほどの所の英賀神社にあります。

 本殿の裏にある社殿の一角に、「英賀城土塁」と記された石碑のような佇まいで、その一部を見ることができます。
 秀吉による落城後は、城と城下は焼き尽くされ、各地に残っていた土塁も昭和13年(1938年)に行われた区画整理によってほとんどが消滅してしまったため、この土塁は大変貴重な遺構となっています。その脇にある参道を抜けると英賀城跡公園がありますが、その中央には当時を思わせる模擬石垣が広がっています。(写真)



  


 「英賀城本丸之跡」碑は、山陽電車・西飾磨駅から徒歩約10分、英賀神社ならびに英賀城跡公園はJR英賀保駅から徒歩約10分です。

 次回からは三木城主・別府長冶との戦い。
 官兵衛らが本陣を移した書寫山圓教寺をご紹介します。
 
 どうぞお楽しみに!

黒田官兵衛 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/04/01(土) 08:15

 
 放送開始から1年を迎えました。
 これからも、様々な関西ゆかりの人物・史跡にスポットを当てていきます。どうぞご期待下さい。

 今回ご紹介するのは、戦国屈指の軍師・参謀として知られている黒田官兵衛です。
 生まれは現在の兵庫県姫路市とされています。まずは、官兵衛と姫路の関係から紐解いてみましょう。


 黒田家は、官兵衛の祖父・重隆の代に姫路に移り住みました。
 秘伝の目薬に広峯神社のお札をつけて売り大成功をおさめ、財を成しました。その後、播磨の有力な豪族だった御着城の小寺氏の家臣となり、姫路城の管理・守衛を任されます。それは息子の職隆の代も続きました。


 黒田家の公式な記録「黒田家譜」によると、天文15年(1546年)11月29日、父・職隆、母・明石氏のもとで官兵衛は生まれました。その聡明さは早くから主君に認められ、16歳で側近に、22歳で家老にまで上りつめます。


 そんな中、事態が動き出します。
 永禄12年(1569年)8月9日、播州龍野城の主・赤松政秀は3000人余りの兵を率いて、姫路城を攻めようと進撃してきました。官兵衛は父・職隆のもとを離れ、赤松軍を迎え撃ちます。


 廃れ行く龍野藩の勢力を何としても奪回しようとする政秀、一方で生誕地である姫路城を何が何でも守らなければならない官兵衛、両者の思いがぶつかります。青山・土器山の戦いです。


 官兵衛は土器山(現在の姫路市下手野)に布陣し、そこへ赤松軍は菅生川(現在の夢前川)を渡って迫りました。官兵衛の手勢はわずか300、赤松軍のおよそ10分の1しかありませんでした。一時は赤松軍の多勢に押され悪戦苦闘、官兵衛は退去する策を練ります。
 しかし秘策を尽くし、敵の油断を突いて不意撃ち、挟み撃ちをした結果、青山(現在の姫路市青山)まで追い詰めて赤松軍を撃退しました。


 現在も残る古戦場跡は、何とゴルフコース内にあります。
 青山ゴルフクラブの10番ホールと18番ホールにまたがる千石池周辺がその場所と言われています。(写真)コースを仕切るフェンスの外側には、古戦場を示す石碑が置かれています。


    


 「史蹟 黒田官兵衛古戦場跡」と題された石碑には、官兵衛が赤松軍を破り初陣を飾った旨が記された碑文も刻まれています。石碑の傍には、黒田家の家紋である藤の木や目薬の木を植えるなど、ゆかりの地としての整備も行われています。
 さらに古戦場跡の説明板や、青山合戦絵図などもあり、当時の状況を詳しく知ることができます。


 「黒田官兵衛 古戦場跡」は、姫路駅から車で約20分です。徒歩で数分の範囲に最寄り駅がありませんので、車での移動をおすすめします。石碑はゴルフコースの敷地外にありますので、許可なく見学できます。
 そして石碑の後ろへ進むと、フェンス越しに戦場とされる千石池を望むことができます。


 次回、官兵衛は英賀の戦いに参戦します。どうぞお楽しみに!


 

濱口 梧陵  その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/03/04(土) 08:15

 3月に入りました。まもなく東日本大震災から6年が経とうとしています。

  地震による津波などの影響でいまだ多くの人が避難を余儀なくされていますが、その一方で復興に向けての動きも一歩一歩進められています。


  今月のこの番組では、関西ゆかりの歴史的人物とともに、震災や復興についてあらためて考えるきっかけとなっていただければ幸いです。

 そこで、この度取り上げるのは濱口梧陵です。大手調味料メーカー・ヤマサ醤油の第7代当主としても名を馳せますが、安政南海地震の際に津波から村人を救った功績が称えられ、後に明治の文豪ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の著書「A Living God(生ける神)」にも登場することになります。

 さらには、これをもとにして小学校教師・中井常蔵が著した物語「稲むらの火」は昭和12年から10年間、小学国語読本に採用されました。梧陵の名が後世に残ったのは、彼らの伝承によるところも大きいといえます。

 今月の4回にわたるシリーズでは、濱口梧陵の生涯を振り返りながら、その功績を辿っていきます。

   梧陵は文政3年・1820年、紀伊国有田郡広村(現在の和歌山県有田郡広川町)で生まれました。幼名は七太。紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男だった七太(梧陵)は、12歳の時に本家の養子となり、銚子で家業である醤油醸造を継ぐことになります。この頃、名を義太に改名しました。

 梧陵の邸宅は現在、「濱口梧陵記念館」として公開されています。
  生涯学習、社会教育活動、地域コミュニティやボランティア活動など、地域の総合的な交流を深めるための拠点施設です。

  中は畳敷きの部屋になっていて、梧陵にまつわる展示室が4つあります。展示室1と2では、梧陵の生い立ちから晩年までを模型や説明文などで振り返ることができます。
 その一つ、誕生から14歳までを紹介した「七太・義太の章」のコーナーには、今回の講談にもあった濱口家の家憲(家訓)が書かれていました。

 「たとへ主人と雖も 其の少年時代の逸楽安居を許さず。 一には自ら困苦に堪へうる習ひを養ひ 一には人を率ゐるの道を知らしめん」(たとえ主人といえども、少年時代に遊び暮らすことを許さず。一つには自ら困難に立ち向かう態度を養い、一つには人を率いる道理を得る。)

 
  梧陵はこの家憲にならい修行し、その倫理観が血となり肉となり、後の思想と生き方の根幹になっていったのです。

  家憲が書かれた額の下には、12歳で本家の養子となり、丁稚と寝食を共にしながら家業にいそしむ梧陵の姿が模型で再現されています。その他、展示室3では梧陵ゆかりの甲冑や肖像画など貴重な史料、展示室4では梧陵史跡マップや関係書籍などが閲覧できます。

 
 さらに、濱口梧陵記念館から歩くこと約200mの場所には、講談の中でも紹介があった「東濱口家住宅」があります。(写真)

         

     


 本宅・本座敷・三階棟他の含む3つの主要な建物から構成されています。本座敷には、勝海舟が書いたと伝わる書も架けられています。


 東濱口家は、初代濱口吉右衛門(現在のヒゲタ醤油に連なる)を祖とし、江戸で「廣屋」という醤油問屋を営んでいました。江戸で商いをしながらも故郷・広村への貢献は絶やしませんでした。安政の大津波が起きた際には、梧陵とともに堤防の築造を行いました。


 その隣には「東濱口公園」があり、一部赤レンガの外堀で囲われた敷地に岩や池を配した庭園が広がっています。住宅は基本的に公開されていないのに対し、この公園は中に入ることができます。 桜、さるすべり、紅葉など四季折々の木々を配置した日本庭園になっていて、安政の津波跡の碑もあります。


 濱口梧陵記念館がある「稲むらの火の館」は、JRきのくに線・湯浅駅から徒歩約15分です。開館時間が午前10時から午後5時、休館日は月・火曜日と年末年始です。
 なお、毎年11月5日も津波防災の日は開館となります。入館料は一般500円、高校生200円、小・中学生は100円です。


  一方、東濱口公園は、開園時間が午前10時から午後5時(11月から2月の間は午後4時30分まで)、休園日は月・火曜日と年末年始です。入園料は無料です。


  次回は、梧陵が故郷に置いた学び舎「耐久舎」をご紹介します。どうぞお楽しみに!

藤堂高虎 その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/02/25(土) 08:15

 藤堂高虎の物語は最終回を迎えました。今回の舞台は、大阪府八尾市本町にある常光寺です。


 高虎は、慶長19年・1614年の大坂冬の陣、翌年の夏の陣と徳川方(東軍)に従軍します。
 夏の陣では、高虎軍が豊臣方(西軍)である長宗我部盛親の軍と常光寺門前で遭遇。激戦の末、双方とも多くの戦死者を出しました(八尾の戦い)。

 藤堂軍は主な家臣71人、その部下約200人が犠牲となりました。


 しかしこの時、常光寺は何の被害も受けませんでした。
 当時、ここを抱え寺として保護していたのが以心崇伝。臨済宗の僧で、徳川家康に仕え外交事務など行政に関わっていた人物です。
 そのため家康は「寺を荒らすな」との禁札を出して、雑兵の心無い乱暴を厳重に戒めたといいます。


 戦が終わり、高虎はこの寺の縁側で敵軍の首実検をしたと言われています。首実検とは、討ち取った敵の首を、大将が本物かどうか確かめる作業のことです。
 とても残酷な光景ですが、部下が挙げた戦功をいかに表彰するか判定する材料としての側面もあり、当時は重要な儀式として行われていました。

 
 高虎が首実検をした廊下は一面に血が染み付いたため、後にその板は天井に上げられました。それが「血天井」と呼ばれ、現在も残っています。

 実際に見た感じでは、これが血の跡だと明らかに分かるところはありませんでした。
 しかし、褐色の天井板は、明らかに今使われている廊下よりも色が濃く、艶もありません。そもそも古い板ですし、血に染まったことで全体が変色したのでしょうか・・・。
 戦から400年を超えた今、できるのは想像することだけです。


 一方、境内には夏の陣で犠牲になった家臣71人の魂が眠っています。「藤堂家臣七十一士墓」です。前列には高さ90cm、または150cmの五輪塔が6つ並び、後列には小さな五輪塔が肩を並べるように配置されています。(写真)


       
     

 前列の6つの塔は右から、桑名弥次兵衛・藤堂勘解由・山岡兵部・藤堂仁右衛門(最も大きな塔)・藤堂新七郎・藤堂玄藩のもので、高虎軍の中で重要な職を務めた6人です。


 墓地の脇に「勢伊死事碑」と呼ばれる石碑があります。
 宝暦14年・1764年の戦没150回忌にあたり、遺族らが冥福を祈るために建てられたものです。
 この時には藤堂家が字を刻み、寺には銀千両が寄進されました。
 碑には東軍の動き、後の戦死者が奮戦した当時の状況、碑を建立した由来が彫られています。


 阿弥陀堂には、高虎と、上記で述べた重臣6人の位牌が祀られています。中央の最も大きい位牌が高虎のものです。その前にあるのが七十一士の芳名で、一人ひとりの名前が確認できます。


 また、寺のホームページでは貴重な古文書が見られます。高虎が夏の陣に参戦した際、遠距離にいるため参れないという便りを寺へ送った「藤堂高虎書状」や、家康が関ケ原の合戦後に常光寺を戦乱から守るため出した文書「徳川家康禁制」などです。


 常光寺は、近鉄八尾駅から徒歩約6分です。
 駅の西口からつながる商店街を約500m進み、左手に見える「ファミリーロード」を約50m進むと、右手に山門があります。寺の名前が書かれた看板がアーケードに面しているので、それを目印にして下さい。

 なお、今回ご紹介した血天井や墓、位牌は、本堂のある敷地とは隔てられた場所にあります。
 住職など寺の関係者を訪ねた上で、見せてもらうことをおすすめします。

 

藤堂高虎 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/02/04(土) 08:15

   今月ご紹介する関西ゆかり人物は、戦国時代には武将として活躍し、江戸時代には大名となった藤堂高虎です。

 何度も主君を変えた人物として知られる一方、城を築く技術に長けていることから"築城名人"の呼び声もあります。今でも様々な歴史的評価がなされる高虎にスポットを当て、その生涯や戦いの足跡、築いた城などをウォークしていきます。


 高虎は弘治2年・1556年、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町大字在士)で生まれました。現在もそこには高虎ゆかりの地があります。「藤堂高虎公 出生地跡」と「高虎公園(在士高虎公園)」です。


 在士村の民家が立ち並ぶ一角に、小さな公園があります。「藤堂高虎公 出生地跡」です。高虎の出生地であることを示す石碑がありました。表には「伊勢國安濃津城主 藤堂髙虎公出生地」と刻まれていて、裏には高虎の功績などが記されています。
 園内の説明板には、藤堂家の正史「宗国史」を紐解き、そこから高虎の出生地が今の在士村であることが裏付けされています。


 「高虎公園」は、平成元年・1990年に出生地としてのシンボル作りの検討が進められたのが始まりで、その2年後から建設が始まりました。やはり目を引くのが大きな高虎の騎馬像。出陣する高虎の勇ましい姿が精巧に象られています。

 高虎が指差す先は、藤堂家ゆかりの神社・八幡神社です。八幡神社については後ほどご紹介します。

 この騎馬像は彼の功績を称える史跡の中でも最高級のものと言えるのではないでしょうか。
 なお、公園の総面積の半分ほどを占める池の中央に像が佇んでいるので、玉秀斎さんの講談にもあった通り、近寄ることはできません。


 この騎馬像の周りにも、様々な史跡が見られます。
 「高虎公ゆかりの残念石」(写真)は、高虎が徳川幕府から命じられ京都府加茂町の大野山から切り出されたものです。



          

         

 本来は大阪城再建のために使う目的でしたが、結局使われることなく木津川に取り残されていました。その後、村の顕彰事業として運び込まれ、平成11年・1999年に現在の場所に設置されました。
 重さは約11トンの巨大な石には、藤堂家の栄光を示す記号と寸法が刻まれています。


 「駒止め石」は、辞世の句が書かれている石碑ですが、詳しい説明板はありませんでした。
 「藤堂宗家 家紋入り灯篭」には、蔦の紋様のくり抜きと浮き彫りが見られます。
 この2つはいずれも藤堂家第15代の高正氏によって平成16年・2004年に寄贈されました。


 高虎公園から約200m続く「高虎の道」を進むと、八幡神社(在士八幡神社)が見えてきます。高虎の8代前の先祖にあたる景盛が石清水八幡宮の祭神の霊を分けて祀るために建立したのが始まりとされています。


 境内には、子孫繁栄を祈願した樹齢250年の「紫藤樹」があります。
 石清水八幡宮から分祀する際、藤を一株持ち帰って植えたのが始まりです。その子孫である二株が数百年の時を経て巨樹となり、現在に至っています。

 昭和40年・1965年には町の指定文化財・天然記念物に指定されました。
 毎年5月上旬には「藤切祭」が行われ、切り取られた藤の房を東京にある藤堂家に贈るのが慣わしとなっています。
 藤の房は希望すれば見物客にも贈られます。史跡巡りとともに、鮮やかな藤の絶景もお楽しみ下さい。


 出生地、高虎公園および八幡神社は、最寄りの近江鉄道・尼子駅からそれぞれ徒歩約20分です。JR琵琶湖線では河瀬駅が最寄りです。いずれの駅からも湖国バスが出ています。「甲良町役場前」の停留所で降りて下さい。
 3ヶ所とも近い所に集中しているので、高虎公園内にある地図などを参考にすれば簡単に巡ることができます。


 次回は、関ケ原の戦いで高虎が陣取ったとされる跡地をウォークします。どうぞお楽しみに!

