番組紹介

ラジオNIKKEI第1 毎週土曜日 8:00~8:15

講談師 玉田玉秀斎が関西各地の史跡に纏わる人物を講談で紹介。興味を持ったご当地へのアクセスや見所、現況を競馬実況アナウンサーがナビゲート。

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後醍醐天皇 その四

2017.09/23 番組スタッフ 記事URL


 後醍醐天皇は笠置山に籠り、幕府軍に対し徹底抗戦を続けましたが落城。捕えられて、隠岐の島に流刑となりました。一方、幕府側は後醍醐天皇をただちに廃位し、光厳天皇を即位させました。そのような中でも後醍醐天皇は幕府を倒す思いは変わらず、名和長年らを頼って隠岐の島を脱出します。


 反幕府の勢力が強まり、ついに鎌倉幕府は陥落。京都に戻った後醍醐天皇は、光厳天皇の即位を否定し、光厳天皇下で行われた人事などを全て無効にしようとします。さらに幕府や摂政・関白を廃止して、建武の新政を始めました。

 しかし、改革が急だったり、恩賞が不公平だったりしたことから、不満を抱いた足利尊氏が反旗を翻します。尊氏は京都で敗れ、一旦九州に落ち延びますが、態勢を立て直します。湊川の戦いでは、後醍醐天皇につく新田義貞、楠木正成の軍を打ち負かし、再び京都に攻め入ります。

 その時、後醍醐天皇は比叡山に逃れて本陣を置きます。一方、尊氏が本陣を置いたのは東寺。両者に睨み合いが続きましたが、後醍醐天皇側・新田義貞の軍が攻撃に出て、尊氏の軍もこれに応戦。しかし、山を味方につけた新田軍が有利となり、山を攻めるのは不利と見た尊氏は市街戦に出ました。

 糺の森、加茂川、桂川の西で激戦が繰り広げられましたが、戦局は変わりません。尊氏の軍は退却するしかありませんでした。対する新田軍が目指すのは尊氏のいる東寺。痛手を負った尊氏の軍は続々と境内に逃げ込みます・・・。

 今回、まずご紹介する史跡は、講談の最後にも登場した東寺(現在の京都市南区九条町1番地)の東大門です。尊氏の軍がこの門を閉めて危うく難を逃れたことに因み、「不開門(あかずのもん)」とも呼ばれています。創建された年代は不明ですが、現存する建物は建久9年・1198年に文覚上人が布教活動の一環として再建されたものです。後の慶長10年・1605年には、豊臣秀頼が大改修を加えたと伝えられています。

 境内にはその他にも尊氏ゆかりの史跡を見ることができます。境内のほぼ中央に位置する「食堂(じきどう)」は、尊氏が居住していた場所です。食堂とは、僧が生活の中に修行を見出す場所のことを言います。建立は平安時代で、当時の本尊は約6mにも及ぶ千手観音菩薩でした。昭和5年・1930年に焼失した後、3年間の工事を経て完成したのが現在の建物です。堂内には納経所もあり、多くの巡礼者の祈りの場となっています。

 「小子房」は、天皇を迎える特別な場所です。尊氏が本陣とした際には、光厳上皇がここで政務を見ることになりました。現存の建物は、昭和9年・1934年に弘法大師1100回忌の記念事業として再建されました。用材は全て木曾檜を用いており、昭和を代表する建築物の一つです。

 「鎮守八幡宮」は、戦勝祈願の社として名高く、尊氏も祈願に訪れました。戦の際には、この社殿から流鏑が新田軍に向かって飛び、勝利を収めたことでも有名になりました。社殿は延暦15年・796年に創建、平安京と東寺を守護するために祀られました。明治元年・1868年に焼失しましたが、平成3年・1991年に123年ぶりに再建されました。僧形八幡神像と二体の女神像は弘法大師による作で、日本最古の神像です。

