秀吉・紀州攻め その四
2017/11/25(土) 08:15 番組スタッフ

 羽柴秀吉による紀州攻めのお話も今回が最終回。根来寺を陥落させた秀吉の残る目標は、太田城(現在の和歌山県和歌山市太田)です。

 太田城は延徳年間・1490年頃に、紀俊連が日前神宮・国懸神宮の神領保護を目的として、秋月城、三葛城と共に築城したのが始まりと言われています。

 天正4年・1576年には、太田村の郷士・太田源三郎が修築しました。城は周囲を深い堀で巡らされ、その塁上には土壁が建てられ、各所に高い櫓を設けるなど平城ではありましたが、堅固な造りになっていたといいます。

 秀吉の紀州攻め以前にも、この城は戦の舞台になっていました。天正5年・1577年、織田信長が雑賀城を攻める際には、太田衆が信長軍を先導しました。翌年、信長軍が引き上げた後、雑賀衆は太田城を攻めましたが、その堅固な守りに和睦を申し入れて停戦しています。

 その8年後、秀吉が攻め入った際には、太田左近を大将に約5000人の太田衆が城に立て籠もり、10万人余りの秀吉軍に対して強く抵抗しました。秀吉軍は、いったんは力攻めを敢行しましたが高い土塁に守られた城内からの弓や鉄砲の攻撃に多数の死傷者を出すことになります。

 そこで秀吉は、城を取り囲む総延長5~6kmにも及ぶ堤防を築き、川の水を流し込み、城を水で囲む、いわゆる水攻めを行いました。雨が降ったこともあり、水かさが増し、城は完全に水の中に孤立しました。一ヶ月続いた攻防の末、ついに左近ら中心人物50人余りの首を差し出すことを条件に、他の者の命が助けられたのです。

 太田城は今や、岡山県高松城、埼玉県忍城とともに、日本三大水攻めの一つに数えられています。城の遺構は全く存在せず、来迎寺の境内がその城跡とされています。山門の横には城に関する歴史が詳しく書かれた説明板があり、境内には「太田城址碑」と刻まれた大きな石碑が建っています。(写真)


           


 城の範囲は、来迎寺やその隣の玄通寺を中心に東西250m、南北200mあり、東に大門を持っていたとされます。

 来迎寺の隣、北東に約50m進んだ所には、この戦いで亡くなった者を葬った小山塚があります。「太田城水攻遺蹟 小山塚」と記された大きな石碑があり、その裏に碑文が書かれています。もともとは別の場所にありましたが、昭和60年・1985年の土地区画整理事業により、現在の場所へ移されました。毎年4月には、この場所で太田城士祭りの法要が営まれています。

 寺の北東約250mの所には、太田城の大門があったとされる大門橋があり、北東約700mには秀吉軍が水攻めの際に築いた堤防跡「太田城水攻め堤跡」があります。一方、寺の西約1kmの場所にある大立寺の山門は、太田城の大門を移築したものと言われています。この門はもともと和歌山市内の功徳寺にあり、第二次世界大戦後に現在の場所に移築されました。なお、堤跡と山門は、ともに和歌山市指定文化財となっています。

 太田城跡の来迎寺は、JR阪和線・和歌山駅から徒歩約7分です。
 
 来月は、明治維新に貢献した維新の三傑の一人、桂小五郎(木戸孝允)のお話です。どうぞお楽しみに!

コメント