豊臣秀吉 その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/01/28(土) 08:15

 いよいよ太閤・豊臣秀吉のシリーズは最終回を迎えました。今回ご紹介するのは、秀吉が最期を迎えた場所、現在の京都市伏見区にある伏見城です。

 天正20年・1592年、秀吉は聚楽第(前回を参照のこと)を甥の秀次に譲り渡すと、隠居後の住まいとするために伏見指月に城の建設を始めました。これが初代の伏見城(指月山伏見城)です。しかしその後、大地震により倒壊したため、木幡山に移されました。初代と区別して木幡山伏見城とも呼ばれます。

 残念ながら移築して1年後に秀吉は亡くなってしまいますが(死因は病気など諸説あり)、五大老の一人・徳川家康がこの城に入り、政務を執りました。関が原の戦いの前哨戦・伏見城の戦いで城は焼失、その後家康の命により再建されます(徳川伏見城)。しかし、次第に軍事的な重要性を失い、元和9年・1623年に廃城となります。

 本丸の天守は二条城へ移るなど、多くの建物は全国各地に移築されました。廃城後は一帯が開墾されますが、その地に桃の木が植えられたことから、桃山という地名が生まれました。

 跡形も無くなった伏見城ですが、その遺構とも言うべき建物が現存しています。現在の伏見桃山城運動公園内にある天守です。〔写真)


    

 これは、近畿日本鉄道のグループ会社である株式会社・桃山城が昭和39年・1964年に開園した「伏見桃山城キャッスルランド」という遊園地の目玉建造物でした。いわゆる模擬天守です。キャッスルランドには当時、ジェットコースターやゴーカート、プールなどの遊戯施設もあり、ピーク時には100万人近くの入場者がいたということです。しかし、その後経営難となり、平成15年・2003年1月に閉園となりました。

 その後は、京都市により運動公園として平成19年・2007年に開設されました。模擬天守はその際に解体される予定でしたが、地元の要望もあり残されることになったのです。天守は今も伏見のシンボルとして親しまれ、映画やドラマの撮影などにも活用されています。

 キャッスルランドの入り口だった立派な城門をくぐると、すぐに大天守、小天守の2つが見えてきます。模擬天守とはいえ、本当に武将たちがいたのではないかと思わせるほどの精巧な造りで迫力がありました。しかし、耐震基準を満たしていない可能性があり危険なため、残念ながら中に入ることはできません。

 天守の他には、野球場や多目的グラウンドがあり、取材に訪れた日には運動に励む幾人かの子供がやってきていました。そこにはもはや遊園地時代の賑わいはありませんが、模擬天守には当時の活気が取り残されているような不思議な思いをしました。

 伏見城の模擬天守がある伏見桃山城運動公園は、近鉄・京阪の丹波橋駅から徒歩約15分、JR奈良線の桃山駅からは徒歩約10分です。

豊臣秀吉 その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/01/14(土) 08:15

 今回ご紹介するのは、現在の滋賀県長浜市にある賤ヶ岳、その戦場跡です。


 天正十年・一五八二年、豊臣秀吉は山崎の合戦で明智光秀の軍勢を打ち滅ぼしました。その後、秀吉は日に日に発言力を増していくと同時に、信長の後継者を期待する声も高まっていきます。しかし、こうした動きに激怒し、阻もうとしたのが、織田家の重臣・柴田勝家です。両者の間で権力争いが生じ、ついに武力という形で表面化することになりました。賤ヶ岳の合戦です。火蓋が切って落とされたのは翌年四月二十日の明け方でした。

 賤ヶ岳の古戦場へは、JR余呉駅からスタートする二種類のハイキングコースと、その一つ隣の木の本駅から山麓の大音まで行きリフトで頂上へ行くという、主に三つの方法があります。今回は道中で合戦に関する史跡が見られるコースを辿ります。江土登山口から大岩山の山林を抜けて賤ヶ岳の山頂へ向かうハイキングコースです。

 登山口から歩いて1.9km、大岩山の中腹に見えてきたのが中川清秀の墓です。中川清秀は秀吉側の武将で、賤ヶ岳の合戦の際には大岩山を砦として守っていました。大岩山は当初、左に賤ヶ岳、右に岩崎山、前方に神明山と味方の軍に囲まれていて、比較的安全な位置にありました。

 これらの山々に囲まれた余呉湖を挟んで、秀吉軍と勝家軍が北と南でしばらく睨み合いを続けていました。しかし、勝家側の武将・佐久間盛政は秀吉の不在を知るや大岩山に奇襲をかけたのです。清秀は不意をつかれる形になるも応戦。一時は盛政の軍を余呉湖岸まで退けました。しかし、清秀も最後は力尽き、配下とともに討ち死にを遂げました。

 生い茂る樹木の下、「中川清秀公之墓所」と記された石碑の横に、柵で囲われた墓石がありました。この墓は1百回忌の時に建立されたもので、毎年、命日には法要が行われています。さらに先へ進むと首洗い池がありますが、この池で清秀の首が洗われたと伝えられています。しかし、清秀の奮闘によって秀吉の軍は態勢を整えることができ、盛政を討ち取って最終的に勝利をおさめます。賤ヶ岳の合戦における象徴的な場面に思いを馳せることができる貴重な史跡の数々です。

 秀吉の陣地となっていた「猿が馬場」を過ぎ、ついに山頂である賤ヶ岳の古戦場へ。北側には余呉湖、南西側には琵琶湖と、眼下には絶景が広がっています。ベンチやテーブルが用意されていて、景色を見ながら休憩ができます。そんな美しい風景を楽しむ現代の私たちとは対照的に、武将たちはあまりにも激しい戦いを繰り広げていました。余呉湖は血潮で赤く染まったとも言われています。

 山頂には様々な史跡があります。特に目を引くのが武将の像です。兜を脱ぎ、岩に腰掛ける武将の姿・・・。〔写真)


    
 

 武将といえば勇ましいイメージがありますが、少し違います。像の前にある説明文によると、場面は秀吉軍が合戦で勝利し、勝家軍が撤退するところです。命を懸けた戦が終わっても、さらに戦に赴き続けなければならない己の宿命を想い、勝利しても手放しで喜んではいられない武将たちの気持ちをこの像に込めたということです。

 その他、賤ヶ岳古戦場を解説した木の説明板、合戦図、さらに七本槍古戦場賤ヶ嶽の碑もあります。七本槍とは、加藤清正、福島正則など、この合戦で勇猛果敢に働き、後に秀吉を天下人へと押し上げるきっかけとなった七人の若武者を指します。一方で、合戦の端緒を開いた盛政の説明板もあります。盛政が深追いしずぎたことが勝家軍敗戦の原因の一つである旨が書かれていました。
 上記で述べたように、賤ヶ岳古戦場へは2種類のハイキングコースでアクセスできます。今回ご紹介した余呉湖の東側・大岩山の尾根を伝って進む「歴史と森林浴コース」は片道4.2km、余呉湖の西側の湖畔を進む「歴史と余呉湖半コース」は片道5.2kmです。

 一方で、JR木の本駅からは湖国バスで山麓まで15分、タクシーでは10分です。山麓からは6分ほどリフトに乗り、「賤ヶ岳古戦場」の停留所へ。さらにそこから約15分で山頂に辿り着きます。

 次回は、秀吉が修築を行った京都御所をウォークします。どうぞお楽しみに!

豊臣秀吉 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2017/01/07(土) 08:15

 二〇一七年最初の放送をお聴きいただきました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 
 新年のシリーズ第1弾は豊臣秀吉です。関西ゆかりの歴史上の人物として、秀吉の名を真っ先に挙げる方も多いのではないでしょうか。


 秀吉といえば、番組ホームページのタイトル横にある写真でもおなじみの大阪城が最も有名ですが、近畿地方には、その他秀吉ゆかりの城が多く残っています。

 秀吉が初めて築いた居城である長浜城(滋賀県長浜市)、その後の出世の拠点となった姫路城(兵庫県姫路市)、明智光秀の征伐後に築いた山崎城(京都府乙訓郡大山崎町)、秀吉の弟・秀長が築いた和歌山城(和歌山県和歌山市)、秀吉が隠居した後の住まいだった伏見城(京都府京都市伏見区)などです。


 新年最初のシリーズでは、それらの城も含め、秀吉の激戦地などをご紹介します。今回は、天下分け目の天王山でおなじみ「山崎の合戦」の跡地です。


 時代は、天正年・一五八二年に起きた本能寺の変に遡ります。
 六月二日、明智光秀は京都の本能寺に宿泊していた主君の織田信長に対して、謀反を起こし襲撃。この事態を知った信長は自ら命を絶ちます。

 信長死去の知らせは備中松山城(現在の岡山県)を攻略していた秀吉にも届き、急いで京都へと向かうことになりました。一方、光秀はそれに備え、御坊塚(現在の京都府大山崎町の東北端)に本陣を敷きます。六月十三日の夕方、ついに両軍は天王山付近で激突します。いわゆる山崎の合戦(天王山の戦い)です。


 JR山崎駅を出て線路沿いをしばらく歩くと、線路を横切る歩道があります。そこが天王山の登山口に繋がっています。

 「天王山 登り口」と書かれた石碑と、天王山の歴史などを詳しく記した案内板が目印です。それらを横目に、急坂をしばらく登っていくと、今度は宝積寺が見えてきます。
 宝積寺は奈良時代に建立された古い寺で、秀吉とは直接関係ありませんが、ここを経由すると、矢印に沿って頂上へと辿り着けるので便利です。つまり、天王山ハイキングコースとして整備されているのです。


 宝積寺から約600m登ると、ようやく史跡が見えてきました。「山崎合戦之地」と刻まれた石碑です。
 この石碑は地元の大山崎町が山崎の合戦を後世に受け継いでいくために昭和58年に建立したものです。裏には合戦についての説明や石碑を建立した意義などが記されています。


 その横には「旗立松」があります。
 秀吉は合戦の際、天王山へ駆け登り、味方の士気を高めるために松の木の上に高く軍旗を掲げました。
 これを見た秀吉の軍は一気に敵陣内に攻め入り、光秀軍はその結果防戦一方になり総崩れとなってしまいました。

 その後光秀は近江へと落ちのびていきます。その松も明治中頃まで枯れ木として残っていたということですが、その後4回の植樹を経て、現在は6代目に至っています。秀吉軍にとっては、まさに山崎合戦における勝利の象徴といえるかもしれません。


 近くには旗立松展望台もあり、京都の盆地や大阪の平野を眺めることができます。〔写真)


     
 

 設置された案内図には、秀吉軍と光秀軍の布陣が描かれていて、眼下に広がる現在の風景と見比べることができます。登り続けて疲れた体を休めるには絶好の場所といえます。


 酒解神社の大鳥居をくぐり、ハイキングも後半、いよいよ山頂を目指します。残り約3三百メートルですが、頂上に向けてさらに急な勾配が続きます。
 階段ともつかない岩石を一つ一つ踏みしめて、ようやく山頂に辿り着きました。山頂は広場のようになっていて、山崎城跡の説明板があります。
 
 秀吉は山崎の合戦で勝利した翌月、山頂に山崎城を築き、大山崎を城下町として保護しました。しかし、大阪城の築城が本格化すると、同じ年の12月には山崎城は天主ともども取り壊されました。現在は山頂の木にくくり付けられた、「天下分け目の天王山」の旗が目印です。

 天王山の山頂へは、JR山崎駅から徒歩約五十分です。
 山頂に至るハイキングコースには「秀吉の道」と題した案内板が全部で6ヶ所あります。
 本能寺の変から秀吉が天下統一を果たすまでを物語にした陶板絵図です。作家・堺屋太一氏による解説文、日本画家・岩井弘氏による屏風絵です。これらを鑑賞しながらハイキングをすれば、より戦国の世に思いを馳せることができるでしょう。


 次回の舞台は賤ヶ岳。山崎の合戦に勝利した秀吉は、信長の後継者争いへと突入していきます。どうぞお楽しみに!




赤穂義士 その五 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/12/31(土) 08:15

  「玉秀斎の関西講談ウォーク」2016年最後の放送をお聴きいただきました。同時に、赤穂義士伝の最終回となりました。

 最後のご紹介は、講談の冒頭にも登場した、兵庫県赤穂市にある花岳寺です。

 花岳寺は、正保2年・1645年、初代の赤穂藩主である浅野長直により、浅野家の菩提寺として建立されました。刃傷事件により浅野家が断絶した後の、歴代赤穂藩主(永井家・森家)の菩提寺ともなっています。平成元年、即ち1989年には赤穂市の史跡に指定されました。

 入り口の門をくぐると、すぐに本堂が見えますが、その前には大きくそびえ立つ松の木がありました。「二代目大石なごりの松」と呼ばれるものです。当然、なごりの松に関するエピソードは「一代目」にあります。

 その切り株が、二代目の松の斜め向かいにある千手堂という名の休憩所に記念保存されていました。切り株になっているのは、昭和2年・1927年に松食い虫によって枯れ死したためです。播州でも有名な松として天然記念物に指定され、樹齢310年という貴重なものでした。

 一代目の松は、大石内蔵助が、母が亡くなった時に冥福を祈るために植えたものです。浅野内巨頭の切腹の日からちょうど10年前のことでした。その後、浅野家が断絶となり、赤穂から立ち退く際、内蔵助が先祖の墓を詣で、この松のもとで名残を惜しみ旅立ったことを指し、後世の人々から「大石手植えの松」「大石なごりの松」と呼ばれるようになりました。

 その思いを受け継ぐ二代目の松の横には、「鳴らずの鐘」があります。〔写真)


           

 吉良邸への討ち入りで無念を晴らし、四十六士が切腹したという知らせが赤穂に届き、町民はその死を悼み、花岳寺に集まりました。死を悼むあまり、鐘を撞いて撞きまくったことで、音韻を失い、鳴らずの鐘になったのだそうです。

 本堂に入ると、天井いっぱいに描かれた「竹に虎」の絵が目に入ります。赤穂義士には関係ありませんが、赤穂出身の画家・法橋義信によるもので、物凄い迫力。一見の価値はあります。本堂内には、赤穂事件の説明や、吉良家・浅野家それぞれの家系図も見られます。

 境内の奥にあるのは、義士の墓所です。四十七士の墓はもちろん、大石家先祖の墓、義士の家族の墓、浅野家三代(長直〔初代藩主〕・長友〔内巨頭の父〕・長重〔長直の父〕)の墓などがあります。

 義士宝物館には、50点余りの品々が展示されています。中でも、内蔵助から花岳寺へ送られた暇乞状は、討入りの前日12月13日付けで、家来に届けさせたものです。討ち入り直前までの動向が書かれているものでとても貴重です。

 一方、義士木像堂には大石家の守り本尊である千手観音が安置されています。内蔵助は吉良邸討ち入りの際にも、この千手観音を肌身につけていたということです。さらに、この観音像を見守るように、左右に四十七士の木像があり、厳粛な空気が流れています。しかし残念ながら、宝物館、木像堂ともに撮影は禁止。ぜひ直接ご覧になって下さい。

 花岳寺は、JR播州赤穂駅から徒歩10分です。息継ぎ井戸からスタートすれば、矢印の案内に従って、花岳寺、赤穂城跡と、これまでご紹介した赤穂義士ゆかりの地を迷わずに巡ることができます。

 播州赤穂の城下町は、今こそ整備されていますが、戦を強く意識し、城に簡単にたどり着けないよう複雑に作られた当時の町割りがよく残っているということです。その辺りも探訪してみてはいかがでしょうか。今回ご紹介した以外にも、町には、義士たちの宅跡や、義士ゆかりの寺などが点在しており、赤穂義士の世界を存分に味わえます。

 来年1月は豊臣秀吉ゆかりの地をウォークします。どうぞお楽しみに!

