秀吉・紀州攻め その一
2017/11/04(土) 08:15 番組スタッフ

 今月は、秀吉が豊臣の姓を名乗る前、羽柴秀吉として活躍していた時代のお話です。


 秀吉は、現在の和歌山県や三重県南部にあたる紀伊国を平定しようと動き出します。いわゆる紀州攻めです。当時の紀伊は、寺社など中央集権思想に真っ向から対立する勢力がしっかりと根を張っていました。その中心的な存在が根来衆、雑賀衆などです。

 彼らは大坂への侵攻の動きを見せていたため、秀吉は強く警戒し、彼らの拠点である根来寺(和歌山県に現存)を攻略する機会をうかがっていました。天正11年・1583年、秀吉は家臣の中村一氏を岸和田城に入れ、紀伊に対する備えを固めます。

今回ご紹介するのは、その岸和田城です。(写真)

 

        
 
   

 伝承によると、建武の新政があった1334年頃に楠木正成の一族・和田高家が築いたのが始まりとされています。紀州攻めの拠点になった後は、秀吉の叔父にあたる小出秀政が城主になり、五層の天守を築いて本格的な城構えとなりました。

 元和5年・1619年、松平康重の代になると、総構えと城下が整備されます。寛永17年・1640年に岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を統治しました。

 時は流れ、岡部長泰公が城主だった時代の元禄16年・1703年、京都伏見稲荷を城内三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈った稲荷祭を行いました。この稲荷祭が現在の岸和田だんじり祭の始まちと伝えられています。

 その後天守閣は、文政10年・1827年に落雷により焼失してしまいます。明治維新の時代には、櫓や門などの城郭施設を自ら破壊したため、在りし日の城の様子がうかがえるのは、今や堀と石垣しかありません。

 しかし、昭和29年・1954年に天守閣は再建されました。市民からの強い要望と寄付金、さらに城主だった岡部氏の子孫も復活を望んでいたことが、再建を後押ししたと言われています。また昭和44年・1969年には城壁・城門・隅櫓が再建されました。

 平成3年・1991年からは、天守閣の屋根葺き替え、外壁の塗り替え、内部の改修など、約1年かけての大改修を行いました。この時に生まれ変わった姿が現在に至っています。今や観光振興の拠点となり、天守閣はウエディング会場に、多聞櫓・隅櫓もギャラリーや各種イベントに使われることがあります。

 天守閣の前には、八陣の庭と呼ばれる庭園が広がっています。昭和28年・1953年に作庭されたものですが、その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値が高いことから、平成26年・2014年に国の名勝に指定されました。こちらも訪ねてみて下さい。

 岸和田城は、南海電鉄・蛸地蔵駅から徒歩約10分、同じく岸和田駅から徒歩約15分です。開場時間が午前10時から午後5時まで(入場は午後4時まで)です。毎週月曜日と年末年始(12月29日~1月3日)は休場です。入場料は大人300年、中学生以下は無料です。詳しくは、岸和田市のホームページをご覧下さい。

 次回は、根来衆や雑賀衆などが拠点の一つとした千石堀城をご紹介します。どうぞお楽しみに!

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