桂小五郎 その五
2017/12/30(土) 08:15


 明治維新から間もない頃、新政府の方針を巡って政局は混迷を極めました。鎖国下にあった朝鮮に出兵する(征韓論)かどうかで議論が紛糾し、台湾出兵に関しても反対者が続出。多くの参議が辞職しました。これにより大久保利通を中心とする政府は、孤立無援の状態に陥りました。

 しかし、政府は体制を固めようと、下野していた木戸孝允や板垣退助を引き入れるため、井上馨、伊藤博文、五代友厚を仲介役とし、明治8年・1875年、大阪で会議を行いました。いわゆる大阪会議です。

 この会議が開かれた舞台は料亭で、現在も営業を続けています。大阪市中央区北浜にある「花外楼」本店の入り口前に、「大阪会議開催の地」と書かれた石碑が置かれています。その近くには、大阪会議が開かれた旨が記されたレリーフもあります。

 会議では、立憲主義による政治体制へ移行するための具体的なプロセスが議論されました。紆余曲折を経て、会議は1ヶ月にも及びましたが、この結果、孝允と退助が参議に復帰し、次第に立憲政体へ移行することが国の方針となりました。

 店内に入ると、1階と2階を結ぶ階段の踊り場に、「花外楼」と力強い筆で書かれた額があります。これは、会議の成功を祝って孝允が書いたもので、もともと「加賀伊」だった店名を、新たに命名しました。つまり、花外楼は孝允ゆかりの店でもあります。

 店は2回の改装を経て現在に至っています。(写真)


          


 残念ながら、会議が行われた当時の部屋はありません。しかし、店のホームページには、初代と二代目の店の外観や、大阪会議に至るまでの経緯が書かれた博文による書、岩倉使節団として欧米を視察した後に孝允が書いた歌も写真で見ることができます。なお、現在の店内の様子は、以前この番組のホームページ(五代友厚編)でご紹介しています。バックナンバーをご覧下さい。

 今回の講談には登場しませんが、大阪会議に向けて最初の意見交換が行われた場所も史跡として現在も残っています。それが大阪市中央区石町にある「三橋楼跡」です。

 三橋楼は、幕末から明治中期にかけて、難波・天神・天満の3つの橋を北に望む高台にあった料亭です。ここで孝允と利通の間で10時間にわたり会談が行われました。

 明治15年・1882年に建物は日本ハリストス正教会の所有となり、その後、聖堂が建設されました。昭和20年・1945年の空襲によって焼失し、その17年後に協会は吹田市に移転しました。したがって、料亭時代の建物はありませんが、現在はその場所に説明板が置かれていて、写真と地図で当時の様子を知ることができます。

 孝允は結局、西南戦争の最中である明治10年1877年5月、持病が悪化し、京都の別邸でこの世を去りました。享年45。京都市左京区の京都霊山護国神社には、孝允の墓があります。こちらも訪ねてみて下さい。


 さて、玉秀斎さんからもご案内がございましたように、一年九ヶ月にわたって放送してまいりました「玉秀斎の関西講談ウォーク」も今回で最終回です。
 番組は終わりますが、ご紹介した以外にも関西ゆかりの史跡は無数にあり、史跡巡りは尽きることがありません。この番組をきっかけに、歴史探訪への興味がさらに深まれば幸いです。ありがとうございました。





桂小五郎 その四
2017/12/23(土) 08:15

 元治元年・1864年7月に起きた禁門の変(蛤御門の変)で敗れた長州藩は朝廷側に敵視され、桂小五郎も追われる身となりました。

 しばらく京都で身を隠しながらの生活が続いていましたが、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになると、いよいよ潜伏も厳しくなりました。そこで但馬国の出石の町人・甚助、直蔵兄弟の助けにより京都を脱出、出石の町内各所で匿われることになります。

 小五郎がそこで潜伏生活を送っていた場所、現在の兵庫県豊岡市出石には、「桂小五郎住居跡(荒物屋跡)」と題された一角があります。町の老舗そば屋の横にあり、中央には「勤王志士桂小五郎再生之地」と刻まれた石碑が建てられています。周りには3つの記念碑も置かれ、その存在を後世に伝えています。