赤穂義士 その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/12/24(土) 08:15

 前々回から、義士たちのお膝元である兵庫県赤穂市内の史跡を巡っています。今回ご紹介するのは、国の史跡にも指定されている赤穂城跡です。

 まずは、簡単に赤穂城の歴史を辿ってみましょう。正保2年・1645年に常陸国笠間藩から領地を移した浅野長直が、家臣の近藤三郎左衛門に築城の設計を命じ、慶安元年・1648年から13年にわたる歳月を費やし完成しました。

 城郭の規模としては、角に設けられた櫓の数が10、門の数は12で、敷地を囲う距離は2847mに及んでいました。石塁、防壁、本丸御殿などは整えられましたが、天守は築かれず、天守台のみ構築されたということです。

 浅野家は3代続きましたが、江戸城・松の廊下における刃傷事件により断絶。その後は永井家、森家の居城となりました。明治時代の廃藩置県後には、赤穂城は払い下げられ、民有地となりました。

 しかし、城郭復興の機運が高まります。大正元年・1912年には前々回にご紹介した大石神社が建立され、昭和3年・1928年には本丸内に赤穂中学校(後の赤穂高等学校)が竣工。さらに昭和15年・1940年には城跡が風致地区(良好な自然景観を維持するため都市計画で定められた地区)に指定され、その12年後に都市公園の計画が決まりました。そして、昭和46年・1971年には国史跡に指定されます。

 JR播州赤穂駅からお城通りを真っ直ぐ行くと、大通りと交差する二つ目の十字路に突き当たり、櫓が見えてきます。これは三の丸大手門の隅櫓で、大手門防備の要でした。

 そこから大手門をくぐり、道なりに行くと、前回ご紹介した大石内蔵助の屋敷跡である長屋門が見えてきます。その向かいには赤穂城の設計を担当した近藤三郎左衛門の息子、源八の屋敷の長屋門があります。こちらは土日祝日に内部の公開が行われています。

 赤穂大石神社(前々回をご参照)を横目にしばらく真っ直ぐ進むと、見えてくるのが本丸門です。(写真)



      


 この門は廃城後に取り壊されていたのを復元したものです。発掘調査の成果や絵図、古い写真などの資料を参考にして、平成4年・1992年から4年かけて作業が行われました。門の近くにある説明板では、取り壊し以前の本丸門の写真も見ることができます。

 いよいよ本丸の敷地内へ。面積は約15.114㎡あり、その3分の2は領主の屋敷、番所(番人の詰め所)、倉庫などの建物と天守台、庭園に設けられた池などに占められていました。残る3分の1は「くつろぎ」と呼ばれる空地でした。敷地内には本丸御殿の見取り図と説明板があり、当時の様子を詳しく知ることができます。本丸庭園は、二の丸庭園とともに、平成14年・2002年に国の名勝に指定されました。一方、天守台は本丸の南東部にあり、高さ9mに及ぶ立派な石垣が築かれています。

 赤穂城跡はその他に、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれています。毎年12月14日の赤穂義士祭の舞台となるのはもちろん、4月には花見スポットとして、5月には草花に触れ親しむイベント「花と緑のフェスティバル」の開催地として多くの人が訪れます。

 アクセスは、JR播州赤穂駅から徒歩20分です。本丸以外は年中無休で開園しています。本丸は午前9時から午後4時30分(入園は午後4時まで)、年末年始は12月28日から1月4日までが休園です。近くには赤穂市立歴史博物館があり、郷土資料はもちろん、映像室「赤穂義士シアター」もあり、事件の概要をまとめた映像や忠臣蔵を題材にした文楽作品の上演風景の一部を収録した映像の2種類を上映しています。

 次回はいよいよ赤穂義士伝の最終回。義士たちの墓がある花岳寺をご紹介します。どうぞお楽しみに!


    

赤穂義士 その三 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/12/17(土) 08:17

 江戸城・松の廊下における刃傷事件で、浅野内巨頭は切腹。さらに浅野家は官職を解かれ(改易)、武家の家名も取り消される(断絶)ことになりました。

 この知らせを地元である赤穂の浅野家へ届けようと、二丁の早駕籠が用意されます。講談の最後にも出てきましたが、その二丁の早駕籠で早水藤左衛門、萱野三平が目的地の赤穂城へ入る前に一息ついた場所が、現在の兵庫県赤穂市にある息継ぎ井戸です。

 JR播州赤穂駅から赤穂城へと真っ直ぐ延びるお城通りを5分ほど歩くと、最初の十字路を迎えますが、その一角に見えてきます。
 「息継井戸」の文字が刻まれた石碑とともに、瓦屋根付きの構造物の下に井戸はありました。

 説明板には息継ぎ井戸についてだけでなく、この地域一帯に流れていた「赤穂旧上水道」に関しての言及もあります。良い飲料水を得るために、近くを流れる千種川から取水し、赤穂城内や城下町へと配水したものだそうです。日本三水道の一つとも言われていて、早駕籠に乗った2人が喉の渇きを癒すにはちょうど良い水だったのではないでしょうか。

 そして彼らが辿り着いた場所が、大石邸長屋門です。門口26.8m、奥行き4.8mの建物で、屋根瓦には二つ巴の大石家の家紋がついています。ここで内蔵助は祖父、父と三代で57年にわたり住んでいました。

 門の前には「史蹟 大石良雄宅址」と記された石碑があります。門から入ることはできませんが、前回ご紹介した大石神社の境内を通って、中の様子を見ることができます。つまり、この長屋門は神社の境内に含まれているのです。

 長屋門の内側には、当時の早駕籠を再現したものがありました。駕籠の横には当時の様子を描いた絵とともに、説明書きがされています。

 それによりますと、江戸から赤穂までの170里(680km)を、通常15~16日かかる距離をわずか4昼夜半で到着したということです。
 しかし、早駕籠は乗っている人が血を吐くほど中がとても揺れるという、とても過酷な乗り物。それを通常の何倍もの速さで運んだというのですから、乗った藤左衛門と三平がいかに苦労をしたか、途中で一息ついて井戸の水を飲む気持ちも分かるというものです。
 同時に、刃傷事件の影響がいかに甚大であるかが計り知れるエピソードでもあります。

 この長屋には、大石内蔵助と息子の主税が朝夕と出入りしていたといいます。
 大広間には、到着した藤左衛門と三平が、刃傷事件の悲報を大石父子に伝える場面が等身大の人形を置いてリアルに再現されています。〔写真)



     

    

 早打状を読む内蔵助、その前で正座をする主税、2人の前でひれ伏す藤左衛門と三平。人形がよく出来ていることもあり、あたかもその場にいるかのような緊迫感があります。

 さらに、長屋の前には、一帯に広がる庭園があります。内蔵助夫婦や子女がそぞろ歩きをし、嬉々として戯れ遊んだ場所です。
 大きな瓢箪池の周りには、牡丹や枝垂桜など多くの花や樹木があり、近くにある休憩場所からそれらを眺めることができます。中でもご神木とされる「大楠」は、幹まわりが4.0m、根元周囲は5.9m、樹高21.0mあり、樹齢が300年以上と言われています。松の廊下刃傷事件からすでに300年余りですから、その当時からあったものかもしれません。

 最初にご紹介した息継ぎ井戸は、屋外にあるのでいつでも見学ができます。井戸の隣には、からくり時計・義士あんどんがあり、朝9時から夜8時までの間、毎正時に動きます。一方、大石邸長屋門ですが、外観はいつでも見られますが、内部は大石神社が拝観できる午前8時30分から午後5時までしか見られません。

 次回は、赤穂城跡をウォークします。どうぞお楽しみに!

赤穂義士 その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/12/10(土) 08:15


 赤穂義士伝は第2弾を迎えました。

 前回は大阪にある赤穂義士ゆかりの地をご紹介しましたが、今回はいよいよ、そのお膝元である兵庫県赤穂市へ向かいます。

 JR播州赤穂駅の改札を出てから、地上へと降りる階段の壁面には、四十七義士の絵と大きな2枚の額が飾られていました。絵は、赤穂義士たちを題材にしたすごろく「新版 誠忠義士伝双六」によるもので、討ち入り姿を描いています。江戸時代末期から明治時代中期にかけての浮世絵師・歌川芳虎の作で、1850年前後に出版されたということです。

 一方で2枚の額には、それぞれ浅野内巨頭と大石内蔵助による辞世の句が書かれています。さらに駅構内には赤穂観光協会のアンテナショップもあり、義士の法被を着た受付が対応してくれるので、自然と史跡巡りへの興味が高まります。

 今回ウォークするのは、今回の講談にも登場した四十七義士の一人・岡島八十右衛門の像も見られる赤穂大石神社です。

 播州赤穂駅の南出口を出て、正面から延びる道をしばらく真っすぐ行くと、赤穂城の櫓が見えてきます。赤穂大石神社は、その赤穂城跡の敷地内にあります。大正元年・1912年に内蔵助をはじめ四十七義士、そして松の廊下刃傷事件の第一報を知らせるべく赤穂へ向かった萱野三平などを合祀して創建されました。

 表門に続く正面の参道の両脇には、四十七義士の石像が一体ずつ並んでいて、厳かな雰囲気を漂わせています。取材したのは平日でしたが、それにも関わらず多くのツアー客が訪れ、ガイドの説明に耳を傾けていました。表門は「義芳門」と呼ばれ、この番組で10月にご紹介した神戸市の湊川神社にある神門を昭和17年・1942年に移築したものです。

 この神社は、義士史料館としても充実しています。まずは木像奉安殿。中に入ると、正面には内蔵助と内巨頭、2体の木像が目に入ります。奥には、その他の義士47体の像もあります。ここにある木像は、おなじみの討ち入り姿を象ったものではなく、史実や逸話をもとに、作者のイメージも加えて義士の日常の姿を彫った、いわゆる"人間赤穂浪士"とも言うべきものだそうです。なお、八十右衛門は机の前に座り、勘定奉行として交渉にあたる姿が象られています。

 宝物殿ならびに宝物殿別館は、本殿の横に位置しています。赤い文字で「忠臣蔵」と書かれた大きな陣太鼓が目印です。(写真)


     


 内蔵助が持っていた刀と脇差、主税の短刀、さらには討ち入り時に使った采配、内蔵助がデザインした盃、堀部安兵衛の鎖頭巾・鎖帷子など、貴重な史料が展示されています。

 一方、別館の見どころは、「両国橋引揚の場」という名の模型ではないでしょうか。義士たちが討ち入り後、泉岳寺へ向かう途中、隅田川に架かる両国橋から引き揚げる場面を再現しています。部屋の大半を占めるほどの大きな橋の模型に義士一人ひとりの歩む姿。躍動感があります。

 赤穂大石神社は、JR播州赤穂駅から徒歩15分です。拝観は午前8時30分から午後5時までで、年中無休です。境内に入るのは無料ですが、史料館に入るには拝観料450円が必要です(中学生以下は無料)。
 境内にはその他に、内蔵助の石像、赤穂浅野家・大坂藩屋敷の庭にあったとされる舟石、第64-65代内閣総理大臣・田中角栄の筆による「義士發祥之地」の石碑などもあり、見どころ満載です。

 次回は、江戸城・松の廊下での刃傷事件、その知らせを赤穂に届ける二丁の早駕籠のお話です。どうぞお楽しみに!

赤穂義士 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/12/03(土) 08:17


 十二月は赤穂義士をテーマにお送りします。

 冬になると、赤穂義士を題材にしたドラマが放映され、今や風物詩となっています。
 ぜひ講談の方でも楽しんで、季節を感じていただければと思います。


 今回ご紹介するのは、講談の冒頭にもありました大阪府天王寺区の吉祥寺です。ここは赤穂義士墓所として、大阪市顕彰史跡第195号に指定されています。

 曹洞宗の寺院で寛永7年・1630年に開山しました。
 赤穂藩主・浅野家の祈願所でもあり、浅野内巨頭は参勤交代の途中に度々訪れて、寺を大切に守ってきました。
 当時の11代目住職・縦鎌和尚は赤穂の出身で、内巨頭とも親しい間柄だったということです。


 その後、かの有名な内巨頭による江戸城中での刃傷事件(殿中・松の廊下)、そしてその後の四十七士による吉良邸の討ち入りがありました。
 結局、元禄16年・1703年に大石内蔵助をはじめ四十六士が幕府の命令によって切腹となります。一方で足軽だった寺坂吉右衛門は切腹を免れ、浅野本家に討ち入りの報告に向かう途中に吉祥寺に立ち寄り、四十六士の遺髪や遺爪などを供養したとされています。


 地下鉄谷町線・四天王寺前夕陽ヶ丘駅の出口から谷町筋を北に進むと、赤穂義士が着ていた装束と同じ、黒と白のだんだら模様が描かれた塀が見えてきます。
 入り口の真っ赤な門とともに、色彩のコントラストが鮮やかです。門をくぐって、まず左手に見えてくるのが大石内蔵助の石像です。「全機透脱 内蔵助良雄」を刻まれた石台の上に刀を持った内蔵助が鎮座しています。

 中を少し進むと、今度は右手に圧巻の光景が広がっていました。 四十七士全員が象られた石像です。〔写真)



           


 一人ひとりが名前の書かれた石柱とともに紹介されています。

  討ち入り姿を描いた躍動感ある群像は、平成14年・2002年12月、義士討ち入りから300年を記念して、大阪義士会が建立したものです。
  寺所蔵の浮世絵を手本に立体化し、中国の石工と住職が作り上げたということです。なお、これらの石像に手を触れることはできません。


 その石像群を正面にして、右手には四十七義士の墓所があります。
 中央にある五輪塔は、浅野内巨頭の墓。それを挟んで右に大石内蔵助の墓、左に大石主税の墓があります。さらにその周囲を、その他44人の義士の戒名と行年を刻んだ玉垣が取り囲んでいます。

 吉祥寺は多くの災禍にも遭ってきました。大正5年・1916年には火災により全焼。その後再建されましたが、昭和20年・1945年の大阪大空襲で貴重な品々  を納めた蔵などが全焼するなど壊滅的打撃を受けました。 しかし、義士の墓だけは奇跡的に焼け残っていたということです。


 その義士の遺志を伝えようと、毎年12月には大阪義士祭が行われます。
 戦前から行われてきた伝統の行事です。討ち入りのあった12月14日にちなみ、その日に近い日曜日(今年は11日)に開催されます。
 午前10時から始まり、奉納武道、太鼓、落語、三味線の披露があります。

 三味線の披露と同時に、こども義士時代行列も行われます。

 子供達が赤穂義士の衣装を着て、吉祥寺をスタート・ゴールに大阪城や新世界、通天閣、四天王寺周辺などを練り歩きます。
 現在は寺の塀にちびっこ義士募集の張り紙があり、参加申込書も手に入れることができます。参加したい方はぜひどうぞ。


 吉祥寺は、地下鉄谷町線の四天王寺前夕陽ヶ丘駅・1番出口から徒歩3分です。

 拝観時間は午前9時から午後4時30分で、基本的に出入りは自由となっています。大きな門扉が開いていて、中の様子が見えるので、入りやすい雰囲気です。


 


 

石川五右衛門  その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/11/25(金) 08:15

 当番組のパーソナリティ・旭堂南陽さんはこの度、四代目玉田玉秀斎を襲名いたしました。


 今週からタイトルを「玉秀斎の関西講談ウォーク」と改めてお送りします。玉田玉秀斎の名は関西講談では約100年ぶりの復活ということです。玉秀斎さんの今後のご活躍もお祈りいたします。そして番組の方も引き続き、関西ゆかりの人物、史跡をたくさんご紹介していきます。ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。


 いよいよ石川五右衛門シリーズは最終回を迎えました。
 盗めば盗むほど庶民の期待が高まっていく五右衛門は、さらに世間を驚かせるために、現在の大阪府三島郡島本町にある水無瀬神宮へと向かいました。

 水無瀬神宮は、後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇を祭神として祀る神社です。
 承久3年・1221年の承久の乱で後鳥羽天皇は幕府軍に敗れ、その後流された先の隠岐島で没します。天皇に仕えていた水無瀬信成・親成親子は、天皇がこよなく愛した水無瀬離宮の跡に御影堂を建てて、その菩提を弔いました。これが水無瀬神宮の起源とされています。