 東寺は唯一残る平安京の遺構で、創建から約1200年が経ちました。平成6年・1994年には世界遺産にも登録されました。日本で最も高い55mの五重塔が有名で、京都を代表する名所の一つです。開門時間は午前5時から午後5時までで、境内へは無料で入れます。しかし、金堂、講堂、五重塔の拝観は有料です。その他、特別な時などに限られて公開される場所もあります。

 JR京都駅からは徒歩約15分、近鉄東寺駅からは徒歩約10分です。市バスでは、東寺東門前、東寺南門前、九条大宮、東寺西門前、それぞれの停留所が寺のすぐ目の前にあります。拝観料や詳しいアクセス方法などは、寺のホームページも合わせてご覧下さい。

 来週は、後醍醐天皇と足利尊氏の物語も最終回。天龍寺にまつわるお話です。どうぞお楽しみに!

後醍醐天皇 その三

2017.09/16 番組スタッフ 記事URL


 今回は、恋志谷神社の始まりにまつわるお話をお聴きいただきました。京都府にある唯一の村・相楽郡南山城村にある恋志谷神社は、縁結び、恋愛成就、子授け、安産、病気平癒、家内安全、無病息災のご利益があり、女性の守り神として知られています。

 創建当時の詳細は不明ですが、神社の名前の由来は鎌倉時代末期に遡ります。これまで2回にわたってご紹介してきましたが、元弘元年・1331年に倒幕の計画を知られてしまった後醍醐天皇は、京都の御所を脱出し、笠置山に籠って挙兵しました。

 当時、後醍醐天皇に思いを寄せていた妃は、伊勢の海辺で病気療養の最中にその事を聞きつけます。そして病気が治った後に笠置山へ向かう途中で、南大河原の古森という地に辿り着きました。しかし、後醍醐天皇はすでに幕府軍から逃れるため山を後にしていて、時すでに遅し。妃は悲しみと長旅の疲れから持病が再発してしまいます。

 妃は「恋い焦がれ、病に苦しむような辛いことは自分一人で十分。これからは人々の守り神になりたい」と言い遺し、自ら命を絶ったといいます。これを哀れんだ人々が祠を建て、祀ったのが恋志谷神社の始まりだと言い伝えられています。最期まで「天皇が恋しい、恋しい」と言い続けていたことから、いつからか親しみを込めて「恋志谷さん」と呼ばれるようになったのです。

 もともとは古森に祀られていましたが、江戸時代末期の元治元年・1864年に現在の地に移され、天満宮社と並んで合祀されています。「恋志谷神社」と書かれた鳥居の横には、「恋志谷神社口碑伝説」と題された石碑があり、上記で述べた神社の由来が記されています。(写真)


    

  

 大祭が毎年春と秋の2回行われ、五穀豊穣に感謝し、地域住民の健康や安全なども祈願します。当日は、境内に「恋志谷姫大明神」と書かれた旗が掲げられ、野菜や米を持ち寄った地元の村民など多くの人で賑わいます。大祭に限らず、恋愛成就を願う人が遠方からやってきて、御守りを買い求めることもあるということです。

 神社へは、最寄りの大河原駅から国道163号線に沿って流れる木津川を渡ります。川には「恋路橋」という欄干のない低いコンクリート製の橋が架かっていて、それが参道になっています。長さ95m、幅は3.6m、花崗岩でできた橋です。

 以前は渡し舟が北と南の集落を結んでいましたが、1945年・昭和20年に橋が架けられました。川が増水した時には陥没することから、当初は「潜没橋」、また「沈み橋」、単に「石橋」とも呼ばれていました。1996年・平成8年に村のイメージアップを図るため、公募で現在の名になりました。

 恋志谷神社は、JR関西本線の大河原駅から徒歩約10分です。前回ご紹介した笠置駅からは一駅です。拝観は自由で、いつでも入ることができます。

 
 次回は、ついに迎える南北朝時代。それに至るまでの攻防をお聴きいただきます。どうぞお楽しみに!

