大塩平八郎  その四
2017/08/26(土) 08:15 番組スタッフ

 
 天保四年・1833年に始まった天保の大飢饉。日本中を苦しめ、大坂の町も飢餓にあえぐ人々で溢れるようになります。一方で、強欲さにまみれた商人や、汚職に手を染める役人が減ることはありませんでした。

 その現状に耐えかねた大塩平八郎は、私塾の門弟や養子の格之助などに武装蜂起の計画を打ち明け、ついに挙兵を決意します。大砲などの火器や爆薬を整え、蜂起の前には心血を注いだ檄文(手紙)を書き上げました。

 "天下の民が生前に困窮するようではその国も滅びるであろう。政治に当たる器でない小人どもに国を治めさして置くと、災害が並び起こるとは昔の聖人が深く天下後世の人々に教戒されたところである。もう我々は堪忍できない。民衆を苦しめている諸役人を攻め討ち、驕り高ぶる金持ちを成敗することにした。生活に困っている者は一刻も早く大坂に駆けつけてほしい"(主旨)

 この檄文を極秘に摂津・河内・和泉・播磨などの村役人に送り同調を促し、建議書を江戸幕府に送りつけました。しかし、密告によってこの計画が漏れてしまい、準備が整わないまま、予定を大幅に早めた決起となりました。集合した場所は川崎東照宮です。

 川崎東照宮の跡地は、現在の大阪市北区天満にある滝川小学校となっています。入り口の脇に「川崎東照宮跡」と刻まれた石碑がひっそりと佇んでいます。遺構はありませんが、石碑の横に説明板があり、明治初期の東照宮の様子を写真で見られ、その歴史も知ることができます。

 「救民」と書かれた旗を掲げて進む平八郎の一団は、途中から農民や町民も加わり、300人ほどに膨れ上がったといいます。次々に豪商の屋敷に火を放ち、奪った米や金銀を貧民に分け与えました。しかし、幕府の鉄砲隊と対峙して死傷者が出ると、逃げ出す者もいたこともあり、味方は次第に減っていきました。

 「大塩平八郎の乱」ゆかりの史跡はもう一つあります。造幣局の正門付近、京阪国道沿いにある「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の石碑は、昭和59年・1984年に建立されました。石碑に書かれた説明によると、この場所には乱による砲弾で裂けた樹齢200年の槐があったということです。槐とはマメ科の落葉高木で、幹の高さが20mにも達します。当時の槐はすでに枯れ死してしまい、新たに若木を植えて、歴史を今に伝えています。

 結局、平八郎らによる蜂起は約8時間で制圧され、多くの町屋も焼失しました。平八郎と格之助は逃走し、靭油掛町の手拭い生地の仕入れ職だった美吉屋五郎兵衛の家に潜伏します。しかし、40日後に所在を突き止められ、2人は自決しました。平八郎、享年45。

 当時、平八郎が潜伏した場所の近く、現在の大阪市西区靭本町1丁目には「大塩平八郎終焉の地」と題された記念碑が置かれています。横にある説明板(写真)には、美吉屋宅があった場所を文化3年・1806年当時と現在で照らし合わせた2つの地図があり、興味深い資料を目にすることができます。


      

 
 平八郎の決起は失敗に終わりましたが、幕藩体制崩壊の重大な契機にもなり、新しい時代の到来を告げるものとなりました。一方、檄文は密かに書き写され、全国にその行動を伝えました。現在も大阪市北区末広町にある成正寺には、檄文の写しが保存されています。境内には、「大塩の乱に殉じた人びとの碑」や、平八郎と格之助の墓もあります。こちらも訪ねてみて下さい。

 今回ご紹介した川崎東照宮跡がある滝川小学校は、JR大阪天満宮駅から徒歩約7分。「大塩の乱 槐跡」はそこから徒歩約3分。いずれも造幣局の周辺にあります。一方、「大塩平八郎終焉の地」記念碑は、大阪市営地下鉄・四つ橋線の本町駅から徒歩約2分。その他、御堂筋線、中央線の本町駅からもアクセスできます。本町通りに面した天理教飾大分協会の前にあります。

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