 この番組で10月にご紹介したJR島本駅近くの桜井駅跡から、西国街道を東に進み、さらに右折すると「水無瀬神宮」と記された大きな石碑と鳥居が見えてきます。
 その鳥居をくぐり、砂利の参道を真っ直ぐ進むと、神門が待ち構えています。ここに五右衛門の手形があります。〔写真)



          


 門に向かって右側には「石川五右衛門の手形」と題して、説明板が取り付けられていました。

 その説明版には、「当神宮神宝の大刀を盗まんと数日間忍びうかがいしも神威にうたれ、足一歩も門内に入れず、この門柱に手形を残し立去ったと伝えらる。」と書かれています。

 五右衛門が門前でどう頑張っても動けなかったのは、神の威力によるものだったようです。手形は金網に覆われている上、神門の周辺は樹木が生い茂っているため薄暗くなっており、残念ながら手形の跡をはっきりと確認することはできませんでした。

 
 では、五右衛門が入れなかった境内へとご案内しましょう。

 門のほぼ正面に見えるのが拝殿、その左側にあるのが客殿です。
 客殿は豊臣秀吉が家臣の福島正則に造営を命じ、寄進したと言われています。さらに後水尾天皇が愛好した茅葺きの茶室も残っています。客殿と茶室はともに国の重要文化財にも指定されています。
 その他に、普段は公開されていませんが、画家・藤原信実によるとされる国宝・後鳥羽天皇像をはじめ、多くの絵画や文書類が所蔵されています。

 
 一方で、参拝客の絶えない場所があります。

 「離宮の水」と呼ばれる水汲み場です。境内から湧き出る水は、古くから名水とされていました。昭和60年・1985年には環境省から全国名水百選に認定され、大阪府下では唯一だということです。

 「名水百選 離宮の水」と記された石碑の後ろに手水舎があります。
 朝早くから、容器を何個も持ち出して取水する人が多く訪れていました。取水時間は午前6時から午後5時までです。手水舎には、取水時の注意書が貼ってありますので、よく読んでから使用して下さい。


 水無瀬神宮は、最寄りがJR島本駅または一つ隣のJR山崎駅、阪急京都線の水無瀬駅で、ともに徒歩15分です。
 西国街道に面する整骨院の横に「水無瀬神宮」と書かれた石碑がありますので、それを目印に路地を入るとアクセスできます。

 今回ご紹介できなかった中には、五右衛門が"絶景かな、絶景かな"と感嘆したエピソードで有名な京都市左京区の南禅寺、五右衛門の墓がある京都市東山区の大雲院など、ゆかりの地がまだまだあります。こちらも訪ねてみて下さい。


 12月は赤穂義士ゆかりの地をウォークします。どうぞお楽しみに!

石川五右衛門 その三 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/11/19(土) 08:15

 石川五右衛門の物語は第3弾を迎えました。
 今回の舞台は、京都市伏見区にある藤森神社です。


 五右衛門は豊臣政権五奉行の一人・前田玄以に追われていましたが、逃げ込んだ先が藤森神社でした。前田玄以は神社に対し身柄の引渡しを求めましたが、管轄が違うという理由で拒否されてしまいます。
  神社側の前田玄以への応対によって逃げ切ることのできた五右衛門は、その返礼として、宇治にある浮島十三重石塔の笠石を盗み、手水場の台石として神社に寄進することにしました。


 藤森神社の西門から鳥居を二つくぐり、見えてくるのが手水舎です。
 ここにある手水鉢の台石こそが、五右衛門が浮島十三重石塔から盗んできた笠石なのだそうです。(写真)


      

   

 前回は、浮島十三重石塔の碑文には五右衛門に関する言及がなかったことをご紹介しましたが、この手水舎には五右衛門についての言い伝えが残っていました。


  社務所による説明板には確かに「十三重の塔の上より五番目の石を石川五衛門がもち来たりし者と云われており」と書かれています。
  さらに、関連性を証拠づけるためでしょうか、「現在十三重の塔を見るとその部分だけ石の色が違っているのがわかる。」とありました。


 実際に二ヶ所を取材してみると、何度確認しても他の石と色は変わらず、塔の笠石と手水鉢の台石の大きさも明らかに違うように思えます。
  しかし、大事なのは真相を検証することよりも、歴史のロマンを感じることなのではないでしょうか。

 講談にもあった通り、五右衛門は百地流忍術の使い手。もしかしたら五右衛門は忍術を使い、石の大きさまで変えたのかもしれません。
 いろいろな想像を巡らせることこそ、歴史探訪の楽しみでしょう。


 藤森神社についてもご紹介します。

 今から約1800年前に神功皇后によって創建された、皇室ともゆかりの深い神社です。勝運や学問、そして馬の神社として広く知られています。神社では毎年5月5日に藤森祭が行われ、菖蒲の節句発祥の祭として知られています。

  節句に飾る武者人形には藤森の神が宿るとされています。菖蒲は尚武に通じ、尚武は勝負に通じると言われ、勝運を呼ぶ神として信仰を集めています。
 さらに、「日本書紀」の編者で、日本で最初の学者・舎人親王を祭神として祀っていることから、学問の神として崇められています。受験シーズンには、勝運と学問、両方の神様からご利益を授かろうと、多くの受験生が合格祈願に訪れます。


 昔から神社と馬の関わりは深く、室町時代には走り馬が行われ、その後、藤森祭の駈馬神事として受け継がれています。
 毎年11月の第2または第3月曜日に行われるシンシン祭には馬主、騎手をはじめ競馬関係者、競馬ファンが参拝し、馬の神様として親しまれています。今年は21日に行われます。


  藤森神社は、京阪電鉄の墨染駅から徒歩7分、JR藤森駅からは徒歩5分です。京都市営バスからは藤森神社前で降りて下さい。

 なお、当番組のパーソナリティ・旭堂南陽さんはこの度、4代目玉田玉秀斎を襲名し、今月25日には襲名披露興行が行われます。
 襲名により、次回から「玉秀斎の関西講談ウォーク」と題を改めてお送りしていきます。今後ともご愛顧のほどよろしくお願いいたします。


 次回は、五右衛門シリーズの最終回です。舞台は水無瀬神宮。ここで五右衛門は信じられない事態に遭遇します。

 どうぞお楽しみに!

石川五右衛門 その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/11/12(土) 08:15

 石川五右衛門シリーズの第2弾です。

 今回ご紹介するのは、講談の終盤にも登場した、京都府宇治市宇治にある「浮島十三重石塔」です。

 浮島十三重石塔は高さが約15m。現存する日本最大の石塔とされ、重要文化財にも指定されています。五右衛門が珍しいものを盗もうと、狙いを定めたのがこの石塔です。宇治川の中洲に浮かぶ塔ノ島に建てられています。
                                       
  

 浮島十三重石塔のルーツは、近くに架かる宇治橋にあります。

 宇治橋は大化2年・646年に初めて架けられましたが、激流などの影響で流失してしまいます。その後はしばらく中断していましたが、弘安9年・1286年に西大寺の僧侶・叡尊により再建されることになります。

 再建にあたって叡尊は、橋の流失は魚霊の祟りによるものであると考え、宇治川の殺生禁断令を朝廷に要請しました。そして、川一帯での網代漁を禁止するとともに、上流の中洲に漁に使う道具を埋め、その上に石塔を建立しました。
 これが現在ある浮島十三重石塔の原型です。つまり、この石塔は宇治橋再建の成就を祈るものであると同時に、魚霊の供養塔でもあるのです。

 しかしその後、この石塔が災難に遭います。宝暦6年・1756年に未曾有の大洪水によって崩壊し、以後150年もの間、石塔は川底に埋没してしまうのです。発掘されたのは明治41年・1908年。再建や修復を経て現在の姿になっています。

 浮島十三重石塔の台石には、1000文字にもわたる碑文が記されており、上記で述べた内容がさらに詳細に説明されています。
 しかし、この中には五右衛門に関する記述は残念ながら見つかりませんでした。

 明治時代に発掘された際には、頂にある九輪石(先端の細長い石)や上から5段目の笠石が発見されず、その部分を新たに補ったとも言われています。使わなくなった九輪石は現在、同じ宇治市にある興聖寺の境内に見ることができます。

 一方で、上から5段目の笠石は五右衛門が盗んだとされ、現在は藤森神社にある手水舎の台石として使われています。藤森神社については次回で詳しくお伝えします。

 浮島十三重石塔は、JR奈良線の宇治駅からは徒歩12分、京阪電鉄の宇治駅からは徒歩10分です。同じ宇治駅ですが、それぞれ宇治川を挟んだ別の場所にあります。どちらから行くかによってルートが多少変わってくるのでご注意下さい。

 石塔の近くには、世界遺産にも指定されている平等院があります。平等院に続く表参道には料理旅館や喫茶店、菓子店などもあり、足を休めることができます。取材した日も中高生をはじめとした観光客で賑わっていました。

 次回は、五右衛門が盗んだとされる笠石の行方を探るべく、藤森神社をウォークします。どうぞお楽しみに!

石川五右衛門 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/11/05(土) 08:15

 十一月は、安土桃山時代の盗賊・石川五右衛門をテーマにお送りします。


 石川五右衛門は、古くは歌舞伎や落語、現代でも小説、映画、アニメなどの題材として描かれ、おなじみの存在になっていますが、その出生地などは不明です。

  しかし、様々な説がある中で伊賀国(三重県)、河内国(大阪府)が挙げられていることを考えると、関西ゆかりの人物と言えるのかもしれません。

 
  五右衛門は、伊賀流忍術の祖とされる百地三太夫(百地丹波)の弟子となり忍術を学んでいたという伝承があります。
  しかし、あくまで百地は忍者、五右衛門は泥棒であり、いずれも世を忍ぶ存在。2人の関係性も含め、当然、正式な記録はありません。それでも今回の講談でご紹介したエピソードは、稀代の大泥棒・五右衛門の物語を始める上で欠かせない、衝撃度の高いものではなかったでしょうか。

 そんな"ほぼ伝説上の人物"五右衛門の足跡を辿るべく、まずは京都へ向かいました。講談の最後にも出てきた京都市東山区の方広寺がある一帯です。(写真)


    
 

 その当時、方広寺には大仏があったということですが、その門前にあったのが「大仏餅屋」でした。五右衛門は餅屋を隠れ家にしていたとされています。しかし、現在は寺の前に餅屋らしき店は見当たりませんでした。

 少し歩いた先に和菓子店があったので、手掛かりを探ろうと店員の方に聞いてみても、「お話は聞いたことがあるのですが、どこにあるか分かりません・・・」とのこと。この和菓子店も隠れ家とは関係がないことが判明しました。方広寺の隣にある豊国神社を訪ねてみても同じような答えが返ってきました。つまり、五右衛門の隠れ家は現存していないようです。当然、隠れ家ですから公になるはずはないのですが、今に伝える史跡さえありません。

 五右衛門は餅屋の裏庭にある土蔵に毎日のように入り、地中を掘り続けていたとも言われています。掘り進めた先は伏見城の下。そこから城内に忍び込んだということです。彼のお目当ては、豊臣秀吉が大事にしていた「千鳥」という名の香炉でした。しかし、部屋を物色している時に侍に見つかり、捕えられてしまいます。

 一方で、五右衛門の隠れ家は別の場所にあったという説もあります。
 方広寺大仏殿から西に100mほどのところにある両替屋(または質屋)で、屋根裏の壁に小さな穴を開けて、秀吉が創建した方広寺の様子をうかがっていたとも言われています。

 これらを踏まえると、五右衛門と秀吉、さらに方広寺の関連が密接であることが見えてきます。ここでは、方広寺をご紹介しましょう。
 天正14年・1586年に奈良の東大寺にならって大仏の建立を決定したのが始まりで、その後文禄4年・1595年に創建されたということです。しかし、その大仏殿も寛政10年・1798年の落雷による火災で大仏もろとも焼失してしまいました。

 境内の中央には鐘楼があり、大仏があった名残を今もとどめています。この釣鐘は高さ4.2m、重さ82.7tもある巨大なもので、真っ先に目に飛び込んできます。知恩院、奈良の東大寺と並んで日本三釣鐘の一つと数えられ、昭和43年・1968年には重要文化財に指定されました。

 五右衛門とは関係ありませんが、この釣鐘には「国家安康(安泰)」、「君臣豊楽」の銘文が刻まれています。これを見た家康が、"家康が分断され、豊臣を君主とする"と解釈し、"この言葉には呪いがある"と激怒したそうです。後の大坂冬の陣、つまり豊臣家滅亡へのきっかけとなりました。詳しい話は、また機会があれば紹介しましょう。

 方広寺は、境内の拝観は自由ですが、本堂には二百円の拝観料が必要です。
 拝観時間は午前9時から午後4時まで。京阪電車の七条駅から徒歩約8分です。京都市営バス・博物館三十三間堂前の停留所からは徒歩約3分です。
 残念ながら五右衛門の隠れ家は見つかりませんでしたが、この一帯は様々な歴史建造物があります。寺の隣は秀吉を祀る豊国神社、さらにその隣は京都国立博物館、さらに道路を隔てて三十三間堂が続きます。周辺には甘味処や飲食店もあり、史跡巡りにはぴったりです。

楠木正成 その五 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/10/29(土) 08:19

 楠木正成シリーズいよいよ最終回を迎えました。

 九州から攻め上がった足利尊氏の大軍を食い止めようと、正成は、息子・正行と今生の別れを遂げ、兵庫に向かいます。
 1336年5月25日、わずか700騎余りを引き連れた正成軍は会下山に本陣を敷き、新田義貞の軍勢は和田岬の辺りに陣を敷き、陸と海の両面で数万の足利軍と対峙します。湊川の戦いです。

 当初は奮戦していた正成軍でしたが、やはり兵力の差は大きく、次第に追い詰められていきます。この激しい戦いは朝から夕方まで続いたということで、最終的に正成軍は数十名しか残っていませんでした。

 もはやこれまでと思った正成は、湊川の北方まで逃れました。そして弟・正季と"七回人間に生まれ変わっても敵を滅ぼそう"(七生滅賊)と互いに誓い合い、兄弟刺し違えて、その生涯の幕を閉じたのです。

 その正成最期の地でもあり、彼を祭神として祀っているのが、兵庫県神戸市中央区にある湊川神社です。
 社殿に向かって左奥には、殉節地(史蹟・楠木正成戦没地)と呼ばれる門と仕切りで区切られた一角がありますが、まさにここが正成が命を絶った場所といわれています。門前には「史跡 楠木正成公戦没地」と書かれた石碑があります。なお、門の中に入るには神社の許可が必要です。

 表門に入る手前の右側には、上記の殉節地(史蹟・楠木正成戦没地)と呼ばれる門とは別に「大楠公御墓所」と記された門があります。(写真)


      


 この門をくぐると、今回の講談の最後に出てきた「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓碑が見られます。

 正成の墓は長い間ひっそりと祀られていたそうですが、豊臣秀吉の時代に発見されました。
 その後は尼崎の藩主・青山幸利によって守られましたが、元禄5年・1692年に地元の人々の熱意を受けた徳川(水戸)光圀が約半年をかけて建立したものが現在に至っています。墓の碑文は屋根に守られていて見えづらいのですが、これも光圀による書です。

 この墓碑が建立されたことによって、正成の精神は世に広まり、幕末の勤皇思想に大きな影響を与えました。
 吉田松陰や坂本竜馬など多くの志士たちがこの墓に参拝し、後の明治維新へとつながっていったのです。そして明治5年・1872年、明治天皇は正成の忠義を後世に伝えるため、湊川神社が創建されました。

 表門を入ってすぐの左側には宝物殿がありますが、神社の創建以来、崇敬者から奉納された正成ゆかりの品々を展示するために開館されました。正成が着用した「段威腹巻」や、正成が書いた「法華経奥書」、さらに横山大観による画「大楠公像」、富岡鉄斎が描いた「楠公父子」、棟方志功筆の「御楠樹の図」など貴重な資料を見ることができます。

 重要文化財に指定されているものも含め、刀剣・武具類約100点、工芸品・書軸・絵画類約300点を収蔵しています。拝観時間は午前9時30分から午後4時30分まで。毎週木曜日が休館日です。拝観料は大人300円、大学・高校生は200円、小・中学生は100円です。団体割引もあります。

 年中行事としては、5月を「楠公まつり」月間とし、特に24日から26日の3日間は特設舞台での様々な催しは多くの参拝者で賑わうということです。
 正成が命を絶った5月25日を新暦に換算した7月12日には例祭が行われ、この神社独自の神楽「橘の舞」が奉奏されます。8月下旬の夏まつりには、正成のねぶた灯籠が境内に輝きを放ちます。

 楠公武者行列は約5年ごとに行われます。正成が出先から戻った後醍醐天皇を神戸で迎え、京都へ先導した姿を称えて行われてきた行列です。騎馬30騎、総勢800名の壮大な歴史絵巻が再現され、神戸の夏の風物詩と言われています。前回は平成25年・2013年、兵庫県知事をはじめ、俳優や元アスリートなど著名人を迎えて行われました。

 11月からは新シリーズです。稀代の大泥棒・石川五右衛門を取り上げます。

 どうぞご期待下さい!

