番組紹介

ラジオNIKKEI第1 毎週土曜日 8:00~8:15

講談師 玉田玉秀斎が関西各地の史跡に纏わる人物を講談で紹介。興味を持ったご当地へのアクセスや見所、現況を競馬実況アナウンサーがナビゲート。

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濱口梧陵 その四

2017.03/25 番組スタッフ 記事URL


  地震や津波などに対する防災や、その後の復興について考えるきっかけにしていただきたいと取り上げた濱口梧陵ですが、いよいよシリーズ最終回となりました。


 今回は、故郷の広村(現在の和歌山県有田郡広川町)を大津波が襲った後、梧陵が将来に備えてどのように尽力したかを振り返ります。

 安政元年・1854年の安政南海地震による津波から多くの村人を助けた梧陵ですが、彼の活躍はそこで終わりません。100年後に再来するであろう津波に備えるため、巨額の私財を投じ、故郷の広村に大堤防を築くことにしたのです。


 というのも、広村は古来より幾度となく津波に見舞われてきました。
 遡ること安政南海地震の150年近く前、宝永4年・1707年にも津波による被害がありました。さらに、梧陵が堤防を築こうとした場所にはすでに室町時代の豪族・畠山氏による石垣の堤防がありました。
 これらが示す歴史から、災害は繰り返されると梧陵が考えたことは容易に想像ができます。

 さっそく梧陵は、同じ濱口家の吉右衛門とともに、畠山氏が築いた堤防の後方に高さ5m、幅20m、長さ600mの大堤防を築く計画を立てました。

  安政南海地震による津波の翌年から着工、海側には松並木を植林し、3年10ヶ月の工期を経て完成。広村堤防と名付けられました。延べ人員は56736人を要したということです。
 この大工事に村人を雇用することによって、津波により職を失った人々に仕事を与えることができ、村からの離散も防ぎました。


 そして安政南海地震による津波から92年後、梧陵が案じた未来はついに現実のものとなってしまいます。
  昭和21年・1946年12月21日の未明(4時20分頃)に昭和南海地震が発生し、約30分後に高さ4~5mの大津波が広村を襲いました。
  しかし、梧陵たちが築いた広村堤防は村の居住地区の大部分を津波から守りました。
  現在も気象庁のホームページでは、安政南海地震津波と昭和南海地震津波、両方の浸水域が確認できますが、その効果は歴然。広村堤防の周辺にはほとんど浸水していないことが分かります。


  実際に広村堤防に登ってみると、湯浅港と目の鼻の先であることがよく分かります。(写真)



            

         

 堤防の中央部には、実際に昭和南海地震による津波の侵入を防いだ当時の扉を現在に引き継ぐ、通称・赤門があります。その近くには感恩碑があり、広村の歴史や災害から守り発展させた幾多の先人の遺徳、さらに梧陵の偉業を称える内容が刻まれています。昭和8年・1933年12月に建立されました。


 広村では毎年、津波防災の日である11月5日に津浪祭がこの碑の前で行われます。
  町内の平穏無事と津波の犠牲者たちのご冥福をお祈りするとともに、梧陵たちの遺業に感謝する行事です。
  なお、広村堤防は昭和13年・1938年に国の史跡に指定されています。


 一方で、広村堤防に関連する史跡としては、安政の津波跡の柱があります。これは1週目にご紹介した東濱口公園の中にあるものですが、柱の上部に横線が引かれているのは、津波がここまで上がってきたことを示しています。
 海抜は5.04m。広村堤防の海抜は高い所で6.13mあることから、この津波高を参考に築かれたことが分かる貴重な記録です。


 梧陵はその後、駅逓頭(その後の郵政大臣)に就任したのをはじめ、和歌山県議会初代議長にも選任、その後は民主主義を広める活動を展開し、明治18年・1885年にその生涯を終えます。
 広川町には梧陵の墓が現在も残っています。これまでご紹介してきた耐久舎や広村堤防などとは少し離れた場所にあり、その魂は山の麓でひっそりと眠っています。こちらも訪ねてみて下さい。


