足利義昭 その二
2017/10/14(土) 08:15 番組スタッフ
足利義昭は、織田信長を後ろ盾に室町幕府第15代将軍に就任。仮の御所を本圀寺に定めるも、その翌年には襲撃を受けます。相手は三好三人衆。兄の義輝を暗殺した勢力です。信長が本国である美濃に戻り、本圀寺の警護が手薄になった隙を狙いました。

 義昭を守ろうと織田の軍勢は何とかこれを凌ぎましたが、本圀寺での防衛に脆弱さを感じた信長は永禄12年・1569年、城を築くことを決めました。それが二条城です。二条城といえば江戸時代に徳川家康が築いたものが有名ですが、それとは別の城で、区別するために「旧二条城」とも呼ばれます。

 現在、京都御所の西側、京都市上京区五町目町にある平安女学院大学の敷地内に「旧二條城跡」と書かれた石碑があります。(写真)


        

     

 石碑の背後にある説明板には、当時の建設現場に立ち合ったポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス・フロイスがまとめた記録などが書かれ、在りし日の城の様子を知ることができます。

 フロイスの記録によれば、この石碑を中心とした約390m四方の敷地に、70日近くで二重の堀や三重の天主を備えた堅固な城が築かれたということです。城を築くには短い期間でした。工事には日々15000人から25000人が従事し、本圀寺の建築物から荘厳・華麗なものを選んで解体、調度品とともに運んで再建されました。

 また、濠の石垣構築に際しては、洛中・洛外の石仏・五輪塔・庭石・石灯籠等を手近な所に求め、単なる用材として石垣に積み込みました。急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀を散りばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったといいます。

 旧二条城は後に、信長が東宮誠仁親王を迎え入れ、「二条御所」としても使われていました。しかし、室町幕府の滅亡により廃城となりました。天正4年・1576年に旧二条城は解体され、安土城の築城に際して建築資材として再利用されました。

 現在ある二条城の本丸西側には、復元された旧二条城の石垣を見ることができます。これらの石垣は、地下鉄烏丸線の工事中に発見されたものです。その石組みからは、「犬走り」と呼ばれるテラス状の防御施設が城を巡っていたことも分かっています。石垣の近くには説明板があり、旧二条城の範囲が、北は出水通り、南は丸太町、東は烏丸通りから京都御所に少し入った辺り、西は新町通りの東側にあったという推定図も見られます。

 烏丸丸太町交差点を北へ約120m行った、京都御所の椹木口を入ってすぐの所にも旧二条城の石垣が保存され、石仏などの発掘品は京都文化博物館や洛西竹林公園内などに展示されています。ちなみに、旧二条城跡の石碑の近くには、兄・義輝の邸宅跡を記す石碑もあります。義輝はここで政務をとり、暗殺に伴い邸宅は焼失したということです。こちらも訪ねてみて下さい。

 旧二条城跡の石碑は、地下鉄烏丸線の丸太町駅から徒歩約5分です。一方、旧二条城の石垣が見られる二条城は、地下鉄東西線の二条城前駅を下車してすぐです。

 来週は、義昭と信長の関係に変化が起きます。どうぞお楽しみに!

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