楠木正成 その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/10/22(土) 08:18

 楠木正成シリーズも第四弾、終盤に入りました。

 今回は、正成の生涯を語る上で欠かせない場所、講談の最後にも出てきました「桜井駅跡」をご紹介します。

 前回ご紹介した赤坂城での戦いの後も、正成軍は幕府軍と戦を続けます。そしてこのことが広く知れわたり、天皇を守ろうとする諸国の武士が立ち上がったことで、幕府を打ち倒す動きが大きくなっていきました。
 各地で戦果を上げて、ついには元弘3年・1333年、新田義貞の進攻により北条氏がうたれ、鎌倉幕府は滅びるのです。

 その後、後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、それに不満を持つ者たちもいました。特に足利尊氏は天皇による政治を奪おうとし、大軍を集め九州から攻め上がってきます。
 これを迎え撃つべく、天皇の命を受けた正成は、決死の覚悟で兵庫へ向かうことになりました。その途中、桜井の駅で息子の正行(小楠公)を呼び寄せ、別れを告げます。いわゆる「桜井の別れ」です。この様子は次回の講談でもお楽しみ下さい。

 「桜井駅跡」は現在、JR島本駅ロータリーの横にあります。
 約4415㎡の面積を持つ史跡公園となっていて、敷地内には正成に関する石碑や石像などが多く残っています。ロータリーに面する形で立つ「史跡桜井駅跡」の石碑を左に見ながら入り口を通ると、桜井駅跡の歴史を記した説明板がありました。

 それによりますと、明治9年・1876年に正成を顕彰した「楠公父子訣児之処 碑」が建てられたのが初めてとなり、明治末年に結成された「楠公父子訣児処修興会」によって敷地の拡張が始まったということです。敷地の外からも見えますが、公園内でまず目を引くのが「楠公父子子別れの石像」です。(写真)


    


 「滅私奉公」と書かれた台座の上に、正成と正行が向かい合って座っている姿が象られています。
 なお、「滅私奉公」の題字は第34・38・39代内閣総理大臣・近衛文麿によって書かれたものです。敷地内では、この石像が別れの様子を最もイメージしやすいものかもしれません。

 敷地の中央まで進むと、大きな石碑が目に入ります。「楠公父子決別之所」碑です。
 題字は陸軍大将・乃木希典によるものです。建立の作業は工兵第四大隊が務め、大正7年・1912年に献碑式典が行われたということです。

 公園北側の端まで行くと、「旗立松」(別名・旗掛け松、子別れ松)があります。正成父子が馬を止め、訣別をした場所が老松の下だったそうです。
 しかし、明治30年・1897年に松は枯れてしまい、一部を切り取って小屋に保存したものが現在の姿です。この松は当時の郷土誌にも描かれていて、幹周りが約4.5mの大木と伝えられています。

 松の横にあるのは、昭和10年・1935年5月16日に行われた「楠公六百年祭」を記念した石碑です。当時、地元の小学校の児童生徒は全員参列するなど、この場所には多数の参列者による列が続きました。沿道にはたくさんの露店が並ぶほどの盛況だったそうです。
 
 「桜井駅跡」は、JR京都線の島本駅東口を降りてすぐのところにあります。阪急京都線の水無瀬駅からは徒歩5分です。
 ロータリーを挟んだ反対側には、島本町立歴史文化資料館もあります。これは、桜井駅跡の記念館として昭和16年・1941年に有志によって建てられた「麗天館」を改修したものです。桜井駅跡の関連展示や、地元の民俗資料、郷土の文化財などを紹介しています。こちらも訪ねてみて下さい。

 次回はいよいよ正成シリーズ最終回。正成の墓所がある兵庫県神戸市の湊川神社をウォークします。どうぞお楽しみに!

楠木正成 その三 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/10/15(土) 08:15

 楠木正成シリーズの第三弾です。
 武者として立派に成長し、後に"大楠公"と呼ばれるに至るまでのお話が、ここから続いていきます。


 元弘元年・1331年、鎌倉幕府を倒幕する企てが発覚し、幕府の大軍が京都へ攻めて来たので、後醍醐天皇は笠置山へ逃れました。
 正成はこれに合わせて挙兵、笠置から河内に帰ると、すぐに赤阪に城を築きました。これが赤坂城、現在「下赤坂城跡」と呼ばれているものです。

 この時の篭城戦は、守る楠木軍500であったの対し、攻める幕府軍は20万とも言われています。数では圧倒的に不利な正成の軍ですが、彼の緻密な計略によって幕府軍を苦しめます。
 しかし、赤坂城は急ごしらえだったため、結局持ちこたえられませんでした。そこで正成は敵に油断させるよう、自害したと見せかけ、姿を消しました。


 今回ご紹介するのは、大阪府千早赤阪村にある赤阪城跡(下赤坂城跡)です。

 当時の赤坂城は、金剛山地から延びる丘陵の自然地形を利用して築かれました。現在は、それを示す「史蹟 赤坂城址」の石碑があります。
 村内唯一の中学校・千早赤阪村立中学校の校舎西側で、校舎の間を通る道を登り切った丘の上に建立されました。
 なお、この一帯は赤坂城跡眺望学習広場として整備されています。

 残念ながら、城の痕跡が確認できる建物は現存していません。主郭(本丸)は、石碑が置かれている学習広場にあったという説や、千早赤阪村役場の上付近だったという説など様々ありますが、定かではありません。
 下赤坂城跡は、昭和9年・1934年に国の史跡に指定されました。

 下赤坂城跡は、近鉄長野線「富田林」駅を下車し、金剛バスの「千早ロープウェイ前」または「東阪」行きに乗車、その後「千早赤阪村中学校前」で降りて下さい。前回ご紹介した「千早赤阪村役場」の一つ先になります。

 バス停留所付近に坂の入り口があり、矢印とともに「赤阪城址」と書かれた石碑と看板があります。その坂を約5分上がると辿り着きます。
 なお、校舎の間を抜ける形になりますので、時間帯によっては子供たちの迷惑にならないようご注意下さい。

 さらに、石碑のある丘から見える景色は絶景です。
斜面に階段状に積み重なった水田「棚田」が広がっています。(写真)



     


 この「下赤阪の棚田」は、平成11年・1999年に農林水産省によって「日本の棚田百選」に選定されました。四季折々の美しい姿を見ることができます。
 大阪ミュージアム構想の特別展として、毎年11月には棚田のライトアップが行われ、多くの観光客が訪れます。

 今年は11月12日(土)の午後2時から午後7時、約3000本のロウソクを使ったライトアップのほか、農産物などの販売、村立中学校吹奏楽部の演奏なども行われます。
 幻想的な風景とともに、正成が戦をした当時の様子に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
 村をほぼ一望できるという観点からすると、やはりこの丘に城があったのではないかと想像してしまいます。


 次回は、正成が息子・正行と今生の別れを遂げた場所「桜井駅跡」をウォークします。

 どうぞお楽しみに!




       

楠木正成 その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/10/08(土) 08:15

 楠木正成ゆかりの地を巡る第二弾です。ご紹介するのは、今回の講談の舞台にもなった大阪府河内長野市にある観心寺です。

 観心寺は、大宝元年・701年に開かれ、初めは雲心寺と呼ばれていました。弘仁6年・815年に今の名前に改称されたということです。その後、歴代天皇が祈願をする場所として、また高野山と奈良・京都の中宿などとして発展していきます。正成は8歳から15歳までここで仏道修行を学んだと伝えられています。

 それでは、寺をウォークしてみましょう。最寄りである「観心寺」のバス停留所から進み、寺の山門へ入る前に見えてくるのが、正成の銅像です。(写真)



      

 

 寺の駐車場を見下ろす形で位置しています。「大楠公」と記された石台の上に馬に乗って颯爽と駆け抜ける正成。勇ましい姿が印象的です。

 山門をくぐり、少し進むと左手に中院があります。正成が幼少期に勉学にいそしんだ、まさにその場所です。中は公開していませんが、その入り口となる門の横には「楠公学問所 中院」と書かれた石碑があり、当時の様子を想像する楽しみを与えてくれます。

 山門から続く階段を再び上り、最上段まで行くと金堂が見えてきます。1333年に鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇による新政権が始まりました(建武の新政)。後醍醐天皇は観心寺を厚く信任していて、正成を中心として金堂の造営にあたらせました。それによって現在の金堂ができたのです。なお、金堂は大阪府で最古級の国宝建築物です。

 一方、正成はその恩に報いるため、三重塔の建立を計画しました。しかし、延元元年・1336年に正成は湊川(兵庫県)で戦死したため未完成となりました。それが現在残っている建掛塔です。こちらは重要文化財に指定されています。金堂から見て左斜め前に位置しています。

 さらに建掛塔を東へしばらく進むと、正成の首塚があります。まさに寺の敷地の東端です。正成が戦死した際、足利尊氏の命によってその首は京都でさらし首にされ、その後中院に送られました。
 正成の首を供養する塚が今も境内にあるのです。首塚の周囲には柵がしてあり、その中に「楠木正成公 御首塚」と書かれた看板と、「非利法権天」と刻まれた石碑があります。

 「非利法権天」とは、かつての日本の法観念を表す格言です。
 「非道は道理に勝たず、道理は法律に勝たず、法律は権力に勝たず、権力は天子(天皇)に勝たず」の意味で、天の意思が全てを超越するということです。正成は「非利法権天」の旗を掲げたという逸話も残されていますが、江戸時代に作られた伝承であるという説もあり、関連性は定かではありません。

 なお、寺では年間行事として、正成の供養祭である「楠公祭」を行っています。日程は毎年5月20日から26日の間の日曜日です。法要は首塚で行われ、その他、講堂では詩吟の奉納、拝殿では琴・三味線の演奏などが催されます。

 観心寺は、南海高野線および近鉄長野線の河内長野駅から南海バス小深線「金剛山ロープウェイ前行」・「石見川行」か、小吹台団地線「小吹台行」に乗車して下さい。いずれもバス停留所「観心寺」で降りて、山門までは徒歩約5分です。拝観時間は午前9時から午後5時まで、拝観料は小中学生100円、大人は300円、30人以上の場合は団体割引もあります。

 観心寺がある河内長野市は、国宝6件、重要文化財77件の計83件ある文化財の町です。これは全国で12位の数だということです。正成に関わらず、その他の神社仏閣も訪ねてみてはいかがでしょうか。


  


新撰組 その六 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/09/24(土) 10:16

 8月からお送りしてきた新選組シリーズ、いよいよ最終回となりました。今回は、新選組の参謀・伊東甲子太郎を中心に話を進めてまいります。


  伊東甲子太郎は、常陸・現在の茨城県の出身です。天保6年・1835年に鈴木専衛門の長男として誕生し、最初は大蔵という名前でした。
 学問ができ、剣術にも長けていました。水戸では神道無念流を学び、その後江戸では北辰一刀流の伊東誠一郎の門下となりました。誠一郎に力量を認められて婿養子となり、伊東姓を名乗ります。

 新選組の第二次隊士募集の際に入隊した伊東ですが、その年、元治元年の干支が甲子だったため、甲子太郎と改名。隊の編成で、総長・近藤勇、副長・土方歳三、参謀に伊東以下が決まりました。

 しかし、そこに軋轢が生じます。
 これまで学んできた水戸学などの影響で、伊東は尊王派(天皇を尊ぶ思想)でした。一方で、新選組は佐幕派(幕府を補佐する)の立場です。さらに、伊東は容姿端麗で温和にして知的な性格だったため、彼を慕う者が日増しに多くなっていき、近藤や土方にとっても面白くない存在になっていくのです。

 結局、近藤らと相反するようになり、伊東は慶応3年・1867年3月に同士15人とともに新選組を脱退し、孝明天皇の墓を護衛する組織・御領衛士を結成しました。その後、薩摩藩との交流を深め、盛んに討幕を説いて各地を奔走していました。

 さらに伊東による近藤暗殺の陰謀が明らかになるなど、腹に据えかねた近藤らは、伊東を招いて酒を振る舞い、酔った伊東をその帰路で刺殺します。   
 伊東襲撃の様子は、文献によって異なります。「新撰組・永倉新八」では刀で斬り付けられ即死、「新撰組始末記」では槍で突き刺された後に刀で斬られ死亡となっています。共通しているのは、新選組隊士の大石鍬次郎が伊東に致命傷を負わせたという点です。
 

 伊東はよろけるように進み、油小路通りを北上し、寺の門前にたどり着きます。そこで石碑の台石に座るや絶命します。享年32歳。


        

  

 今回ご紹介するのが、その伊東絶命の地・京都市下京区油小路通にある本光寺です。
 門の前には、「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」と刻まれた石碑と、その詳しい内容を記した説明板があります。

 伊東の死後、その一派が直ちに駆け付けましたが、新選組の隊士たちに襲われ、3人が死亡。後に「油小路事件(油小路七条の変)」と呼ばれますが、石碑に書かれた「外数名」というのは、その3人、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄のことを指します。

 この石碑ができたのが昭和46年・1971年。それまで油小路町と新選組の関係が詳細に調べられていなかったそうですから驚きです。しかし、京都市観光課や維新を語る会の皆さんによって史跡の調査が進んでいき、石碑の建立に至りました。

 門をくぐると、右側にある供養塔には、「伊東甲子太郎 絶命の跡」と記されています(写真)。まさにこの石塔にもたれて、伊東は最期を迎えたのです。当時は門の前、今は門の内側。つまり、その後の区画整理などの影響で門の位置が変わり、前にせり出す形になりました。

 本光寺では、200円を納めると「伊東甲子太郎絶命の地・油小路事件資料」という冊子をいただけます。伊東の来歴や、伊東が襲撃され絶命するまでの流れ、さらに油小路事件について、地図とともに詳しく知ることができます。

 去年からは、伊東の命日である11月18日より手前の土曜日(今年は11月12日)に「伊東甲子太郎忌」として、午前10時から午後4時まで、石塔ならびに本堂を自由に参拝できるようにしています。当日は焼香もできます。

 本光寺は、JR京都駅中央口から塩小路通を西に、さらに油小路通を北に徒歩7分ほどでアクセスできます。拝観できる時間は午前8時から午後5時まで、拝観料は150円、御朱印は300円です。なお、伊東の墓は前々回にご紹介した光縁寺にあります。

 10月からは新シリーズです。鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した武将・楠木正成ゆかりの地をウォークします。どうぞお楽しみに!