 今回ご紹介した広村堤防は、JRきのくに線の湯浅駅から徒歩約20分です。以前に取り上げた稲むらの火の館で基礎知識を得てから、堤防を歩くと感慨の深さが違います。

濱口 梧陵 その三

2017.03/18 番組スタッフ 記事URL


 濱口梧陵が、故郷の広村(現在の和歌山県有田郡広川町)のために教育施設・耐久舎を建ててから2年後、悲劇が襲います。

 安政元年・1854年、梧陵が広村に帰郷していた時、突如大地震が発生し、その後紀伊半島一帯に大津波がやってきました。


 梧陵は波にのまれながらも、村人たちに高台にある広八幡神社へ避難するよう必死に呼びかけ、自らも何とか神社へ逃れました。
 しかし、だんだんと日が暮れて辺りが見えず、どこへ避難すればいいか分からなくなる人たちがまだ大勢いたのです。


 そこで梧陵は、稲むら(稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導しようと考えました。その結果、多くの村人が安全な場所に避難させることができました。災害後も蔵の米がなくなるほど炊き出しを供し、村人のために尽力しました。


 この梧陵の活躍は、明治29年・1896年に物語として世に広まります。ギリシャ生まれで後に日本国籍を取得する作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「A Living God(生ける神)」です。

 ハーンはこの中で、日本の神の概念は諸外国のそれとは著しく異なっていて、日本では尊敬される人物は生きながらにして神として祀られることがあるという趣旨を述べています。

 つまり、津波から村人を救出する梧陵の姿を神になぞらえたわけです。


 ハーンはこの年の6月に、三陸海岸を襲い22000人もの犠牲者を出した大津波のニュースを知り、かねて伝え聞いていた梧陵の逸話をヒントにこの物語を一気に書き上げたそうです。ただ、今回の玉秀斎さんのお話にもあったように、実話と異なる点がいくつかあります。

 物語では、梧陵は「五兵衛」として登場し、「老人」と紹介がありますが、実際は35歳。また、濱口家の住居は作中では高台であるのに対し、実際は低い平地の集落。村人の数は作中400人に対し、実話では1323人。地震の揺れ方も、作中は「長くゆったりした揺れ」である一方、実際は激しい揺れでした。 さらに、五兵衛は神として祀られたのに対し、梧陵は祀られることを固辞したとも言われています。

 ハーンが紡いだ物語は、次の世代に受け継がれます。「A Living God」を学び、深く感動した小学校の教員・中井常蔵は、その真髄を小学生にも分かるよう短い作品にした「稲むらの火」を昭和9年・1934年に文部省の教材公募に応募し、採択されます。

 その3年後に小学国語読本で10年間掲載され、児童に深い感動を与えました。今や不朽の防災教材として語り継がれています。


 実際に梧陵をはじめ村人たちが避難した広八幡神社は、現在も村の緊急避難場所に指定されています。

 応永20年・1413年に造営したという記録があるほど歴史の長い神社で、本殿は国の重要文化財に指定されています。


 境内には濱口梧陵碑があり、梧陵の生涯が数々の功績とともに詳しく書かれています。石碑の横には説明板があり、碑文の内容が現代語訳されています。文章は、梧陵の死後に濱口家に依頼されて勝海舟(勝安房)が綴ったものです。


 一方で、梧陵の故郷・広村、現在の広川町では津波防災教育センターが設けられ、様々な展示や体験コーナーから防災意識を高めることができます。

 長さ約16mの津波実験水槽「津波シミュレーション」(写真)は、スイッチを押すと水槽の水が波に変わり、家など建物の模型に押し寄せます。自然の力がいかに恐ろしいかがよく分かるコーナーです。

 防災体験室では、防災川柳や解説グラフィック、体験映像、ゲームで楽しみながら、「応急」「復旧」「予防」の3つの知恵を学べます。


   


 2階に上がると、梧陵の功績をまとめたパネルや稲むらの火展示室、日本の津波の歴史をたどる「継承の道」などがあり、3階には研究発表や新聞記事などの企画展示やガイダンスルームなどがあります。 階を上がるごとに内容が濃くなっていく印象がありました。


 広八幡神社は、JRきのくに線の広川ビーチ駅から徒歩約30分、レンタサイクルもあります。
  一方で津波防災教育センターは、前々回ご紹介した濱口梧陵記念館に隣接しています。JRきのくに線の湯浅駅から徒歩約15分です。

 センターがある「稲むらの火の館」は、開館時間が午前10時から午後5時、休館日は月・火曜日と年末年始です。
 なお、毎年11月5日も津波防災の日は開館となります。入館料は一般500円、高校生200円、小・中学生は100円です。


 次回はいよいよシリーズ最終回。梧陵が将来の津波に備えて築いた「広村堤防」をご紹介します。どうぞお楽しみに!