後醍醐天皇 その二

2017.09/09 番組スタッフ 記事URL


 今週は、笠置山での激しい攻防をお聴きいただきました。現在も笠置山(京都府相楽郡笠置町)の周辺や山中には、後醍醐天皇に関する史跡などが数多く残っています。それぞれをご紹介しましょう。

 JR関西本線の笠置駅を降りてすぐの所には、笠置山の戦いの様子が象られたオブジェが置かれています。タイトルは「太平記元弘の乱笠置合戦」。笠置山に逃げ込んだ後醍醐天皇が率いる軍勢は3000人余り。一方で、笠置山を四方から包囲し追い詰める幕府軍の数は75000余りと言われています。

 数では圧倒的に不利な天皇方ですが、笠置山は全てが巨大な岩や怪石で覆われた"天然の要害"。幕府軍にとって攻撃は容易ではありません。しかも、後醍醐天皇側には主に2人の人物が活躍し、幕府軍に甚大な被害を与えました。

 小高い山のオブジェの左側、弓を引いているのが三河国に住む武士・足助次郎重範。彼の強弓により幕府軍の先陣がいとも簡単に射殺され、これを皮切りに激しい戦闘が始まりました。夕刻になった頃、今度は般若寺の本性房という大力の僧が巨岩を投げつけ、またもや幕府軍を後退させます。その姿はオブジェの右側、重範の隣で力強く表現されています。

 そこから数歩進むと産業振興会館がありますが、入り口からすぐの場所には、楠木正成が後醍醐天皇に拝謁する場面がほぼ等身大にジオラマ化されています。産業振興会館の道路沿いには、「笠置元弘の乱絵巻」と題された長く連なるパネルがあり(写真)、戦の様子を詳しく知ることができます。


         

 
 そこから山の麓に辿り着き、さらに歩行者用の登山道を上がること約30分。笠置寺の山門が現れます。山門から頂上に至るまでの間にも、様々な史跡が点在しています。

 「二の丸跡」は現在、休憩所が建てられているほどの広い場所です。笠置山はあくまで後醍醐天皇の仮の皇居だったので、正式な築城はされなかったということです。しかし室町時代以降、山頂付近にある仮皇居を本丸と見たて、この場所を二の丸と呼ぶようになりました。当時の山の構造が分かる貴重な痕跡です。

 「十三重石塔」は、笠置山の戦いにおける戦死者の供養塔とも伝えられています。もともとは木造瓦葺きの十三重塔が建立されていましたが、笠置山の戦いで焼失していました。

 「行宮遺址」は仮皇居が置かれたのを記念して、明治22年に有志者により、高さ7.6m、幅6mの巨大な自然石に刻んだ碑です。もちろん「行宮遺址」と刻まれていますが、一字が1m36cm四方もあるということです。

 頂上に近づくにつれ、巨大な岩や怪石が増えてきます。「ゆるぎ石」は、幕府軍の奇襲に備えるため武器として持ち運ばれたものですが、実際は使用されませんでした。重心が人の力で動くことから、この名が付けられました。「貝吹き岩」は、天皇方の武士が士気を高めるために、この岩上から盛んにホラ貝を吹いたと言われている場所です。

 一旦山頂を経由して少し下がった場所に、「後醍醐天皇行在所跡」がついに見えてきます。玉垣で囲まれた一角が後醍醐天皇の仮皇居とした場所です。その近くには、後醍醐天皇が詠んだ歌が記された石碑もあります。「うかりける 身を秋風に さそわれて 思はぬ山の 紅葉をぞ見る(憂き身は苦しく辛いが、秋風に誘われるように都を出て、思いかけずに吉野山の紅葉を見ている)」。結局、約1ヶ月にわたる攻防の末、夜半の風雨を味方にした幕府方の北条軍50人の決死隊により奇襲攻撃を受け、笠置山全体が灰塵に帰してしまいました。説明板の横には行在所跡へつながる長い階段が続いていますが、階段から先は枯れ木落下などの危険防止のため、"ご遠慮下さい"という注意書きがあります。

 その他、巨岩でできた岩のトンネル「胎内くぐり」や、大岩の細かい隙間を通る「蟻の戸わたり」、高さ16m近い日本最大の磨崖仏「弥勒石」など見どころ満載です。

 笠置山は、JR関西本線の笠置駅から山頂まで徒歩約45分です。

 次回は、後醍醐天皇を愛した妃のお話です。どうぞお楽しみに!