新選組 その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/09/10(土) 08:23

 新選組シリーズも第四弾を迎えました。
 池田屋事件で一躍有名となった新選組は、その後さらに隊士を募集し、200人を超える集団へと成長を遂げます。


 そんな中、元治2年・1865年2月、総長の山南敬助が江戸に行くと記した置手紙を遺し、行方をくらませました。山南は仙台出身で、文武両道に優れ、温厚な性格から壬生の女性や子供たちから慕われていた人物です。
 脱走については宿所(屯所)の移転問題や、土方歳三との対立、健康上の問題など諸説ありますが、真相は分かっていません。

 新選組では、「局中法度」と呼ばれる規則があり、脱走した者は切腹しなければなりません。
 山南の後を追ったのは、彼が弟のように可愛がっていたという沖田総司・・・。複雑な人間ドラマが展開されます。結局、山南は大津で追い着かれ捕縛、新選組の屯所に連れ戻されました。2月23日、山南は切腹。本人の希望により沖田が介錯をつとめました。享年33歳。見事な切腹だったということです。

 京都には、山南ゆかりの地も残っています。
 まずは京都市下京区綾小路西入四条大宮町にある光縁寺です。門前には「新選組之墓」と記された石碑があります。


      

 

 当時、寺の門前近くには新選組の馬小屋があり、毎日、隊士たちが往来していたといいます。その中には山南もいましたが、偶然、寺の瓦に刻まれた紋が山南家の紋と同じものであることが分かったことから、当時の住職・良誉上人と親交が生まれました。その後、切腹した隊士たちが埋葬されるようになり、山南自身も弔われました。

 供養料として100円を納め、本堂の裏手に回ると山南の墓があります(写真)。山南を含め新選組の隊士関係者28人がこの地に眠っています。寺には新選組に関する書籍も多数収蔵されていて、閲覧に来る人も多いということです。

 その光縁寺に面する綾小路通りを西に7分ほど歩くと、新選組が宿所(屯所)として使っていた旧前川邸があります。元々は八木家を宿所としていましたが、隊士が増えるにつれて、それだけでは賄いきれず前川家や南部家にも宿所を当てていました。

 現在、旧前川邸は個人の住居となっているため、公開はしていません。しかし、公式ホームページが開設されていて、詳しい説明文と写真付きで内部の様子を見ることができます。
 そこには、山南が切腹した八畳間の部屋や、山南が切腹前に恋人である島原の天神・明里と別れを惜しんだと伝えられる格子窓の写真が紹介されています。その他にも尊王攘夷派の志士・古高俊太郎を拷問にかけた蔵や、敵の襲撃から逃げられるように改装したと見られる抜け穴など、多くの史跡を確認できます。

 また、土日祝日の午前10時から午後5時まで、旧前川邸の玄関では、旧前川邸オリジナルグッズや、新選組に関するグッズ(手袋、ブックカバー、シール、アクセサリーなど)を販売しています。ぜひ立ち寄ってみて下さい。

 3月中旬の日曜日、旧前川邸界隈では「山南忌」が行われます。2007年から行われている法事で、光縁寺で焼香を済ませ、旧前川邸でも焼香をした後に、壬生寺で奉納行事が行われます。

 今回ご紹介した光縁寺は、阪急京都線も大宮駅、京福電鉄嵐山本線の四条大宮駅、さらに四条大宮のバス停留所から、ともに徒歩3分です。一方、旧前川邸は、阪急電鉄の大宮駅、京福電鉄の四条大宮駅から徒歩10分、壬生寺道のバス停留所からは徒歩3分です。以前ご紹介した新徳寺や八木家のすくそばにあります。

 次回は、新選組が一時的に屯所として使った西本願寺の太鼓楼をウォークします。どうぞお楽しみに!

新選組 その三 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/09/03(土) 08:16

 新選組の第3弾です。
 会津藩の松平容保は文久2年・1862年、幕府からの強い要請によって京都の守護職に就きました。一方、新選組の前身である壬生浪士組は同じ年、将軍の警護のために京都に入り、会津藩の預かりとなりました。これが、新選組が会津藩と密接なつながりができたきっかけです。

 文久3年・1863年8月18日、彼らは会津藩の命令で御所(天皇の邸宅、現在の皇居)に出動し、尊皇攘夷派の公家や長州藩を京都から追放するという朝廷内のクーデター「八月十八日の政変」で活躍します。ここでの功績が認められ、晴れて朝廷から「新選組」の隊名を与えられるのです。なお、この政変によって尊皇攘夷派の武装集団・天誅組が窮地に追いやられたことは、以前にご紹介しました。

 京都の治安維持に貢献した新選組ですが、一方で、隊士たちの乱暴な振る舞いも多々ありました。大坂の両替商人に100両を出させたり、お金の工面を拒絶した京都の生糸問屋・大和屋に火をつけたりと、大きく評価を下げてしまいます。
 そこで会津藩は9月18日、これらの行動を起こした芹沢鴨などの暗殺を近藤勇らへ秘密裏に命じます。芹沢鴨は深夜、八木家に戻ったところで襲撃され死亡。芹沢が属する派閥も一掃され、近藤勇を頂点とする組織が整備されました。

 その頃、尊皇攘夷派も勢力の挽回を試みていました。中でも過激派は京都の旅館・池田屋で蜂起のための会合を行っていました。新選組はそれを発見し、数名で突入します。これが世に名高い「池田屋事件」です。元治元年・1864年6月5日(新暦7月15日)のことでした。

 その池田屋事件の跡地は、京都市中京区三条通河原町東入にあります。事件後、旅館の主人は尊王攘夷派の志士を匿ったとして捕らえられ獄死、のちに廃業。当時の建物は1960年代まで残っていたということです。その後の経営は様々な人手に渡りました。現在は居酒屋のチェーン店が展開しています。

 店の前には「維新史跡 池田屋騒動之址」と書かれた石碑があります。(写真)その上には、旅館だった頃の池田屋の写真と見取り図、さらに事件の経緯や、犠牲となった者(殉難者)たちの名前が詳しく記された説明板もあり、当時の様子を詳しく知ることができます。


     


 跡地にある居酒屋では、新選組をイメージしたコース料理やランチメニューを多数提供しています。その他、新選組を題材にしたアニメとコラボレーションしたカクテルなどもあります。ぜひ新選組の世界に浸ってみて下さい。

 また、この場所一帯を管轄する三条小橋商店街では毎年、事件が起こった新暦7月15日に、「池田屋騒動殉難者供養の日」として供養祭を行っています。殉難者たちの墓がある三緑寺の住職を招いて、倒幕派・新選組・佐幕派という区別をせずに供養するものです。

 「池田屋騒動之址」碑は、京阪本線の三条駅から徒歩4分、地下鉄東西線の京都市役所前駅からは徒歩5分です。周辺には飲食店や菓子店、ホテルなどがあり、観光客の人通りが絶えません。

 次回は、新選組総長・山南啓助の史跡をウォークします。どうぞお楽しみに!

新選組 その二  [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/08/27(土) 08:15

 新選組の第2弾です。ここまで、新選組の前身である壬生浪士組が結成されるまでをお聴きいただきました。
 今回ご紹介するのは、その浪士たちが宿所(屯所)として求めた八木家です。現在も京都市中京区壬生に残っています。


 芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、原田佐之助、山南敬助、新見錦、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13人は、浪士隊から分かれて京都に残りました。そして彼らは、文久3年・1863年3月16日、宿所としていた八木家の右門柱に「松平肥後守御領 新選組宿」という新しい表札を掲げ、ここに新選組が誕生するのです。

 八木家はおよそ400年、15代にわたって続く壬生村きっての旧家です。鎌倉時代初期、八木安高によって起こったと言われています。幕末には、壬生郷士の長老をつとめていました。また新選組ゆかりの建築として貴重なものとされ、昭和58年・1983年6月1日には京都市指定有形文化財に指定されました。

 当時あった郷士の家も現在は数少なくなりましたが、先祖が残した土地や建物などを後世に伝えるため、現在はホームページの開設やガイド付きの公開などを行っています。

 長屋門に続く入口には、「新選組遺蹟」の石碑があり、その奥に「新撰組屯所遺蹟」と書かれた石碑もあります。その奥には、八木家に現存する井戸の一つがあり、数百年前から湧き出て、水質に大変恵まれていて、飲料に適しているということです。新選組の隊士たちも当時、毎日飲用していたといいます。健康長寿に恵まれることから「鶴寿井」と命名されました。

 さらに進むと、「隊士腰掛の石」があります。これは、新選組の道場の辺りにあったもので、隊士たちも訓練の合間にこの石に腰を下ろし休息を取っていたそうです。
 その向かい側には、八木家住宅に関する説明板があり、長屋門が文化元年・1804年、母屋は文化6年・1809年に造られたことが分かります。これとは別に八木家と新選組の関わりを記した説明板もあり、基礎知識を深めてから母屋の見学に移ることができます。


     

 なお、長屋門(写真)をくぐってからは撮影禁止となりますが、母屋の中ではガイドの案内があります。

 玄関を上がり、奥の間に入ると、ガイドが新選組結成のいきさつやその後の足跡について、パネルを使いながら説明してくれます。取材した日は、夏休みに入っていたこともあり、子供連れの客が多数訪れ、熱心に聞き入っていました。ここには近藤勇の像や新選組の志士たちを祀った仏壇もあります。

 奥の間から移動し、隣の部屋の入口を見ると、芹沢鴨暗殺の刀傷があります。生々しい痕跡を見ると、当時の凄惨さを感じずにはいられません。芹沢鴨の暗殺については、次回の講談の中で出てきますので、こちらもお聴き下さい。

 八木家(新選組 壬生屯所遺蹟)は、前回ご紹介した新徳寺のすぐそばです。

 阪急電鉄の大宮駅、京福電鉄の四条大宮駅から徒歩10分、京都市営バスの壬生寺道バス停からは徒歩3分です。公開時間は午前9時から午後5時までです。八木家の敷地内には「京都鶴屋 鶴寿庵」という和菓子屋があり、抹茶とともに新選組屯所に因んだ屯所餅をいだだけます。見学料はこれらお菓子付きで大人・中高生が1000円、中高生は見学だけの場合600円となっています。

 次回は、新選組を世に知らしめた池田屋事件、その跡地をウォークします。どうぞお楽しみに!



       
       

  



新選組 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/08/20(土) 08:16

 今回から新選組をテーマに、ゆかりの地を巡ります。
 時代は、前回まで取り上げた天誅組と同じ幕末ですが、舞台は京都に移ります。


 アメリカの開国要求に対応しきれない幕府は、様々な大名などにも意見を求めるようになりました。しかし、それがかえって政治や外交に対する有力な大名の発言力を強め、幕府の権威をますます傷つけることになります。そこで幕府は、権威回復のために、天皇側と融和を図る公武合体策をとりました。

 具体的には、当時の将軍・徳川家茂の夫人として、孝明天皇の妹・和宮を迎えることとし、徳川家茂が京都へ入ることを決めます。しかし、当時の京都は、尊王攘夷派(天皇を敬い、外国の侵略を撃退する思想)や、倒幕運動の過激派たちによる暴動が横行し、治安がかなり悪化していました。

 それまで治安の維持にあたっていた京都の行政機関だけでは防ぎ切れないと判断した幕府は、文久2年・1862年、庄内藩の郷士・清河八郎の申し立てにより、関東及び周辺諸国の浪士を募集することにしました。

 翌年、集まった200人余りの浪士たちは「浪士組」として一団を結成し、京都へと向かいます。しかし、これらの浪士を募集する計画は、尊王攘夷派の清河八郎の画策だったのです。幕府のために動いていると見せかけ、実は浪士組を天皇配下の兵力とし、同時に外敵を撃退するための先兵とするというものでした。

 京都に着き、壬生の新徳寺に浪士組を集めると、清河が演説でその考えを述べます。この事態に憤慨した幕府は、浪士たちを江戸に呼び戻します。一方で、これに反発し、将軍を警護するという本来の目的を果たそうと京都に残ることを望んだ近藤勇、土方歳三、芹沢鴨などのグループが「壬生浪士組」を名乗りました。新撰組の前身です。

 今回ウォークするのは、京都市中京区壬生賀陽御所町の新徳寺(新徳禅寺)です。上記に記したように、新選組にまつわる最初の大舞台として知られている場所です。

 天文4年・1739年、永源寺113世・天巌文聡によって開山したのが始まりと言われています。大智寺の末寺の寺号を譲られ、北隣の万年寺や摂津の瑞岩山など4つの寺を併合して、「鳳翔山新徳寺」と称しました。

 残念ながら、内部は非公開となっていて見学はできません。しかし、坊城通りに面した立派な門構えから、当時の様子を思い巡らせるのも史跡を探訪する楽しみの一つでしょう。(写真)


       
 

 新徳寺は、阪急電鉄京都線の大宮駅、京福電鉄嵐山本線の四条大宮駅から、ともに徒歩7分です。壬生寺道のバス停留所からは徒歩3分で、坊城通りを南にほぼ真っ直ぐ行けばアクセスできます。

 新徳寺のほぼ向かいには壬生寺、そこから程なく行ったところには宿所(屯所)として使った八木邸や旧前川邸があり、新選組ゆかりの地を短時間で巡ることができます。

 次回は、新選組の歴史を今に伝える八木邸(八木家)を中心にウォークします。どうぞお楽しみに!

天誅組四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/08/13(土) 08:17

 「明治維新魁の道を行く~天誅組」、いよいよシリーズ最終回です。

 高取城の侵攻に失敗した天誅組は、その後も各藩の幕府追討軍と各地で奮戦を続けましたが、次第に戦局が不利になっていきます。さらに、河内勢や十津川勢の離脱も重なり、孤立無援の状態に陥ってしまいました。

 やむなく十津川を脱出し南下、大峰山脈を東に転じて笠捨山を越えて北山に入り、東熊野街道を北上します。伯母ヶ峰峠を越えて川上郷、そして川上村武木から足ノ郷峠を越えて東吉野村に辿り着いたのは、文久3年・1863年9月24日(新暦11月5日)、小雨降る夕暮れ過ぎのことだったといいます。

 この日から28日にかけての4日間、激闘が繰り広げられた東吉野ですが、最終的に那須伸吾を隊長とする6人の決死隊をはじめ、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎の三総裁など天誅組の志士たち17人が戦死、または捕らえられました。

 東吉野を脱出して無事に大坂や京都に逃れられたのは、主将の中山忠光とその家来7人やその他数人だけでした。つまり、挙兵からわずか40日あまりで天誅組は事実上の終焉を迎えたのです。

 今回ウォーキングする奈良県吉野郡東吉野村は、この地で散った天誅組の志士たちの墓や戦死した場所を示す石碑が多数置かれており、"天誅組終焉の地"として有名な場所です。主な史跡をご紹介しましょう。

 東吉野村の北側・鷲家には、「天誅組終焉之地」と記された石碑があり、昭和62年・1987年に建立されました。その横には、天誅組についての説明板、さらに「天誅義士の足跡を訪ねて」と題したルートマップもあります。ここを目印に各史跡を巡るのも良いかもしれません。

 終焉之地の石碑の近くには、吉村寅太郎が「吉野山風に乱るるもみぢ葉は 我が打つ太刀の血煙と見よ」と遺した辞世の句が刻まれた碑もあります。(写真)
 この場所から川を挟んで向かいの山麓には、吉村寅太郎が戦死し、埋葬された場所があるのです。鷲家にはこの他に、藤本鉄石、松本奎堂など6人が眠る湯ノ谷墓地があります。


    


  

 そこから南へ行った小川という場所には、吉村寅太郎や那須伸吾など戦死した9人の天誅組志士が合祀されている明治谷墓地もあります。これらの墓地は50回忌に際して大正元年頃に建設されたものです。

 明治谷墓地から少し歩いた場所にあるのが、天誅組の菩提寺である宝泉寺です。毎年11月5日には、天誅組の慰霊祭が行われています。境内には「天誅義士記念」の碑もあります。

 東吉野村役場を取材すると、村全体で天誅組を語り継ぎ、広めていこうという意識が強く感じられました。庁舎の入り口付近には、天誅組顕彰会制作の「維新のさきがけ 天誅組」と書かれた黄色い旗がいくつもあり、華を添えていました。

 水本実村長は「天誅組によって東吉野村の名をもっと全国に広めたいと思っています」と語り、「こうやってメディアで取り上げてもらうことはありがたいです。将来的には天誅組を題材にしたドラマが実現すればいいですね」と意欲も見せていました。

 役場ではこれまで顕彰事業として、天誅組に関する講演や対談、ライブ、さらに史跡を巡るウォーキングツアーなどを開催してきました。我らが南陽さんも去年、村の住民ホールで講談を披露しました。今年も講演などを予定しており、決定し次第、東吉野村役場のホームページで発表されるということです。

 東吉野村は、近鉄大阪線の榛原駅から奈良交通バスで40分ほどのところにあります。役場行きのバスは本数が少ないので、事前に時刻表をご確認下さい。近鉄吉野線の大和上市駅からはタクシーで約20分です。各史跡を徒歩で巡るにはたいぶ距離があり、時間もかかります。車での移動をお奨めします。

 次回から新シリーズに突入です。どうぞご期待下さい!