濱口 梧陵 その二

2017.03/11 番組スタッフ 記事URL


 

 濱口梧陵は十二歳で、濱口本家がある現在の千葉県銚子市に移り、醤油醸造業を継ぐべく働いていました。

 
 しかし、濱口家は江戸にも店を展開していたこともあり、若くして江戸に行き、見聞を広めることができました。その後は、江戸、勤め先の銚子、故郷の広村(和歌山県有田郡広川町)と、3ヶ所を行き来する日々が続きます。


 そんな中で、信濃国松代藩士で思想家の佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉などとも親交を深めていきます。時代は幕末。海外勢力の接近に対し、開国するか否か喧々諤々の議論が交わされている真っ只中でした。

 梧陵は彼らと出会う中で、外国と対抗するには教育が大切と考えるようになります。

 
 嘉永5年・1852年、濱口吉右衛門、岩崎重次郎とともに梧陵は、広村の田町に私塾を開設し、剣術や漢学などの指導にあたりました。当時は広村稽古場、後に「耐久舎」と呼ばれるものです。現在の広川町立耐久中学校、ならびに和歌山県立耐久高等学校の前身です。

 
  完成した当時は、裏通りにある長屋を利用していて見た目は不備でした。慶応2年・1866年には同じく広村にある安楽寺の東隣に移築し、舎長には寺の住職が就任したこともあります。

 現在の建物は明治3年・1872年建築のもので、その後耐久中学校内に移され、現在の場所になったのは昭和32年・1957年のことです。翌年4月1日には、和歌山県指定文化財に選ばれています。(写真)


     


 耐久舎の建物は耐久中学校の敷地内、校門を入ってすぐのところにあります。

  寺子屋を思わせる小ぢんまりとした平屋建瓦葺きの建物は、間口5間(9m)、奥行き6間半(12m)、土地の面積33坪(109.28㎡)で、中は6つの部屋があります。基本的に建物内は非公開ですが、室内には創設者3人の肖像写真などが掲げられているということです。

 
  耐久中学校の校庭内には、「濱口梧陵翁銅像」もあります。 縦長の石台の上に、梧陵の全身を象った像が立っています。
 3~4mは有に超えるでしょうか。校庭全体を見渡すかのような風情です。その横には稲むらの火顕彰板もあり、安政の大津波で梧陵が活躍する姿をモチーフにした物語「稲むらの火」全編が記されています。

 
  一方で、隣の湯浅町にある耐久高校にも梧陵の像があります。
  この高校も同じく耐久舎にルーツがあるわけですが、明治時代には私立耐久中学校と改称し、その後県立に移管。昭和23年・1948年、戦後のGHQの学制改革により他校と統合しましたが、耐久の名は受け継がれました。

 そこには秘話があり、終戦後視察に訪れた進駐軍の将校が、ナイアガラの滝を前にしている濱口梧陵の肖像画をみて感動し、校名がそのまま残ったというのです。

 
  耐久舎のある広川町立耐久中学校は、JRきのくに線の湯浅駅から徒歩約25分です。和歌山県立耐久高等学校は同じく、湯浅駅から徒歩約10分です。

 両校とも最寄り駅は同じですが、中学は駅の南西側、高校は駅の北東側でほぼ正反対の場所にあり、位置もかなり離れています。2ヶ所を巡る場合は、その他の梧陵ゆかりの史跡も巡りながらゆっくり行くのがいいかもしれません。

 
  次回からは、安政の大津波で村人救出に奔走する梧陵の活躍をお聴きいただきます。ご期待下さい!


