後醍醐天皇 その一
2017/09/02(土) 08:15 番組スタッフ

 今月の舞台は、鎌倉から南北朝に移り行く時代、つまり政治勢力が二つに分かれる動乱の時代です。その渦中にいた後醍醐天皇と足利尊氏の物語をお送りします。

 後醍醐天皇は、天皇による親政と自らの皇統を維持するため、鎌倉幕府の存在を排除しようとしていました。最初の倒幕計画は正中元年・1324年に立てられましたが、事前に発覚したため失敗。幕府の機関・六波羅探題により天皇の側近が処分されましたが、後醍醐天皇には処分は下されませんでした。

 
 その後も、後醍醐天皇による倒幕の意志は変わりませんでした。しかし、着々と進めていた倒幕計画は元弘元年・1331年、密告によって再び露見されてしまいます。側近である日野俊基ら関係者は処刑され、追及の手はついに後醍醐天皇にも及びました。

 後醍醐天皇は急遽、京都の御所を後にし、幕府側の追跡をかわすため各地を転々とします。そして、御所を脱してから4日後に辿り着いたのが、今回の講談の舞台でもある笠置山です。

 現在の京都府相楽郡笠置町にある標高289mの笠置山には長い歴史があります。弥生時代の石剣が発掘されたことから、山中にある巨石は2000年前から信仰の対象だったことが分かっています。しかし、実際に建物が建てられ、人が住むようになったのは1300年前ということです。

 そしてその頃、東大寺を開山した良弁によって、笠置山の大岩石に仏像が彫刻され、それを中心として山全体が一大修験行場として栄えました。このように自然の岩山に仏像を刻んだものを磨崖仏と言います。平安時代には、この磨崖仏が多くの信仰を受けることになります。

 笠置山が全盛を極めたのは鎌倉時代の建久2年・1191年。藤原貞慶(後の解脱上人)が日本の宗教改革者として、その運動を笠置寺から展開するとき、笠置山は宗教の山、信仰の山としての地位を不動のものとします。後醍醐天皇が逃げ込んで来たのは、それから140年後のことでした。

 後醍醐天皇と幕府側との攻防の末、山は焼き尽くされました。その後も少々の復興と荒廃を繰り返し、ようやく現在の山容になりました。昭和7年・1932年に史跡名勝の指定を受け、昭和39年・1964年には京都府立自然公園として整備されました。ハイキングコースとしても親しまれています。(写真)

             
 

 山域には、アラカシやクヌギ、アオキなどが自生しています。山のほとんどが広葉樹に覆われていて、明るい自然林となっています。ふもとの河原にはサクラが植えられ、花の季節や秋の紅葉シーズンには、特に多くの行楽客で賑わいます。

 今回の講談の中では登るのが非常に大変な要害とあったように、北・東面は木津川が笠置山脈を横断する急斜面となっていますが、山の南・西面は比較的傾斜がゆるく、この方面から頂上近くまでは自動車で登ることもできます。しかし、歩いての登山は足場が整備されていない部分もあるのでご注意下さい。川岸はカヌー広場、児童広場などに利用されています。笠置寺のある頂上付近には奇怪な石が多く、ひときわ神秘的な雰囲気があります。

 笠置山は、JR関西本線の笠置駅から山頂まで徒歩約45分です。

 次回、笠置山での戦いは大詰めを迎えます。ホームページでは、笠置山付近や山中にある後醍醐天皇ゆかりの史跡をご紹介します。どうぞお楽しみに!

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