 

天誅組その三 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/08/06(土) 08:15
「明治維新魁の道を行く~天誅組」第3弾。天誅組の物語は折り返しを迎えます。

 文久3年・1863年8月17日、天誅組は五條に新政府を樹立し、幕府を倒すための旗印を鮮明にしました。


 しかし、事態は急変します。天誅組をはじめとする尊王攘夷派の行動に異を唱える薩摩藩と会津藩などが手を組み、討幕につながる孝明天皇の大和行幸を何としてでも阻止しようと動き出しました。彼らは、天皇と幕府の権力を結び付けようという、公武合体派です。

 8月18日に宮中で会議が開かれ、朝廷の人事は変更となり、行幸の中止も断行されました。いわゆる「八月十八日の政変」です。つまり、天皇の行幸を迎えるため先回りしていた天誅組はわずか一日で大義名分を失いました。むしろ朝廷・幕府から逆賊扱いとなり、討伐を受ける立場になってしまったのです。しかし、天誅組は撤退を選ばず、自らの信念を貫き通すため戦い続けます。南に陣を取り、十津川郷士に助けを求め、約1000人の来援を得ました。

 今回ご紹介する奈良県の高取城は、天誅組がそのような状況の中で向かった場所です。中世南北朝時代の1332年に、大和高田市一帯を治める豪族・越智八郎が標高583.9mある高取山の山頂に築いたのが始まりとされています。当時は自然の地形に多少の工作をし、敵を防ぐ形態の城(かきあげ城)だったということで、恒久的な軍事施設はなく、立派な櫓や天守もありませんでした。

 その後、大和郡山城主だった豊臣秀長の命を受け、天正13年・1583年に本多利久が高取城主となり、天守閣や石塁を配して本格的な整備が進められました。これは、郡山城を本城とし、高取城を控えの城として計画されていたもので、最後の一戦を決する重要な拠点と考えられていたのです。

 本多氏が絶えた後は、寛永17年・1640年に譜代大名の植村家政が入城し、14代にわたって拠点としていました。明治2年・1869年の版籍奉還により明治政府の管轄になり、廃城となりました。

 天誅組にとって高取城は難攻不落の城でした。攻めあぐねた結果、撤退を余儀なくされます。今も残る石垣を実際に見ると、堅固な城であったことが容易に想像できます。(写真)
 

    

  

 さらに高取城が「日本一の山城」と考える研究者もいるほどです。これは、麓から本丸まで高低差(比高)が大きければ大きいほど一般的に難攻不落であると考えられているのですが、高取城はその高低差が日本一であるという点が根拠になっています。

 ちなみに、高取城と並んで、天守閣などの建物が現存する中で最も高い所にある岡山県の備中松山城、海抜が一番高い岐阜県の美濃岩村城、この3つが日本三大山城とされています。

 高取城は、近鉄吉野線の壺阪山駅から土佐街道を経由して、ハイキングコースを約1時間40分歩いたところにあります。途中には夢創舘という無料休憩所があり、ここで高取町のことを知ることができます。一方、壺阪山駅からはバスも出ていて、壷阪寺行きで約10分。そこから歩いて約50分で山頂に着きます。

 鬱蒼と樹木が生い茂る中に苔むした石垣があったり、「高取城址」と記された石碑には蝉の抜け殻が張り付いていたりと、もはや自然と同化した姿は趣深いものがあります。作家の司馬遼太郎も著書「街道をゆく」の中で高取城について"蒼古(そうこ)としていていい"と感想を述べています。

 次回は天誅組編の最終回。天誅組終焉の地・東吉野村をウォークします。どうぞお楽しみに!


        

天誅組その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/07/30(土) 08:15

 「明治維新魁の道を行く~天誅組」第2弾です。

 文久3年・1863年、堺に上陸した天誅組の志士たちは、その後、現在の富田林市にある水郡邸で河内勢と合流し、軍議をこらします。そして観心寺(現在の河内長野市)で戦勝祈願をし、千早峠を越えて、当時幕府の直轄地であった五條に入りました。

 8月17日、天誅組は一斉に挙兵し、五條代官所を襲撃。鈴木源内ら役人を殺害し、櫻井寺を本陣として「五條新政府」と名乗りました。
  幕府の出先機関を制圧し、新しい政府を置いたこの出来事こそが、後に天誅組が「明治維新の魁」と評される由縁になっているのです。

 今回ご紹介する奈良県五條市は、天誅組ゆかりの地が数ヶ所残されています。五條市役所の庁舎前にある小さな庭園には、「五條代官所跡」と記された石碑があります。まさに天誅組によって焼き討ちにあった五條代官所があった場所です。

 さらに、市役所から徒歩2~3分ほどのところにあるのが、天誅組が本陣とした櫻井寺です。
 寺によりますと、天暦年間の947年から957年の間に、桜井康成によって創建されたと伝えられています。門前には、「史跡天誅組本陣址」の石碑があり(写真)、その横にある説明版には、"幕末期には五條で有数の規模を誇った寺"であったことも記されています。本堂前には、鈴木源内ら代官5人の首を洗ったという手水鉢も残されています。



        

  

  一方で、追いやられた代官所が新たに設置した場所が、現在の史跡公園ならびに民俗資料館です。奈良地方裁判所の近くにあります。

 公園内には「明治維新発祥の地」を示す石碑が設置されています。そして資料館にある展示室には、天誅組志士の肖像画や、足取りを辿った写真、年表などが展示され、自由に見ることができます。また、天誅組が起こした行動について分かりやすく解説したビデオも放映されています。

 さらに、先ほどご紹介した五條市役所から徒歩2分ほどのところには、五條代官所役人墓所があります。鈴木源内以下5人が葬られている墓は、地元の人々が資金を出し合って建てられたということです。

 この他にも五條市内には、吉田松陰や天誅組に影響を与えた江戸時代後期の儒学者・森田節斎の宅跡、軍医として天誅組に参加した乾十郎の宅跡と顕彰碑、井沢宜庵の墓などがあります。

 いずれも最寄り駅は、JR和歌山線の五条駅です。史跡巡りには事欠かない場所です。ぜひ探訪してみて下さい。次回は、新時代の到来を告げた天誅組ですが、風雲急を告げます。どうぞお楽しみに!


 

天誅組その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/07/23(土) 08:15


 今回から新シリーズ「明治維新魁の道を行く~天誅組」を4回にわたってお送りします。

 時代は幕末、諸外国の脅威が高まり、日本国内は騒然となります。特に嘉永6年・1853年にはペリー来航がありました。この事態を打開するために、外国人を排斥し欧米列強から防衛しようという考え「攘夷論」が生まれていき、開国か攘夷かという政治闘争が始まります。

 一方、幕府はペリーの開国要求に対応しきれず鎖国を解き、朝廷や諸藩に意見を求めます。これによって、朝廷や勢力のある藩が政治の表舞台に台頭するようになり、幕府の権威が徐々に失われていきました。
 その中で、幕府に対抗する旗頭として天皇を中心とした国づくりをしようという動きが広まり、尊王攘夷派が誕生するのです。天誅組は、土佐藩出身の吉村寅太郎など尊王攘夷派の志士たちが中心となり、公家の中山忠光を擁立して結成された組織です。

 文久3年・1863年8月13日、攘夷を祈願する孝明天皇の大和行幸が朝廷の会議で決まります。翌日、これを受けて天誅組志士たちは先に大和に入り、幕府領を制圧し、行幸を迎えようとしていました。京都の方広寺で集結し出発、淀川を下り、大阪湾から堺に上陸します。

 今回ご紹介する"天誅組上陸の地"は、大阪府堺市栄橋町にあります。内川と土居川が交わる竪川を背に石碑が建てられています。(写真)石碑の後ろにある説明板には、「天誅組義士上陸遺蹟碑」が昭和11年・1936年に建立された旨が記載されています。


   
 

 天誅組に関係ありませんが、同じ場所には、慶応4年・1868年に起きた堺事件(無通告でこの付近に上陸してきたフランス軍艦の兵士11名を、当時警固にあたっていた土佐藩士が殺傷した事件)に関する石碑もあります。いずれも土佐出身の政治家・田中光顕によって建てられました。

 これらの石碑は、南海本線の堺駅南口から徒歩1分です。川を隔てた対岸には、ホテル・アゴーラリージェンシー堺があります。

 次回は、天誅組がいよいよ東へと進軍。舞台は五條代官所です。どうぞお楽しみに!



  

安倍晴明 その四 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/07/16(土) 08:15

 4回にわたってお送りしてきた安倍晴明シリーズもいよいよ最終回です。
 今回は、京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町にある「安倍晴明墓所」をウォーキングします。

 寛弘2年・1005年9月26日、晴明は85歳で亡くなり、嵯峨の地に葬られたと伝えられています。室町時代には、いわゆる"晴明塚"が数多く作られたとされていますが、その一つが今も残っているわけです。

 安倍晴明墓所は、住所にもあるように、もともとは天龍寺の土地です。しかし、その後荒廃してしまい、最終的には前回ご紹介した晴明神社が譲り受け、整備する形になりました。つまり、現在は晴明神社の飛び地境内となっているのです。


 京都有数の観光地の一つ、嵐山。その麓の大堰川(桂川)に架かる渡月橋...。観光客の喧噪から少し離れた小道を進むと、静かな路地裏に安倍晴明の墓所があります。入り口には、「陰陽博士 安倍晴明公 嵯峨御墓所」と書かれた石碑があり、その横にある鳥居をくぐると五芒星の紋が刻まれた晴明の墓石が見えます。墓石の周りには花や酒が供えられていて、晴明が今も愛され続けていることを物語っています。(写真)


    
 

 毎年、晴明の命日には晴明神社が主催する嵯峨墓所祭が行われます。墓石の前にお供えをして祝詞をあげる、15分から20分程度の法要です。例年熱心な人たちが参加するということです。

 周辺には、墓所に隣接する形で角倉稲荷神社、さらに北側に第98代天皇である長慶天皇の墓所(長慶天皇嵯峨東陵)もあります。いずれも晴明には関係ありませんが、史跡巡りには事欠きません。

 安倍晴明墓所は、京福電鉄・嵐山本線の嵐電嵯峨駅から南へ徒歩4分、同じく嵐山駅からは徒歩8分、JR山陰本線の嵯峨嵐山駅からは徒歩6分です。京都バス・角倉町の停留所からもアクセスできます。

 晴明ゆかりの地はこれまでにご紹介してきた大阪、京都にとどまりません。
 東京都葛飾区の立石熊野神社、名古屋市千種区の名古屋晴明神社、福井県敦賀市の晴明神社、岡山県浅口市の安倍神社、奈良県桜井市の安倍文殊院など様々あります。ぜひ探索してみて下さい。




  

安倍晴明 その三 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/07/09(土) 08:15


 「安倍晴明伝~尾花丸誕生から呪術合戦まで~」の第3弾です。

 今回ウォーキングする安倍晴明ゆかりの地は、京都市上京区晴明町にある「晴明神社」です。晴明は6代にわたる天皇の側近として仕え、数々の功績をたてたと伝えられています。晴明神社は、彼の死後、その偉業を讃え御霊を鎮めようとした一条天皇の命により、寛弘4年・1007年、屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられました。

 前回ご紹介した安倍晴明神社とは名前が似ているので混同しそうですが、安倍晴明神社は晴明が"生まれたとされる場所"、晴明神社は晴明が"住んでいた場所"という違いがあるのです。

 入り口となる、堀川通に面した一つ目の鳥居の額には、金色に輝く社紋「晴明桔梗」があります。晴明桔梗とは、晴明が魔除けの呪符として頻繁に使った星型の紋様のことで、五芒星とも呼ばれます。晴明に関するお札やお守りには、この紋様が施されているものがほとんどなので、見たことのある方は多いのではないでしょうか?
 神社では通常、その名前や祀られている神様の名前を掲げる所が多いので、紋様を掲げる鳥居は全国的にも珍しいといわれています。 

 さらに進み、道路を隔てた二つ目の鳥居をくぐると本殿につながります。本殿の横には、この神社が所蔵する晴明の肖像画を元に作られた「安倍晴明公像」があり、衣の下で印を結び、夜空の星を見て天体を観測している様子を象っています。(写真)
 その他、厄除けの桃や、御神木である樹齢300年の楠もあり、中学生の一団や外国人観光客など多くの人々がその力を感じ取っていました。


        
 

 境内の側壁には、数多くある晴明の伝説の中から10の逸話を紹介する「顕彰板」もあります。その中には今回の南陽さんの講談にもあった、晴明のライバル・芦屋道満との呪術合戦や、信太森の狐であった晴明の母親の伝説を記した板が並べられています。

 取材したのは6月中旬、晴明ゆかりの桔梗がちょうど咲き始め、コバルトブルーの花びらが朝露に濡れていました。境内には約2000株の桔梗が植えられているということで、9月にかけて可憐な花が咲き誇る様子が見られます。

 晴明神社は、京都市営バスの「一条戻橋・晴明神社前」、または「堀川今出川」の停留所からともに徒歩2分です。バスはJR京都駅や阪急烏丸駅、地下鉄四条駅から出ています。地下鉄の今出川駅からは徒歩12分です。

 来週は、いよいよ晴明伝の最終回。晴明の墓所をウォークします。どうぞお楽しみに!

安倍晴明 その二 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/07/02(土) 08:15

 「安倍晴明伝~尾花丸誕生から呪術合戦まで~」第2弾です。今回ウォークするのは、大阪府大阪市阿倍野区にある「安倍晴明神社」です。

 出自について不明な点が多い安倍晴明、その出身地については大阪や讃岐、茨城など様々な説があります。その中でも最も有力とされるのが大阪説であると安倍晴明神社は伝えています。

 境内にある説明板には、「伝説(葛之葉子別れ伝説)では、父安倍保名が和泉の信太明神に参詣の折、助けた白狐(葛之葉姫)と結ばれて、当地阿倍野で生誕されたと伝えます」とありました。

 さらに、この神社に伝わる『安倍晴明宮御社伝書』には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘四年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されているということです。

 表鳥居の横には、向かって左手に「安倍晴明生誕伝承地」、右手には「安倍晴明神社」と記された石碑があります。中に進んでいくと、それとは別に「『安倍晴明誕生地』の碑」もありました。これは、江戸時代の堺の商人・神奈辺大道心が建立したものです。

 そして晴明が産まれた時に使用した産湯の井戸を再現した「安倍晴明公 産湯井の跡」、さらに正体が狐である晴明の母・葛子姫が信太森から飛来する姿をイメージした「葛之葉霊孤の飛来像」も並んでいて、"晴明大阪誕生説"の説得力を高めています。


   


 表鳥居に面した通りからは、地上300mと日本一の高さを誇るビル・あべのハルカスが堂々とそびえたつ姿も見られます。近くには、安倍晴明神社を管轄する阿倍王子神社もあるので、そちらにも参拝してみてはいかがでしょうか。

 安倍晴明神社は、阪堺電車の東天下茶屋駅から徒歩3分です。路面電車に揺られながらの歴史探訪も味わい深いものがありました。

 来週は、京都市にある「晴明神社」をウォークします。どうぞお楽しみに!