 当時は廣江屋という名の荒物屋が営まれていた場所で、小五郎は廣江孝助と偽名を使っていました。愛人の幾松もここを訪れたといいます。9ヶ月にわたる潜伏生活の末、九死に一生を得た小五郎は後に大業を成し遂げるわけですが、出石は小五郎が再生した地であるという意味合いが強いのです。

 その他にも町内には、小五郎が転々とした潜伏先に記念碑がいくつも置かれています。中でも、「畳屋茂七屋敷跡」と「角屋喜作屋敷跡」、「鍋屋喜七屋敷跡」の3つは、一つの交差点をほぼ取り囲むように石碑が置かれており、さほど離れていない住居を転々としていたことが伺われます。

 しかしその後、新撰組は小五郎が出石に潜伏している情報をつかみ、巡察にやってきました。彼らの目を逃れるため小五郎がさらに向かったのは、現在の兵庫県養父市にある西念寺です。

 創設されたのは慶長19年・1614年で、当初は西念庵と称する庵であったと伝えられています。寛政4年・1792年4月には、本堂・庫裡・楼門に至るまで焼失し、古い記録なども含め、全てを失ってしまいました。

 その13年後には再建されましたが、その翌年の文化3年・1806年1月、養父市場の大火の時に再び被災の憂き目に遭います。しかしその年の4月には庫裡が再建され、文政2年・1815年に本堂が建立され今日に至っています。(写真)



      


 つまり、小五郎がこの寺に匿われていたのは、焼失と再生を繰り返していた後の時代ということになります。境内には「維新史蹟 木戸孝允公 潜伏遺跡」と記された石碑があり、今や小五郎潜伏の地として知られています。

 今回ご紹介した「桂小五郎住居跡」は、JR山陰本線の八鹿、江原、国府の各駅から車で約25分の場所にあります。徒歩圏内に最寄りの駅がありませんので、車でのアクセスをおすすめします。一方、西念寺はJR山陰本線の養父駅から約1.1kmの場所にあります。

 次回はついに最終回。日本で政治の行方を決めるため、小五郎ら要人たちが大阪に集結します。どうぞお楽しみに!

桂小五郎 その三
2017/12/16(土) 08:15

 新国家の建設を目指していた桂小五郎を筆頭に、長州藩は京都で中央政界を牛耳る存在となりました。しかし、文久3年・1863年、彼らと相対する会津藩、薩摩藩が八月十八日の政変を起こし、小五郎は京都から追放の憂き目に遭います。

 翌年、小五郎は再び京都に入り、潜伏しながら長州藩の立場を回復させようと奔走しました。長州藩など攘夷派の志士たちが潜伏する旅館・池田屋へは一番早く行きましたが、まだ同志が集まっていなかったため、近くの対馬藩邸に向かっていました。その間に起こったのが、新撰組が攘夷派を襲撃した池田屋事件です。つまり小五郎は運良くこの難を逃れたのです。

 池田屋事件の跡地は現在、居酒屋となっており、その前に「維新史跡 池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。これについては去年、新撰組を特集した際にご紹介しています。詳しくはバックナンバーをご覧下さい。

 池田屋事件の騒動は、長州藩の急進派を刺激することになり、元治元年・1864年、禁門の変(蛤御門の変)を起こします。現在の京都御苑の西側に位置する蛤御門の周辺で、長州藩と、御所の護衛にあたっていた会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が繰り広げられました。

 御苑の周りには、かつての公家町と市中を区切っていた9つの御門があります。その一つが蛤御門です。(写真)


          


 もともとは新在家御門という名前でしたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたことから、「焼けて口開く蛤」に例えて、蛤御門と呼ばれるようになったと言われています。

 烏丸通りに面した門の前には「蛤御門」と書かれた石柱があり、門をくぐってすぐの所に説明板があります。現在も門の梁には、その時の鉄砲の弾傷らしき跡が所々に残っています。結局、この戦は長州藩の惨敗となり、戦火で民家38000戸余りを焼いたということです。

