桂小五郎 その一
2017/12/02(土) 08:15 番組スタッフ


 今月は、長州藩のリーダーとして活動し、明治新政府でもトップの一人として近代国家・日本の建設に大きな役割を果たした桂小五郎、後の木戸孝允を取り上げます。

 小五郎は、天保4年・1833年に現在の山口県萩市で長州藩医(藩に仕えた医師)・和田昌景の長男として生まれました。その後、吉田松陰に兵学を学び、江戸への留学では剣術の免許皆伝を得て、道場の塾頭(塾長)になるなど、剣豪の名を轟かせました。

 小五郎が藩の命令により京都にやってきたのは文久3年・1852年のことです。小五郎の拠点である長州藩邸があった場所は、今も石碑や小五郎の銅像が置かれ、後世に伝えられています。

 現在は京都ホテルオークラの敷地となっていますが、その南側、御池通りに面した柱の陰に「長州屋敷址」と刻まれた石碑がひっそりと建っています。横にある説明板によると、藩邸は初め南北2ヶ所に分かれていたということです。北側の屋敷は表口約70m、奥行は約56m。一方、南側の屋敷は表口約54m、奥行は約14mに及びました。

 しかし、元治元年・1864年の蛤御門の変(禁門の変)で長州藩は朝廷・幕府側に敗れたため、自らこの邸内に火を放ち、逃れました。明治維新後、この藩邸跡は国の所有となり、産業の振興を図るため勧業場が設立され、後にホテルが建てられることになります。

 また、ホテルの北西側、河原町通りに面した柱の間には、小五郎の像があります。(写真)剣を携え、どっしりと腰を下ろし遠くを見つめる姿は、小五郎の凛とした存在感を示しています。


        
     




 今回の講談にも出てきますが、長州藩邸跡であるホテルから5分ほど歩いた所には、高瀬川一之船入があります。これは現在、国の史跡に指定されている場所で、船入とは、荷物の積み下ろしや船の方向転換を行う入り江のことを言います。

 高瀬川は慶長19年・1614年、嵯峨の豪商・角倉了以・素庵父子によって開かれた物流用の運河です。京都は古代・中世を通して経済・文化の中心でしたが、内陸部に位置していたため、交通・運輸の面で難点を抱えていました。これを打開するために、大量輸送を目的とした、伏見・二条間を結ぶ水運を完成させたのです。高瀬舟(川の浅い所を航行できるよう底を平たくした船)が使われたことから、この名前が付けられました。

 物流が盛んな頃には、百数十艘の船が行き交い、伏見を通じて大阪などの物資を運び入れ、京都の経済発展に大きな役割を果たしました。この頃は多くの問屋が立ち並んで賑わったということです。現在も高瀬川流域には、材木町や石屋町など当時の職種や商品を反映した町名や、船頭町など町の成り立ちを反映した町名が残っています。

 
 明治になって鉄道が開通すると、次第にその機能を失い、大正9年・1920年には廃止されます。現在は「史蹟 髙瀬川一之舩入」と書かれた石碑が置かれ、当時を再現した船が川に浮かべられています。入り江沿いには了以の名前を取ったカフェがあり、盛時の高瀬川に思いを馳せることができます。

 長州藩邸跡や小五郎の像がある京都ホテルオークラは、地下鉄・東西線「京都市役所前駅」直結です。高瀬川一之船入の石碑は、そこから北東に2分ほど歩いた所にあります。

 次回は、日本の行方を京都で議論する小五郎が、一人の女性と出会います。どうぞお楽しみに!


  

コメント