安倍晴明 その一 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/06/25(土) 08:18

 今回から新シリーズです。4回にわたって、「安倍晴明伝~尾花丸誕生から呪術合戦まで~」をテーマにお送りします。

 今や小説や漫画、映画などフィクションの世界で多く描かれ、おなじみの存在となっている平安時代の陰陽師・安倍晴明。それゆえ神秘性を帯びていますが、実際にも出身地や系譜などは諸説あり明らかになっていません。


 今回ご紹介する大阪府和泉市葛の葉町の「信太森葛葉稲荷神社」は、晴明(尾花丸)誕生のきっかけとされた場所です。
 没落した安倍家の再興を願い信太明神にお参りをしていた安倍保名が、帰り際に出会った一匹の白狐。それが後日、葛子姫(葛の葉姫)として姿を変えました。神社の説明では、この2人の間に生まれたのが晴明とされており、ホームページ内にも「安倍晴明の母親の里」と記されています。

 境内には、狐の石像があるのはもちろん、この逸話にちなんだご利益があります。本殿の横には、樹齢2000年余りという楠木があり、木の幹が根元より二つに分かれているので「夫婦楠」とも言われています。この楠木の一方を抱きかかえて願う時は想いが達すると伝えられています。


       

 さらに、「子安石」という名の大きな石は、安倍晴明遥拝の石とも呼ばれ、子宝や安産を願うものとされています。(写真をご参照ください)

 「姿見の井戸」は、白狐が葛子姫(葛の葉姫)に化けた時に、鏡に代えて姿を写した井戸です。葛子姫が無事にこちらの森に帰りついたことにちなみ、今も交通安全を願う人々が姿を写しています。

 「信太森葛葉稲荷神社」は、JR阪和線の北信太駅から徒歩5分のところにあります。大通りに面した大きな鳥居が目印です。

 来週は、晴明生誕の地とされる大阪市阿倍野区の「安倍晴明神社」をウォークします。どうぞお楽しみに!



    

徳川家康 伊賀越え その4 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/06/18(土) 08:15

  「徳川家康・伊賀越えのルートを辿る」シリーズもいよいよ最終弾となりました。

 今回ウォーキングするのは、三重県鈴鹿市にある写真の白子浜です。(写真提供:鈴鹿市)

    
     


 徳川家康が本国三河を目指す伊賀越えもいよいよ終盤へ差し掛かります。白子浜に到着した家康は、今まで道中の護衛を務めた伊賀・甲賀衆に別れを告げ、ここから海路で三河を目指して出航しました。その後、無事に岡崎城に帰還したのです。

 今回の舞台である白子は、水産業の町であるとともに、鈴鹿市の玄関口です。江戸時代には,家康を救った功績により,白子の港は江戸回船の特権を徳川幕府から与えられ,千石船の行き交う港として発展し,徳川御三家・紀州藩の代官所が置かれました。戦時中には軍港として使われたこともあります。

 白子浜は、近鉄名古屋線の白子駅から約600mのところにあります。余談ですが、白子港には、鈴鹿市出身で天明2年(1782年)ロシアに漂流した大黒屋光太夫のモニュメントもあります。
 
 さて、次回から新シリーズが始まります。どの時代にタイムスリップできるのか、次回までのお楽しみです!


   

徳川家康 伊賀越え その3 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/06/11(土) 08:15

 「徳川家康・伊賀越えのルートを辿る」第3弾となりました。今回ウォーキングするのは、三重県伊賀市柘植町にある「徳永寺」です。 

 伊賀越えは、現在の大阪府堺市から愛知県の岡崎城まで200キロを超える距離になります。
 現在のように効率の良い移動手段がなかった時代ですし、命の危険も抱えながらの移動ですから、私たちの想像を絶する疲労があったことでしょう。 
 徳川家康の一行は伊賀越えの途中、移動の疲れを取るため写真の徳永寺で一泊したといわれています。
        
    

 
 家康は住職が出した茶が大変気に入ったそうです。その夜は、家康を守るために地侍が不眠の警護にあたりました。家康は感激し、礼として瓦に葵の紋の使用を許しました。

 伊賀越えのルートは諸説ありますが、現住職の静永史範さんによりますと、どのルートの説でも徳永寺は通るのだということです。それだけ伊賀越えを語る上では欠かせない史跡となっています。また寺の建立当時のことは明らかになっていませんが、"徳"川が"永"遠に栄えることを願って「徳永寺」と名づけられたとも言われています。あくまで一説ですが、その願いは後の江戸幕府の繁栄という形で実りました。

 今回ご紹介した徳永寺は、関西本線と草津線が接続する柘植駅から徒歩で約19分です。近くには柘植小学校があります。

 次回は、伊賀越えの終盤に差し掛かる白子浜をウォークします。どうぞお楽しみに。

徳川家康 伊賀越え その1 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/05/28(土) 10:18

 今回から「徳川家康・伊賀越えのルートを辿る」をテーマに、4回にわたってお送りします。

 17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代の礎を築いた徳川家康。まさに天下統一を果たしたわけですが、その家康が人生最大のピンチに遭遇した場面があります。それが伊賀越えです。

 天正10年・1582年、明智光秀が謀反を起こした本能寺の変により、織田信長は自害します。当時、信長と同盟を組んでいた家康は、招待を受けて舶来文化の輸入地である堺に見学のため滞在していました。その道中、"信長死す"の報が家康にもたらされるのです。この時いた家康の家来はわずか30人余り。しかも、旅行者にすぎなかった家康一行は平服だったため、何の戦闘力もありませんでした。これでは明智の軍勢や、巧名や褒美を目当てにした土民一揆や山賊らに太刀打ちできません。家康一行は危険を察知して、本国三河へ引き返すことにしました。
 まず、一行は人里はなれた大きな竹藪に身を潜めました。それが今回ご紹介した大阪府交野市にある「家康ひそみの藪」です。

 妙見坂小学校の敷地内にある竹藪の中に「伝 家康ひそみの藪」と書かれた石碑と、その横に説明版があり(写真)、いずれもフェンスで保護されています。そのままでも見られますが、さらに近くで見たいという方は小学校の許可が必要です。

 

   


 小学校の近辺は緑が多く、散歩をしている人の姿も見られました。身を潜めるのも去ることながら、ウォーキングにはぴったりの場所と言えそうです。

 「家康ひそみの藪」は妙見坂小学校を目印にアクセスしてください。いずれも直線距離で、京阪交野線の私市駅からは1.1km、同じく河内森駅からは1.6km、JR片町線(学研都市線)の星田駅からは1.4kmのところにあります。京阪バスの妙見坂七丁目で下車すると便利です。

 次回は、「草内の渡し」をウォークします。お楽しみに。

忘れられていた大阪の恩人・五代友厚の史跡を巡る その4 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/05/21(土) 08:20

 忘れられていた大阪の恩人・五代友厚の史跡を巡る」最終回となりました。
 今回ウォーキングするのは、大阪市中央区北浜にある「大阪取引所」、同じく本町橋にある「大阪商工会議所」です。

 五代友厚は、株式取引所条例の成立を受けて、自ら大阪証券取引所の前身である大阪株式取引所の発起人となり、その設立に尽力するなど、大阪の経済的基盤の構築にも熱心に取り組みました。
 また、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)も設立し、その初代会頭に就任するなど、大阪の発展に貢献し、日本の経済界における大阪の地位を大いに向上させました。

 この功績を讃えるべく、大阪市内には複数の銅像が建てられています。まず大阪取引所にある五代像。取引所の建物をバックに五代友厚が街行く人々を見守っています。胸を張って立つその姿には威厳すら感じさせます。(写真をご参照ください)


     

  一方、大阪商工会議所にある五代像はこれとは対照的に、建物に向かって立っています。第7代会頭の土居通夫、第10代会頭の稲畑勝太郎の銅像とともに並んでいます。こちらの五代像をよく見ると、右足を前に出し、右手のひらを上に差し出しています。何のポーズだと思われますか?
 これは、南陽さんの講談にもあったように五代友厚は薩摩示現流の使い手であり、刀を抜く前の姿を象ったものなのです。このように、場所によって五代像の違った個性が見られるのも歴史探訪の楽しみかもしれません。

 今回ご紹介した大阪取引所は、地下鉄堺筋線北浜駅 1B番出口直結、京阪電鉄北浜駅27番・28番出口直結です。一方、大阪商工会議所は、地下鉄堺筋線・堺筋本町駅より徒歩7分、地下鉄谷町線・谷町4丁目駅より徒歩7分です。

 4回にわたってご紹介してきた史跡のほかにも、五代友厚ゆかりの地が大阪にはまだまだあります。ぜひ探索してみてください!

忘れられていた大坂の恩人・五代友厚の史跡を巡る その3 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/05/14(土) 11:50

 「忘れられていた大坂の恩人・五代友厚の史跡を巡る」第3弾です。今回ウォーキングするのは、大阪市中央区北浜にある料亭「花外楼」です。

 明治8年、1875年に日本の政治の行方を決める重要な会議、いわゆる大阪会議が開かれました。大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文、井上馨らが集い、話し合いが行われた舞台が花外楼でした。
 南陽さんの講談にもあったように、花外楼は加賀の国から出てきた伊助が、料理旅館「加賀伊」を天保元年に開いたのが始まりです。その後木戸孝允が大阪会議の成功を祝って「花外楼」と命名しました。五代友厚はこの会議には参加していませんが、仲介役としての役割を果たしました。つまり、大阪会議を成功に導いた影の立役者ともいえます。

 花外楼は創業時から場所は変わっていませんが、3回の改装を経て現在に至っています。実際に大阪会議が開かれた部屋はもうありませんが、大阪会議に関する歴史資料などは今も残っています。
 玄関口の横には、「大阪会議開催の地」と書かれた石碑があります。これは昭和34年に大阪市第1号史跡に指定されました。さらに1階から2階へ続く階段の踊り場には、木戸孝允が書いた「花外楼」の文字が額に飾られています。
 川の流れを間近に眺めることができる広々とした客席を拝見すると、議論を弾ませていた当時の様子が思い浮かんできそうです。(写真をご参照ください)

      

 花外楼の本店は、京阪電車・北浜駅の29番出口を出てすぐのところにあります。地下鉄堺筋線の北浜駅からは徒歩2分です。この他、大阪城店やあべのハルカスにも支店があります。

 来週は、五代友厚の銅像が建つ「大阪取引所」、「大阪商工会議所」をウォークします。どうぞお楽しみに!

忘れられていた大坂の恩人・五代友厚の史跡を巡る その2 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/05/07(土) 08:20

 「忘れられていた大坂の恩人・五代友厚の史跡を巡る」第2弾。今回ウォーキングするのは、大阪北区中之島にある「大阪通商会社・為替会社跡」です。

 明治2年、1869年に政府の職についていた五代友厚が大阪発展のため豪商らに働きかけ、「大阪通商会社」及び「大阪為替会社」が設立されました。  
 通商会社は商業の振興や国内商品売買の仲介・外国貿易を統括し、為替会社は預金・貸付・お札の発行などの銀行業務を行っていました。
 しかしその後、通称会社は外国貿易独占への懸念から解散させられ、為替会社も明治4年には衰退し解散しました。このようにそれぞれが短命に終わりましたが、その後の株式会社、銀行への橋渡しとなったのです。

 南陽さんがご紹介した「大阪通商会社・為替会社跡」は、なにわ橋駅1番出口から徒歩約1分、京阪電車の淀屋橋駅18番出口から徒歩約2分、京阪電車の北浜駅23番出口から徒歩約4分です。
 「大阪通商会社・為替会社跡」と書かれた石碑が、大阪市中央公会堂を取り囲む植え込みの間にひっそりと佇んでいます。(写真)


       


 細い石碑である上に、植え込みの中に埋もれるようにして建っているので、油断すると通り過ぎてしまうほどです。ご注意を。

 来週は、大阪会議の舞台にもなった料亭「花外楼」をご紹介します。どうぞお楽しみに!


忘れられていた大坂の恩人・五代友厚の史跡を巡る その1 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/04/30(土) 08:20

 今回から4回にわたり、「忘れられていた大阪の恩人・五代友厚の史跡を巡る」と題してお送りします。今回ウォーキングするのは、大阪開港の地「川口運上所跡」です。薩摩出身の五代友厚が、その後切っても切れない関係となった大阪。そのきっかけとなった場所です。

 運上所とは港への物の出入りを管理する機関で, 外交事務や関税を取り仕切っていました。
 慶応4年、1867年5月に五代は外国官判事に就任し、川口運上所の事務を行うことになりました。その後明治5年、1872年に運上所の名称は「税関」に統一されます。

 今回、南陽さんがご紹介した川口運上所跡。地下鉄中央線と千日前線が交差する阿波座駅から西に500m、安治川に面して大阪税関富島出張所があります。その敷地内に「川口運上所址」が記された石碑と「大阪税関発祥の地址」と題した説明板があります。(写真)


        

 石碑や説明板はフェンスに囲まれています。そのままでも見られますが、さらに近くで見たいという場合は、大阪税関富島出張所の職員の許可が必要です。
 運上所跡の横には中之島漁港、さらに安治川を挟んで向かい側には大阪市中央卸売市場の建物も臨むことができます。
 最寄り駅は阿波座駅で徒歩およそ10分ですが、大阪市営バスの「川口一丁目」で下車するとさらに便利です。大阪駅からおよそ15分でアクセスできます。

 来週は、大阪は中之島にある「大阪通商会社・為替会社跡」をウォークします。どうぞお楽しみに!





   

真田幸村 大坂夏の陣の激戦地を巡る その4 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/04/23(土) 08:21

 今日のウォーキング先は「大阪天王寺の一心寺」です。

  大阪の陣の最終局面である「天王寺口の戦い」で討ち死にした徳川方の武将本多忠朝の眠る「一心寺」は先週ご紹介した「安居神社」のすぐ南側に位置しています。
 大阪市営地下鉄谷町線・四天王寺前夕陽ヶ丘駅、堺筋線恵美須町駅、地下鉄、JRの天王寺駅や近鉄線大阪阿部野橋駅からも歩いて10分少々です。


       


 境内東側に位置する本多忠朝の墓(写真)には酒封じの言い伝えがありお酒に苦しむ人々による断酒を祈願したしゃもじが数多く奉納されています。
 ほかにも俳人・小西來山、歌舞伎の八代目・市川団十郎の墓やお化け灯篭など緑の樹木に溢れる境内には多くの見所があります。

真田幸村 大坂夏の陣の激戦地を巡る その2 [玉秀斎の関西講談ウォーク]
2016/04/09(土) 08:20

  今日、ご紹介の豊臣方の武将薄田隼人(薄田隼人正兼相)の眠る「増福寺」は大阪市営地下鉄谷町9丁目駅から徒歩およそ9分。
  四天王寺前夕陽ヶ丘駅から徒歩およそ7分。近鉄線大阪上本町駅から徒歩およそ17分。生玉さんとも呼ばれる生国魂神社、生玉公園の南側、沢山のお寺の集まる地域の一角にひっそりと佇んでいます。
  通りに面した山門の右側には薄田の小さな石碑が置かれています。



 


  400年以上の歴史を誇る増福寺の境内には多くの墓が置かれていますが山門を入って右側に位置する薄田隼人、兼相の墓は大きな五輪塔の目  
立つ形です。
 山門の内側に説明があります。案内にしたがって見て行くとすぐに見つかるはずです。

 今回南陽さんがウォークした「増福寺」は、番組ホームページでもご紹介しています。どうぞ、ご覧下さい。
 来週は真田信繁ゆかりの安井神社をウォークする予定です。どうぞ、お楽しみに。