桂小五郎 その四
2017/12/23(土) 08:15 番組スタッフ

 元治元年・1864年7月に起きた禁門の変(蛤御門の変)で敗れた長州藩は朝廷側に敵視され、桂小五郎も追われる身となりました。

 しばらく京都で身を隠しながらの生活が続いていましたが、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになると、いよいよ潜伏も厳しくなりました。そこで但馬国の出石の町人・甚助、直蔵兄弟の助けにより京都を脱出、出石の町内各所で匿われることになります。

 小五郎がそこで潜伏生活を送っていた場所、現在の兵庫県豊岡市出石には、「桂小五郎住居跡(荒物屋跡)」と題された一角があります。町の老舗そば屋の横にあり、中央には「勤王志士桂小五郎再生之地」と刻まれた石碑が建てられています。周りには3つの記念碑も置かれ、その存在を後世に伝えています。

 当時は廣江屋という名の荒物屋が営まれていた場所で、小五郎は廣江孝助と偽名を使っていました。愛人の幾松もここを訪れたといいます。9ヶ月にわたる潜伏生活の末、九死に一生を得た小五郎は後に大業を成し遂げるわけですが、出石は小五郎が再生した地であるという意味合いが強いのです。

 その他にも町内には、小五郎が転々とした潜伏先に記念碑がいくつも置かれています。中でも、「畳屋茂七屋敷跡」と「角屋喜作屋敷跡」、「鍋屋喜七屋敷跡」の3つは、一つの交差点をほぼ取り囲むように石碑が置かれており、さほど離れていない住居を転々としていたことが伺われます。

 しかしその後、新撰組は小五郎が出石に潜伏している情報をつかみ、巡察にやってきました。彼らの目を逃れるため小五郎がさらに向かったのは、現在の兵庫県養父市にある西念寺です。

 創設されたのは慶長19年・1614年で、当初は西念庵と称する庵であったと伝えられています。寛政4年・1792年4月には、本堂・庫裡・楼門に至るまで焼失し、古い記録なども含め、全てを失ってしまいました。

 その13年後には再建されましたが、その翌年の文化3年・1806年1月、養父市場の大火の時に再び被災の憂き目に遭います。しかしその年の4月には庫裡が再建され、文政2年・1815年に本堂が建立され今日に至っています。(写真)



      


 つまり、小五郎がこの寺に匿われていたのは、焼失と再生を繰り返していた後の時代ということになります。境内には「維新史蹟 木戸孝允公 潜伏遺跡」と記された石碑があり、今や小五郎潜伏の地として知られています。

 今回ご紹介した「桂小五郎住居跡」は、JR山陰本線の八鹿、江原、国府の各駅から車で約25分の場所にあります。徒歩圏内に最寄りの駅がありませんので、車でのアクセスをおすすめします。一方、西念寺はJR山陰本線の養父駅から約1.1kmの場所にあります。

 次回はついに最終回。日本で政治の行方を決めるため、小五郎ら要人たちが大阪に集結します。どうぞお楽しみに!

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