楠木正成 その四
2016/10/22(土) 08:18 番組スタッフ

 楠木正成シリーズも第四弾、終盤に入りました。

 今回は、正成の生涯を語る上で欠かせない場所、講談の最後にも出てきました「桜井駅跡」をご紹介します。

 前回ご紹介した赤坂城での戦いの後も、正成軍は幕府軍と戦を続けます。そしてこのことが広く知れわたり、天皇を守ろうとする諸国の武士が立ち上がったことで、幕府を打ち倒す動きが大きくなっていきました。
 各地で戦果を上げて、ついには元弘3年・1333年、新田義貞の進攻により北条氏がうたれ、鎌倉幕府は滅びるのです。

 その後、後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、それに不満を持つ者たちもいました。特に足利尊氏は天皇による政治を奪おうとし、大軍を集め九州から攻め上がってきます。
 これを迎え撃つべく、天皇の命を受けた正成は、決死の覚悟で兵庫へ向かうことになりました。その途中、桜井の駅で息子の正行(小楠公)を呼び寄せ、別れを告げます。いわゆる「桜井の別れ」です。この様子は次回の講談でもお楽しみ下さい。

 「桜井駅跡」は現在、JR島本駅ロータリーの横にあります。
 約4415㎡の面積を持つ史跡公園となっていて、敷地内には正成に関する石碑や石像などが多く残っています。ロータリーに面する形で立つ「史跡桜井駅跡」の石碑を左に見ながら入り口を通ると、桜井駅跡の歴史を記した説明板がありました。

 それによりますと、明治9年・1876年に正成を顕彰した「楠公父子訣児之処 碑」が建てられたのが初めてとなり、明治末年に結成された「楠公父子訣児処修興会」によって敷地の拡張が始まったということです。敷地の外からも見えますが、公園内でまず目を引くのが「楠公父子子別れの石像」です。(写真)


    


 「滅私奉公」と書かれた台座の上に、正成と正行が向かい合って座っている姿が象られています。
 なお、「滅私奉公」の題字は第34・38・39代内閣総理大臣・近衛文麿によって書かれたものです。敷地内では、この石像が別れの様子を最もイメージしやすいものかもしれません。

 敷地の中央まで進むと、大きな石碑が目に入ります。「楠公父子決別之所」碑です。
 題字は陸軍大将・乃木希典によるものです。建立の作業は工兵第四大隊が務め、大正7年・1912年に献碑式典が行われたということです。

 公園北側の端まで行くと、「旗立松」(別名・旗掛け松、子別れ松)があります。正成父子が馬を止め、訣別をした場所が老松の下だったそうです。
 しかし、明治30年・1897年に松は枯れてしまい、一部を切り取って小屋に保存したものが現在の姿です。この松は当時の郷土誌にも描かれていて、幹周りが約4.5mの大木と伝えられています。

 松の横にあるのは、昭和10年・1935年5月16日に行われた「楠公六百年祭」を記念した石碑です。当時、地元の小学校の児童生徒は全員参列するなど、この場所には多数の参列者による列が続きました。沿道にはたくさんの露店が並ぶほどの盛況だったそうです。
 
 「桜井駅跡」は、JR京都線の島本駅東口を降りてすぐのところにあります。阪急京都線の水無瀬駅からは徒歩5分です。
 ロータリーを挟んだ反対側には、島本町立歴史文化資料館もあります。これは、桜井駅跡の記念館として昭和16年・1941年に有志によって建てられた「麗天館」を改修したものです。桜井駅跡の関連展示や、地元の民俗資料、郷土の文化財などを紹介しています。こちらも訪ねてみて下さい。

 次回はいよいよ正成シリーズ最終回。正成の墓所がある兵庫県神戸市の湊川神社をウォークします。どうぞお楽しみに!

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