後醍醐天皇 その五
2017/09/30(土) 08:15 番組スタッフ

 鎌倉から南北朝にかけての動乱の時代、その渦中にいた後醍醐天皇と足利尊氏の物語は今回が最終回です。


 後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏は京都に攻め入りました。一方、後醍醐天皇は比叡山に入り抵抗します。しばらく攻防が続きましたが、戦況は足利方有利に傾きます。ついに尊氏が後醍醐天皇に和解を申し入れました。これに応じる形で三種の神器が足利方に渡り、尊氏は新たに光明天皇を擁立し、幕府(北朝)を開きます。

 しかし、後醍醐天皇は京都の吉野に逃れ、朝廷(南朝)を開き、南北朝時代が始まります。依然として後醍醐天皇の倒幕への思いは変わりません。全国各地に自らの皇子を派遣し、北朝に対抗させようとしました。しかし、劣勢を覆すことはできず、病に倒れ、暦応2年/延元4年・1339年に崩御します。

 その後、後醍醐天皇の冥福を祈るため、禅僧の夢窓疎石は寺院の建立を足利尊氏に進言します。これによって創建されたのが、現在の京都市左京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある天龍寺です。(写真)



     
 

 正式名称は「霊亀山天龍資聖禅寺」。当初は、年号をとって「暦応資聖禅寺」と称されましたが、尊氏の弟・直義が見た金の龍が舞う夢を由来とし、この名に改められました。寺があった場所には、もともと後嵯峨上皇・亀山上皇の離宮「亀山殿」があり、後醍醐天皇もここで幼少期から青年期を過ごし、学問を修めたゆかりの地です。

 天龍寺を建立するために、尊氏と光厳上皇は諸国の荘園領地を寄付し、さらに中国との貿易船「天龍寺船」を派遣して、その利益を資金としました。それによって応永22年・1415年には七堂伽藍など境内の小寺院の数は120を超え、面積が4キロ四方にもわたる壮大な寺に繁栄していきました。室町時代には、京都五山で第一位の寺格を誇りました。

 しかし、寺は後に8回も大火に見舞われます。その最後は元治元年・1864年、幕末に起きた蛤御門の変。薩摩軍の兵火にかかり灰塵に帰しました。さらに明治10年・1877年には土地没収の命令・上地令が出され、境内の面積はかつての10分の1になりました。そんな逆境の中でも、天龍寺は復興を続け、昭和10年・1935年には現在の寺観に整えられました。

 後醍醐天皇が祀られているのは「多宝殿」。まさにここが、後醍醐天皇が学問を励んでいた場所です。現在の建物は昭和9年・1934年に再建されたもので、建築様式は後醍醐天皇が吉野にいた時代の紫宸殿造りとなっています。中央には後醍醐天皇の像があり、両側に歴代天皇の位牌が置かれています。多宝殿の前には、「後醍醐天皇菩薩塚」もあります。春になるとこの一帯には枝垂れ桜が咲き乱れ、華を添えます。

 一方で、「法堂(はっとう)」には、光厳上皇の位牌や、尊氏と疎石の木像が祀られています。見どころは天井に描かれた雲龍図。これは疎石の650年遠諱記念事業として平成9年・1997年に描かれたものです。躍動する見事な八方睨みの龍が墨色で描かれています。

 さらに、疎石が作庭したとされる「曹源池(そうげんち)庭園」は、日本で最初の史跡・特別名勝に指定されました。中央の曹源池を巡る池泉回遊式庭園(池とその周囲を巡る遊歩道を中心に作られた庭園)で、川を隔てた嵐山や、庭園の西にある亀山を背景に取り込んだ造りになっています。平成6年・1994年には、世界文化遺産に登録されました。

 天龍寺は、京福電鉄嵐山線の嵐山駅で下車すぐ、JR嵯峨野線の嵯峨嵐山駅からは徒歩約13分、阪急電車の嵐山駅からは徒歩約15分です。その他、市バスなどでもアクセスできます。

 参拝時間は午前8時30分から午後5時30分までで、境内には無料で入れます。なお、今回ご紹介した多宝殿や法堂、曹源池庭園へは参拝料が必要です。法堂の雲龍図は基本的に土日・祝日のみの公開です。年中行事としては、毎年9月15日に後醍醐天皇忌が行われます。詳しくは寺のホームページも合わせてご参照下さい。

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