 禁門の変以降、再び小五郎は幕府に追われる身となります。恋人の幾松などの助けを借りて、潜伏生活に入りました。その際に暮らしていた場所が現在も残っています。

 それが京都市中京区木屋町にある旅館「幾松」です。長州藩控屋敷として建てられたのが始まりで、上記のエピソードから「幾松・桂小五郎寓居址」とも呼ばれます。鴨川に面した幾松の部屋には、幾松の肖像画や小五郎直筆の掛け軸が飾られ、新撰組に襲撃された際に桂小五郎が隠れた長持(衣類などを収納する長方形の木箱)も残されています。

 さらに、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井など出来る限り当時に近い状態で保存されています。当時は、不意の敵にそなえて、幾松の間の天井には大きな石が仕掛けられていたそうです。

 なお、幾松の部屋は国の登録有形文化財となっており、宿泊はできませんが、旅館での宿泊や食事をする人には希望に応じて、説明付きで案内してもらえるということです。見学できる期間や時間帯は限られているので、詳しくは旅館のホームページをご覧下さい。

 京都御苑の蛤御門は、地下鉄烏丸線の丸太町駅から北へ、同じく今出川駅からは南へともに徒歩約8分です。一方、旅館・幾松は、地下鉄東西線の京都市役所前駅から徒歩約2分です。

 次回は、京都を離れる小五郎、出石に向かいます。どうぞお楽しみに!

桂小五郎 その二
2017/12/09(土) 08:15

 桂小五郎が京都に来た頃、攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力へと結集していきます。今回の講談で登場する舞台の一つ・翠紅館は幕末の頃、西本願寺の別邸で、たびたび志士たちの会合の場となっていました。

 文久3年・1863年1月27日、ここに土佐藩の武市半平太、長州藩の井上聞多・久坂玄瑞など多数が、次いで6月17日にも小五郎はもちろん、久留米藩の真木和泉などが集まりました。これら各藩の志士を代表した者たちが会議をし、攘夷の具体的な方法が検討されました。世にこれを翠紅館会議と言います。8月13日には、孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達します...。

 翠紅館はもともと正法寺の子院(付属の寺院)でしたが,眺望に優れていたので,庶民の遊興や文人の詩歌・書画会などの貸席として使われていました。鎌倉時代には公家の鷲尾家が買い取り、西本願寺の東山別院に寄進されました。荒廃していた庭園を整備,書院を新築し、その景観の素晴らしさから、「翠」と「紅」の素晴らしい館という意味で翠紅館と名付けられました。

 西本願寺がこの地を手放してからは、2人の経済人の所有を経て、現在は料亭に姿を変えています。残念ながらこの料亭は今年2017年1月から2年間、改修工事のため休業となっています。工事期間中は史跡を見ることはできませんが、ここでは改修前の様子をご紹介します。

 入り口の立派な門構えには寺の山門の名残があり、その横に「翠紅館跡」と書かれた石碑と説明板が置かれています。店を代表する部屋は、その名も「翠紅館広間」(写真)。まさに小五郎たちが会議を行っていた場所です。


     
 
   

 この部屋はもともと西本願寺門主の居間として使われていました。京都の町を一望でき、八坂の五重塔を見るのにちょうど良い角度に窓が開かれていて、素晴らしい景色を楽しめます。部屋の上に飾られている「翠紅館」の扁額は、三条実美の筆によるものです。

 山門に程近い「送陽亭」も会議の場所として提供されました。ここには小五郎はもちろん、長州藩や土佐藩の主だった会議参加者の写真が飾られています。映画の撮影などにも使われるほど、夕刻の風情が素晴らしい場所です。現在は、保護建造物に指定されています。

 ここからは、今回の講談の途中から登場する女性・幾松についてもご紹介します。若狭小浜(現在の福井県)で、小浜藩士の木崎市兵衛と、医師の細川益庵の娘との間に生まれました。しかし幼少の頃、藩内の事件から父・市兵衛が妻子を残して出奔。8歳の時に京都に出た後、三本木(現在の京都市上京区三本木通)の芸妓になりました。

 小五郎が京都に来て、喧々諤々の議論を行っている頃に出会い、恋に落ちたと言われています。その後、小五郎を大事な局面で支えていくわけですが、この様子は次回の講談でご紹介します。明治維新後、小五郎は木戸孝允と名を改めますが、幾松も長州藩士・岡部富太郎の養女となり木戸松子と改名、正式に木戸孝允の妻となりました。

 今回ご紹介した翠紅館跡となっている料亭・京大和は、JR京都駅からバスで15分、「東山安井」で下車、そこから徒歩約5分です。阪急電車の四条河原町駅からもバスが出ています。

 次回は、小五郎が命を狙われる危機に瀕しますが、幾松がひと芝居打ちます。どうぞお楽しみに!