  

濱口 梧陵  その一

2017.03/04 番組スタッフ 記事URL


 3月に入りました。まもなく東日本大震災から6年が経とうとしています。

  地震による津波などの影響でいまだ多くの人が避難を余儀なくされていますが、その一方で復興に向けての動きも一歩一歩進められています。


  今月のこの番組では、関西ゆかりの歴史的人物とともに、震災や復興についてあらためて考えるきっかけとなっていただければ幸いです。

 そこで、この度取り上げるのは濱口梧陵です。大手調味料メーカー・ヤマサ醤油の第7代当主としても名を馳せますが、安政南海地震の際に津波から村人を救った功績が称えられ、後に明治の文豪ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の著書「A Living God(生ける神)」にも登場することになります。

 さらには、これをもとにして小学校教師・中井常蔵が著した物語「稲むらの火」は昭和12年から10年間、小学国語読本に採用されました。梧陵の名が後世に残ったのは、彼らの伝承によるところも大きいといえます。

 今月の4回にわたるシリーズでは、濱口梧陵の生涯を振り返りながら、その功績を辿っていきます。

   梧陵は文政3年・1820年、紀伊国有田郡広村(現在の和歌山県有田郡広川町)で生まれました。幼名は七太。紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男だった七太(梧陵)は、12歳の時に本家の養子となり、銚子で家業である醤油醸造を継ぐことになります。この頃、名を義太に改名しました。

 梧陵の邸宅は現在、「濱口梧陵記念館」として公開されています。
  生涯学習、社会教育活動、地域コミュニティやボランティア活動など、地域の総合的な交流を深めるための拠点施設です。

  中は畳敷きの部屋になっていて、梧陵にまつわる展示室が4つあります。展示室1と2では、梧陵の生い立ちから晩年までを模型や説明文などで振り返ることができます。
 その一つ、誕生から14歳までを紹介した「七太・義太の章」のコーナーには、今回の講談にもあった濱口家の家憲(家訓)が書かれていました。

 「たとへ主人と雖も 其の少年時代の逸楽安居を許さず。 一には自ら困苦に堪へうる習ひを養ひ 一には人を率ゐるの道を知らしめん」(たとえ主人といえども、少年時代に遊び暮らすことを許さず。一つには自ら困難に立ち向かう態度を養い、一つには人を率いる道理を得る。)

 
  梧陵はこの家憲にならい修行し、その倫理観が血となり肉となり、後の思想と生き方の根幹になっていったのです。

  家憲が書かれた額の下には、12歳で本家の養子となり、丁稚と寝食を共にしながら家業にいそしむ梧陵の姿が模型で再現されています。その他、展示室3では梧陵ゆかりの甲冑や肖像画など貴重な史料、展示室4では梧陵史跡マップや関係書籍などが閲覧できます。

 
 さらに、濱口梧陵記念館から歩くこと約200mの場所には、講談の中でも紹介があった「東濱口家住宅」があります。(写真)

         

     


 本宅・本座敷・三階棟他の含む3つの主要な建物から構成されています。本座敷には、勝海舟が書いたと伝わる書も架けられています。


 東濱口家は、初代濱口吉右衛門(現在のヒゲタ醤油に連なる)を祖とし、江戸で「廣屋」という醤油問屋を営んでいました。江戸で商いをしながらも故郷・広村への貢献は絶やしませんでした。安政の大津波が起きた際には、梧陵とともに堤防の築造を行いました。


 その隣には「東濱口公園」があり、一部赤レンガの外堀で囲われた敷地に岩や池を配した庭園が広がっています。住宅は基本的に公開されていないのに対し、この公園は中に入ることができます。 桜、さるすべり、紅葉など四季折々の木々を配置した日本庭園になっていて、安政の津波跡の碑もあります。


 濱口梧陵記念館がある「稲むらの火の館」は、JRきのくに線・湯浅駅から徒歩約15分です。開館時間が午前10時から午後5時、休館日は月・火曜日と年末年始です。
 なお、毎年11月5日も津波防災の日は開館となります。入館料は一般500円、高校生200円、小・中学生は100円です。


  一方、東濱口公園は、開園時間が午前10時から午後5時(11月から2月の間は午後4時30分まで)、休園日は月・火曜日と年末年始です。入園料は無料です。


  次回は、梧陵が故郷に置いた学び舎「耐久舎」をご紹介します。どうぞお楽しみに!

