桂小五郎 その三
2017/12/16(土) 08:15 番組スタッフ

 新国家の建設を目指していた桂小五郎を筆頭に、長州藩は京都で中央政界を牛耳る存在となりました。しかし、文久3年・1863年、彼らと相対する会津藩、薩摩藩が八月十八日の政変を起こし、小五郎は京都から追放の憂き目に遭います。

 翌年、小五郎は再び京都に入り、潜伏しながら長州藩の立場を回復させようと奔走しました。長州藩など攘夷派の志士たちが潜伏する旅館・池田屋へは一番早く行きましたが、まだ同志が集まっていなかったため、近くの対馬藩邸に向かっていました。その間に起こったのが、新撰組が攘夷派を襲撃した池田屋事件です。つまり小五郎は運良くこの難を逃れたのです。

 池田屋事件の跡地は現在、居酒屋となっており、その前に「維新史跡 池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。これについては去年、新撰組を特集した際にご紹介しています。詳しくはバックナンバーをご覧下さい。

 池田屋事件の騒動は、長州藩の急進派を刺激することになり、元治元年・1864年、禁門の変(蛤御門の変)を起こします。現在の京都御苑の西側に位置する蛤御門の周辺で、長州藩と、御所の護衛にあたっていた会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が繰り広げられました。

 御苑の周りには、かつての公家町と市中を区切っていた9つの御門があります。その一つが蛤御門です。(写真)


          


 もともとは新在家御門という名前でしたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたことから、「焼けて口開く蛤」に例えて、蛤御門と呼ばれるようになったと言われています。

 烏丸通りに面した門の前には「蛤御門」と書かれた石柱があり、門をくぐってすぐの所に説明板があります。現在も門の梁には、その時の鉄砲の弾傷らしき跡が所々に残っています。結局、この戦は長州藩の惨敗となり、戦火で民家38000戸余りを焼いたということです。

 禁門の変以降、再び小五郎は幕府に追われる身となります。恋人の幾松などの助けを借りて、潜伏生活に入りました。その際に暮らしていた場所が現在も残っています。

 それが京都市中京区木屋町にある旅館「幾松」です。長州藩控屋敷として建てられたのが始まりで、上記のエピソードから「幾松・桂小五郎寓居址」とも呼ばれます。鴨川に面した幾松の部屋には、幾松の肖像画や小五郎直筆の掛け軸が飾られ、新撰組に襲撃された際に桂小五郎が隠れた長持(衣類などを収納する長方形の木箱)も残されています。

 さらに、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井など出来る限り当時に近い状態で保存されています。当時は、不意の敵にそなえて、幾松の間の天井には大きな石が仕掛けられていたそうです。

 なお、幾松の部屋は国の登録有形文化財となっており、宿泊はできませんが、旅館での宿泊や食事をする人には希望に応じて、説明付きで案内してもらえるということです。見学できる期間や時間帯は限られているので、詳しくは旅館のホームページをご覧下さい。

 京都御苑の蛤御門は、地下鉄烏丸線の丸太町駅から北へ、同じく今出川駅からは南へともに徒歩約8分です。一方、旅館・幾松は、地下鉄東西線の京都市役所前駅から徒歩約2分です。

 次回は、京都を離れる小五郎、出石に向かいます。どうぞお楽しみに!

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