桂小五郎 その一
2017/12/02(土) 08:15


 今月は、長州藩のリーダーとして活動し、明治新政府でもトップの一人として近代国家・日本の建設に大きな役割を果たした桂小五郎、後の木戸孝允を取り上げます。

 小五郎は、天保4年・1833年に現在の山口県萩市で長州藩医(藩に仕えた医師)・和田昌景の長男として生まれました。その後、吉田松陰に兵学を学び、江戸への留学では剣術の免許皆伝を得て、道場の塾頭(塾長)になるなど、剣豪の名を轟かせました。

 小五郎が藩の命令により京都にやってきたのは文久3年・1852年のことです。小五郎の拠点である長州藩邸があった場所は、今も石碑や小五郎の銅像が置かれ、後世に伝えられています。

 現在は京都ホテルオークラの敷地となっていますが、その南側、御池通りに面した柱の陰に「長州屋敷址」と刻まれた石碑がひっそりと建っています。横にある説明板によると、藩邸は初め南北2ヶ所に分かれていたということです。北側の屋敷は表口約70m、奥行は約56m。一方、南側の屋敷は表口約54m、奥行は約14mに及びました。

 しかし、元治元年・1864年の蛤御門の変(禁門の変)で長州藩は朝廷・幕府側に敗れたため、自らこの邸内に火を放ち、逃れました。明治維新後、この藩邸跡は国の所有となり、産業の振興を図るため勧業場が設立され、後にホテルが建てられることになります。

 また、ホテルの北西側、河原町通りに面した柱の間には、小五郎の像があります。(写真)剣を携え、どっしりと腰を下ろし遠くを見つめる姿は、小五郎の凛とした存在感を示しています。


        
     




 今回の講談にも出てきますが、長州藩邸跡であるホテルから5分ほど歩いた所には、高瀬川一之船入があります。これは現在、国の史跡に指定されている場所で、船入とは、荷物の積み下ろしや船の方向転換を行う入り江のことを言います。

 高瀬川は慶長19年・1614年、嵯峨の豪商・角倉了以・素庵父子によって開かれた物流用の運河です。京都は古代・中世を通して経済・文化の中心でしたが、内陸部に位置していたため、交通・運輸の面で難点を抱えていました。これを打開するために、大量輸送を目的とした、伏見・二条間を結ぶ水運を完成させたのです。高瀬舟(川の浅い所を航行できるよう底を平たくした船)が使われたことから、この名前が付けられました。

 物流が盛んな頃には、百数十艘の船が行き交い、伏見を通じて大阪などの物資を運び入れ、京都の経済発展に大きな役割を果たしました。この頃は多くの問屋が立ち並んで賑わったということです。現在も高瀬川流域には、材木町や石屋町など当時の職種や商品を反映した町名や、船頭町など町の成り立ちを反映した町名が残っています。

 
 明治になって鉄道が開通すると、次第にその機能を失い、大正9年・1920年には廃止されます。現在は「史蹟 髙瀬川一之舩入」と書かれた石碑が置かれ、当時を再現した船が川に浮かべられています。入り江沿いには了以の名前を取ったカフェがあり、盛時の高瀬川に思いを馳せることができます。

 長州藩邸跡や小五郎の像がある京都ホテルオークラは、地下鉄・東西線「京都市役所前駅」直結です。高瀬川一之船入の石碑は、そこから北東に2分ほど歩いた所にあります。

 次回は、日本の行方を京都で議論する小五郎が、一人の女性と出会います。どうぞお楽しみに!