藤堂高虎 その四

2017.02/25 番組スタッフ 記事URL


 藤堂高虎の物語は最終回を迎えました。今回の舞台は、大阪府八尾市本町にある常光寺です。


 高虎は、慶長19年・1614年の大坂冬の陣、翌年の夏の陣と徳川方(東軍)に従軍します。
 夏の陣では、高虎軍が豊臣方(西軍)である長宗我部盛親の軍と常光寺門前で遭遇。激戦の末、双方とも多くの戦死者を出しました(八尾の戦い)。

 藤堂軍は主な家臣71人、その部下約200人が犠牲となりました。


 しかしこの時、常光寺は何の被害も受けませんでした。
 当時、ここを抱え寺として保護していたのが以心崇伝。臨済宗の僧で、徳川家康に仕え外交事務など行政に関わっていた人物です。
 そのため家康は「寺を荒らすな」との禁札を出して、雑兵の心無い乱暴を厳重に戒めたといいます。


 戦が終わり、高虎はこの寺の縁側で敵軍の首実検をしたと言われています。首実検とは、討ち取った敵の首を、大将が本物かどうか確かめる作業のことです。
 とても残酷な光景ですが、部下が挙げた戦功をいかに表彰するか判定する材料としての側面もあり、当時は重要な儀式として行われていました。

 
 高虎が首実検をした廊下は一面に血が染み付いたため、後にその板は天井に上げられました。それが「血天井」と呼ばれ、現在も残っています。

 実際に見た感じでは、これが血の跡だと明らかに分かるところはありませんでした。
 しかし、褐色の天井板は、明らかに今使われている廊下よりも色が濃く、艶もありません。そもそも古い板ですし、血に染まったことで全体が変色したのでしょうか・・・。
 戦から400年を超えた今、できるのは想像することだけです。


 一方、境内には夏の陣で犠牲になった家臣71人の魂が眠っています。「藤堂家臣七十一士墓」です。前列には高さ90cm、または150cmの五輪塔が6つ並び、後列には小さな五輪塔が肩を並べるように配置されています。(写真)


       
     

 前列の6つの塔は右から、桑名弥次兵衛・藤堂勘解由・山岡兵部・藤堂仁右衛門(最も大きな塔)・藤堂新七郎・藤堂玄藩のもので、高虎軍の中で重要な職を務めた6人です。


 墓地の脇に「勢伊死事碑」と呼ばれる石碑があります。
 宝暦14年・1764年の戦没150回忌にあたり、遺族らが冥福を祈るために建てられたものです。
 この時には藤堂家が字を刻み、寺には銀千両が寄進されました。
 碑には東軍の動き、後の戦死者が奮戦した当時の状況、碑を建立した由来が彫られています。


 阿弥陀堂には、高虎と、上記で述べた重臣6人の位牌が祀られています。中央の最も大きい位牌が高虎のものです。その前にあるのが七十一士の芳名で、一人ひとりの名前が確認できます。


 また、寺のホームページでは貴重な古文書が見られます。高虎が夏の陣に参戦した際、遠距離にいるため参れないという便りを寺へ送った「藤堂高虎書状」や、家康が関ケ原の合戦後に常光寺を戦乱から守るため出した文書「徳川家康禁制」などです。


 常光寺は、近鉄八尾駅から徒歩約6分です。
 駅の西口からつながる商店街を約500m進み、左手に見える「ファミリーロード」を約50m進むと、右手に山門があります。寺の名前が書かれた看板がアーケードに面しているので、それを目印にして下さい。

 なお、今回ご紹介した血天井や墓、位牌は、本堂のある敷地とは隔てられた場所にあります。
 住職など寺の関係者を訪ねた上で、見せてもらうことをおすすめします。

 

藤堂高虎 その三

2017.02/18 番組スタッフ 記事URL

藤堂高虎は城を築く能力に長けていることから、"築城名人"の異名があります。
 今回はその点にスポットを当てます。ご紹介するのは彼が築いた城の一つ、伊賀上野城です。


