後醍醐天皇 その二
2017/09/09(土) 08:15 番組スタッフ

 今週は、笠置山での激しい攻防をお聴きいただきました。現在も笠置山(京都府相楽郡笠置町)の周辺や山中には、後醍醐天皇に関する史跡などが数多く残っています。それぞれをご紹介しましょう。

 JR関西本線の笠置駅を降りてすぐの所には、笠置山の戦いの様子が象られたオブジェが置かれています。タイトルは「太平記元弘の乱笠置合戦」。笠置山に逃げ込んだ後醍醐天皇が率いる軍勢は3000人余り。一方で、笠置山を四方から包囲し追い詰める幕府軍の数は75000余りと言われています。

 数では圧倒的に不利な天皇方ですが、笠置山は全てが巨大な岩や怪石で覆われた"天然の要害"。幕府軍にとって攻撃は容易ではありません。しかも、後醍醐天皇側には主に2人の人物が活躍し、幕府軍に甚大な被害を与えました。

 小高い山のオブジェの左側、弓を引いているのが三河国に住む武士・足助次郎重範。彼の強弓により幕府軍の先陣がいとも簡単に射殺され、これを皮切りに激しい戦闘が始まりました。夕刻になった頃、今度は般若寺の本性房という大力の僧が巨岩を投げつけ、またもや幕府軍を後退させます。その姿はオブジェの右側、重範の隣で力強く表現されています。

 そこから数歩進むと産業振興会館がありますが、入り口からすぐの場所には、楠木正成が後醍醐天皇に拝謁する場面がほぼ等身大にジオラマ化されています。産業振興会館の道路沿いには、「笠置元弘の乱絵巻」と題された長く連なるパネルがあり(写真)、戦の様子を詳しく知ることができます。


         

 
 そこから山の麓に辿り着き、さらに歩行者用の登山道を上がること約30分。笠置寺の山門が現れます。山門から頂上に至るまでの間にも、様々な史跡が点在しています。

 「二の丸跡」は現在、休憩所が建てられているほどの広い場所です。笠置山はあくまで後醍醐天皇の仮の皇居だったので、正式な築城はされなかったということです。しかし室町時代以降、山頂付近にある仮皇居を本丸と見たて、この場所を二の丸と呼ぶようになりました。当時の山の構造が分かる貴重な痕跡です。

 「十三重石塔」は、笠置山の戦いにおける戦死者の供養塔とも伝えられています。もともとは木造瓦葺きの十三重塔が建立されていましたが、笠置山の戦いで焼失していました。

 「行宮遺址」は仮皇居が置かれたのを記念して、明治22年に有志者により、高さ7.6m、幅6mの巨大な自然石に刻んだ碑です。もちろん「行宮遺址」と刻まれていますが、一字が1m36cm四方もあるということです。

 頂上に近づくにつれ、巨大な岩や怪石が増えてきます。「ゆるぎ石」は、幕府軍の奇襲に備えるため武器として持ち運ばれたものですが、実際は使用されませんでした。重心が人の力で動くことから、この名が付けられました。「貝吹き岩」は、天皇方の武士が士気を高めるために、この岩上から盛んにホラ貝を吹いたと言われている場所です。

 一旦山頂を経由して少し下がった場所に、「後醍醐天皇行在所跡」がついに見えてきます。玉垣で囲まれた一角が後醍醐天皇の仮皇居とした場所です。その近くには、後醍醐天皇が詠んだ歌が記された石碑もあります。「うかりける 身を秋風に さそわれて 思はぬ山の 紅葉をぞ見る(憂き身は苦しく辛いが、秋風に誘われるように都を出て、思いかけずに吉野山の紅葉を見ている)」。結局、約1ヶ月にわたる攻防の末、夜半の風雨を味方にした幕府方の北条軍50人の決死隊により奇襲攻撃を受け、笠置山全体が灰塵に帰してしまいました。説明板の横には行在所跡へつながる長い階段が続いていますが、階段から先は枯れ木落下などの危険防止のため、"ご遠慮下さい"という注意書きがあります。

 その他、巨岩でできた岩のトンネル「胎内くぐり」や、大岩の細かい隙間を通る「蟻の戸わたり」、高さ16m近い日本最大の磨崖仏「弥勒石」など見どころ満載です。

 笠置山は、JR関西本線の笠置駅から山頂まで徒歩約45分です。

 次回は、後醍醐天皇を愛した妃のお話です。どうぞお楽しみに!

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