足利義昭 その三
2017/10/21(土) 08:15 番組スタッフ

 足利義昭は本拠として二条城を整備しました。ついに正統な血筋による将軍家を再興したのです。


 しかし、幕府の再興を念願としていた義昭とは裏腹に、信長は武力による天下統一を狙っており、両者の関係は徐々に悪化していきました。信長は幕府の権力を制約するために、「殿中御掟」という9ヵ条の掟(後に21ヵ条に増える)を義昭に承認させます。

 その後も、信長が幕府の威光を利用する形で様々な戦を繰り広げる一方、義昭は独自の外交を展開していました。義昭の行動を信長が批判。これに不満を持った義昭は、上杉謙信や毛利輝元、武田信玄などとともに信長包囲網を敷きます。

 信玄が徳川家康に勝利したことや、信長包囲網などで義昭の立場が有利となり、信長は和睦を図りますが、義昭はこれを拒否します。両者は絶縁となりますが、信玄が西上する途中で死去したことで、立場が逆転。信長はすぐさま京へ軍勢を出します。追われた義昭は二条城から槇島城に居を移します。槇島合戦の火蓋が切って落とされました。

 今回ご紹介する槇島城跡は、現在の京都府宇治市槇島町にあります。遺構はありませんが、住宅街の一角にある小さな公園に「此の附近 槇島城跡」と刻まれた石碑と説明板があります。(写真)


         

  

 それによると、槇島城は元々、室町時代から安土桃山時代にかけて、足利将軍家の家臣・真木島氏が本拠としていた城でした。城のあった場所は交通の要衝であり、また回りを川で囲まれた天然の要害にもなっていました。義昭が真木島昭光のいるこの城に入ったのは、元亀4年・1573年のことです。

 説明板には、現在の周辺地図と合戦当時の地図が二つ並べられていて、位置関係が分かりやすく記されています。そこには、合戦での信長軍の進路も示されています。信長配下の豊臣秀吉、明智光秀、柴田勝家らは北から、同じく稲葉一鉄らは南東方面から進軍しており、城が挟み撃ちのような格好になっていたことが分かります。

 開城後は信長・秀吉によって管理されますが、文禄3年・1594年頃には廃城になったと考えられています。城があった場所は、秀吉による堤の築造や宇治川の改修などにより景観がすっかり変わったということです。その後は城の位置だけでなく、存在そのものも忘れ去られようとしていました。

 石碑がある公園から、さらに北へ5分ほど歩いた場所には槇島公園があります。田畑に囲まれた緑豊かな公園の一角に、槇島城記念碑が置かれています。その存在を後世に伝えるため、また歴史と自然に恵まれた町のシンボルとして記念するため、平成16年・2004年に建立されました。

 槇島城跡は、JR奈良線の宇治駅、または京阪電鉄の宇治駅から徒歩約30分です。同じ宇治駅ですが、JRと京阪ではかなり離れた場所にあるので、それぞれのルートを確認の上アクセスして下さい。

 次回、義昭の物語もついに最終回です。どうぞお楽しみに!
 

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