足利義昭 その一
2017/10/07(土) 08:16 番組スタッフ


 今月の主役は、室町幕府最後の将軍・足利義昭です。

 第12代将軍・義晴を父に持ち、兄には第13代将軍・義輝がいます。しかし、義昭はもともと将軍家の跡継ぎではなかったため、慣例によって仏門に入ります。奈良の一乗院で門跡(皇族・公家出身の住職)となり、覚慶と名乗っていました。

 しかし、兄の義輝が三好三人衆らによって暗殺。覚慶も捕えられ幽閉されていましたが、義輝の側近らに助けられ脱出することに成功しました。ここで覚慶は将軍家の当主になることを宣言します。還俗(僧侶になった者が俗人に戻ること)して、その後織田信長に擁されて京都に入り、第15代将軍に就任しました。

 この時、義昭が仮の御所としたのが本圀寺(六条御所)です。現在は京都市山科区御陵にありますが、以前は別の場所にありました。ここからは本圀寺の歴史を紐解きましょう。建長5年・1253年8月、日蓮が鎌倉に法華堂を構えたことが始まりとされています。当初は本国寺という表記でした。

 鎌倉幕府が滅び、政治の中心が京都に移った貞和元年・1345年3月、第4代の日静が光明天皇から寺領を京都の六条堀川に授けられたことにより移転しました。寺の領地は北が六条坊門(現五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めたといいます。

 天文5年・1536年に起きた天文法華の乱で焼失し、一旦は堺に非難しますが、11年後には元の場所に再建されました。義昭がここを仮の御所としたのは永禄11年・1568年のことです。現在の京都市下京区には、その痕跡を記す石碑があります。(写真)



                        

 
 西本願寺の北側・大宮通り沿いと、さらに北上した堀川通り沿いの2ヶ所で、ともに「大本山本圀寺」と刻まれています。堀川通り沿いの石碑の横には説明板がありますが、義昭が御所としていた時代の言及はありません。そして残念ながら、いずれの地にも遺構はありませんでした。

 義昭が御所を構えた翌年、兄の義輝を暗殺した三好三人衆らが義昭を襲撃する「本圀寺の変」が起きます。寺は損傷を免れましたが、防衛上の脆弱さから新たに二条城を建築することになりました。その際に寺の一部を解体、移築しました。江戸時代には徳川家康が寺領を継承します。その後徳川光圀が生母の追善供養を行うなど様々な交流があったことから、光圀より圀の字が贈られ、名を本圀寺に改めます。

 しかし近代に入り、末寺の解体、戦後の農地改革、寺所の散失など時の流れに抗うことはできず、経営難に陥りました。昭和46年・1971年に敷地を売却して、山科に移転、現在に至ります。門や鳥居などには金色の装飾が多く施されている煌びやかな寺院です。天智天皇の御陵と並び、桜並木と美しい幹の松林に包まれ、四季折々の風情にも彩られています。

 本圀寺跡の石碑はそれぞれ、JR京都駅から徒歩約15分です。一方、現在ある本圀寺は、京都市営地下鉄・御陵駅から徒歩約15分です。

 次回は、ついに襲撃を受ける義昭。舞台は本圀寺から二条城へと移ります。どうぞお楽しみに!


     






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