足利義昭 その四
2017/10/28(土) 08:15 番組スタッフ


 室町幕府最後の将軍・足利義昭の物語も今回が最終回です。

 織田信長との対立が決定的になり、天正元年・1575年、義昭は槇島城で挙兵します。しかし、信長は数万の軍勢で包囲し、攻撃を始めると城のほとんどを破壊。信長が圧倒的に有利の中、義昭はしぶしぶ降伏し、城を後にします。義昭が羽柴秀吉らに護送される形で向かったのが、河内国若江郡(現在の大阪府東大阪市若江南町)の若江城です。

 若江城は、南北朝時代の争乱期である永徳2年・1382年、幕府の命令により河内国内の武士の統率と取り締まりのため、河内国の守護に任じられた畠山基国が、北朝方の拠点として築いたのが始まりとされています。そこから約200年もの間、河内国を守護する役所としての役割を果たしました。

 城があった場所は、大和川とその支流が網の目のように流れ、湿田・湿地に囲まれた天然の要害です。古くから役所や寺・神社があり、経済活動も盛んでした。

 しかし、城を代々継いできた畠山氏の家督争いが原因で、ついに応仁の乱が勃発。城は争奪戦の渦中に巻き込まれます。乱が収まっても、畠山氏内部の勢力争いは60年にわたって続き、畠山家の勢力は次第に衰えていきました。

 やがてその支配は細川氏、三好氏へと移り、永禄11年・1568年には信長が三好義継を城主にしました。この義継、実は妻が義昭の妹、つまり義昭の義理の弟にあたります。義昭が若江城に護送されたのも、この辺りの事情があったのかもしれません。

 その後信長は、政教分離を巡って、仏教宗派である一向宗と対立を激化させました。城は、一向宗の本拠である石山本願寺を攻撃するための拠点になります。和解が成立すると、その役割も終わり、ついに廃城となりました。歴史から姿を消して数百年もの間、その実像が知られることはありませんでした。

 しかし、昭和47年・1972年以来の発掘調査で、二重の堀や土塁、各種建物、溝、井戸などの跡や、瓦類、土器類、武器類など、城跡の存在を裏付ける多数の資料が出土しました。

 現在、遺構は残っていませんが、城跡を記念する石碑があります。府道24号線を挟む形で石碑と説明板が置かれています。「旧若江城跡」と刻まれた石碑(写真)がある一角は小さな神社のようになっており、鳥居はもちろん、その他様々な石碑が建てられています。「道路拡張記念」と題された石碑には、大阪城築城の際に、この城の重宝や石垣などが利用されたことも記されています。


                         

     

 一方、道路を隔てた向かい側、若江公民分館の敷地内に説明板があります。ここで城の歴史を知ることができ、発掘調査が行われた当時の写真も見ることができます。

 若江城跡の石碑は、近鉄奈良線の若江岩田駅から徒歩約15分です。

 今回の講談の最後にもありましたが、義昭は晩年、秀吉の御伽衆に加えられました。御伽衆とは、主君の側近として仕え、政治や軍事の相談をしたり、世間話の相手も務めたりする役職のことです。戦国時代は参謀としての役割が強く、多くは第一線から退いた武将などが務めていました。秀吉の時代には町人なども召し出され、文化の担い手となりました。彼らの講釈話が庶民に広がり、後の講談や落語の源流になったとも言われています。

 来月は、羽柴秀吉による紀州攻めのお話をお聴きいただきます。どうぞお楽しみに!

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