 高虎は、関ケ原の戦いで相手方を寝返りさせる計略を行うなど勝利に貢献したことから、徳川家康にその手柄を評価されます。
 その後も高虎は家康の重臣として仕え、江戸城の改築などの功績を挙げました。


 慶長13年・1608年、ついに家康は高虎に伊賀10万石、伊勢10万石、伊予2万石、計22万石を与え、高虎を津の藩主としました。この時に、大坂の豊臣方との決戦に備えるため、伊賀上野城の改築が行われました。


 伊賀上野城はもともと、天正13年・1585年に伊賀上野藩主・筒井定次によって築かれたのが始まりです。
 定次の城は大坂を守るように作られていたのに対し、高虎は大坂に対峙するための城として築きました。つまり、それまでとは正反対の役割を持たせたのです。


 慶長16年・1611年には本丸を西に拡張し、高さ30mの石垣を張り巡らして南を正面としました。高石垣は大阪城と並んで日本一の高さを誇ると言われています。たびたび映画やテレビドラマのロケ地にも選ばれています。


 しかし翌年9月、五層の天守閣は完成間近にもかかわらず、大暴風雨に襲われ倒壊してしまいます。その2年後の大坂冬の陣とさらに翌年の夏の陣で徳川方が勝利し、幕府が城の建設を禁じたため天守閣の再建はされませんでした。


 現在ある天守閣は昭和10年・1935年、地元出身の政治家である川崎克氏が文化産業振興のため、私財をもって復興されたものです。
 そのため正式には伊賀文化産業城と名付けられています。その優雅な姿からは"白鳳城"とも呼ばれ、今や伊賀市のランドマークとして親しまれています。


 天守閣の中は見学ができます。玄関を上がると、まず見えるのが木彫りの高虎像です。(写真)
 伊賀上野城のマスコットキャラクター・た伊賀ー(タイガー)くんと並び、訪問客を出迎えます。


         


 1階の中央には「藤堂高虎 出世物語」と題し、絵の描かれた大きなパネルが立てられています。
 節目となった出来事を11枚に分けて、高虎の生涯を分かりやすく解説しています。なお、顔出しパネルになっているので、高虎になりきって写真撮影もできます。


 その他1階には、藤堂家ゆかりの甲冑や武具、さらに伊賀焼などが展示されています。
 中でも見どころは高虎の兜「唐冠形兜」です。高虎が豊臣秀吉から拝領し長年愛用していたものですが、後に大坂夏の陣で一族の若武者・良重に与えました。良重はこの戦で討ち死にしましたが、この兜は代々受け継がれ、現在は伊賀市に寄贈されています。三重県指定文化財にもなっています。


 2階は、特別展・藩主藤堂家の遺品展になっています。藤堂家の調度品がメインです。
 高虎が大坂の陣で使用した大食籠や陣鍋、高虎が着用した脇差し、高虎の座像や肖像画などがありました。


 最上階の3階に高虎ゆかりの品はありませんが、「天井絵巻」が圧巻です。格子の天井には1m四方の色紙46枚がはめ込まれています。
 現在の天守閣が完成した際、日本画家の横山大観はじめ著名な画家、書家、政治家などが祝意を込めて寄贈したものです。
 当時の著名人一人ひとりの筆跡を見ることができ、個性あふれる空間が広がっています。


 伊賀上野城は、伊賀鉄道・上野市駅から徒歩約8分です。
 見学には入館料が必要です。大人(高校生以上)500円、小人(小・中学生)は200円です。開館時間は9時から17時まで、12月29日から31日が休館となっています。
 城がある一帯は上野公園として整備されていて、その他にも伊賀流忍者博物館、筒井古城跡、伊賀出身の俳人・松尾芭蕉の記念館や俳聖殿などがあります。
 

 次回は高虎シリーズの最終回。大坂夏の陣で高虎が首実検を行った常光寺をご紹介します。どうぞお楽しみに!

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パーソナリティ

玉田 玉秀斎
たまだ ぎょくしゅうさい

2001年11月 旭堂小南陵(現・四代目南陵)に入門。

ブラジルにてポルトガル語講談、アメリカ・ボストンにて英語講談、上海にて中国語講談など各国で講談を行う。

またジャズ講談など音楽とのコラボレーションも大好評。

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