後醍醐天皇 その一

2017.09/02 番組スタッフ 記事URL


 今月の舞台は、鎌倉から南北朝に移り行く時代、つまり政治勢力が二つに分かれる動乱の時代です。その渦中にいた後醍醐天皇と足利尊氏の物語をお送りします。

 後醍醐天皇は、天皇による親政と自らの皇統を維持するため、鎌倉幕府の存在を排除しようとしていました。最初の倒幕計画は正中元年・1324年に立てられましたが、事前に発覚したため失敗。幕府の機関・六波羅探題により天皇の側近が処分されましたが、後醍醐天皇には処分は下されませんでした。

 
 その後も、後醍醐天皇による倒幕の意志は変わりませんでした。しかし、着々と進めていた倒幕計画は元弘元年・1331年、密告によって再び露見されてしまいます。側近である日野俊基ら関係者は処刑され、追及の手はついに後醍醐天皇にも及びました。

 後醍醐天皇は急遽、京都の御所を後にし、幕府側の追跡をかわすため各地を転々とします。そして、御所を脱してから4日後に辿り着いたのが、今回の講談の舞台でもある笠置山です。

 現在の京都府相楽郡笠置町にある標高289mの笠置山には長い歴史があります。弥生時代の石剣が発掘されたことから、山中にある巨石は2000年前から信仰の対象だったことが分かっています。しかし、実際に建物が建てられ、人が住むようになったのは1300年前ということです。

 そしてその頃、東大寺を開山した良弁によって、笠置山の大岩石に仏像が彫刻され、それを中心として山全体が一大修験行場として栄えました。このように自然の岩山に仏像を刻んだものを磨崖仏と言います。平安時代には、この磨崖仏が多くの信仰を受けることになります。

 笠置山が全盛を極めたのは鎌倉時代の建久2年・1191年。藤原貞慶(後の解脱上人)が日本の宗教改革者として、その運動を笠置寺から展開するとき、笠置山は宗教の山、信仰の山としての地位を不動のものとします。後醍醐天皇が逃げ込んで来たのは、それから140年後のことでした。

 後醍醐天皇と幕府側との攻防の末、山は焼き尽くされました。その後も少々の復興と荒廃を繰り返し、ようやく現在の山容になりました。昭和7年・1932年に史跡名勝の指定を受け、昭和39年・1964年には京都府立自然公園として整備されました。ハイキングコースとしても親しまれています。(写真)

             
 

 山域には、アラカシやクヌギ、アオキなどが自生しています。山のほとんどが広葉樹に覆われていて、明るい自然林となっています。ふもとの河原にはサクラが植えられ、花の季節や秋の紅葉シーズンには、特に多くの行楽客で賑わいます。

 今回の講談の中では登るのが非常に大変な要害とあったように、北・東面は木津川が笠置山脈を横断する急斜面となっていますが、山の南・西面は比較的傾斜がゆるく、この方面から頂上近くまでは自動車で登ることもできます。しかし、歩いての登山は足場が整備されていない部分もあるのでご注意下さい。川岸はカヌー広場、児童広場などに利用されています。笠置寺のある頂上付近には奇怪な石が多く、ひときわ神秘的な雰囲気があります。

 笠置山は、JR関西本線の笠置駅から山頂まで徒歩約45分です。

 次回、笠置山での戦いは大詰めを迎えます。ホームページでは、笠置山付近や山中にある後醍醐天皇ゆかりの史跡をご紹介します。どうぞお楽しみに!

大塩平八郎  その四

2017.08/26 番組スタッフ 記事URL

 
 天保四年・1833年に始まった天保の大飢饉。日本中を苦しめ、大坂の町も飢餓にあえぐ人々で溢れるようになります。一方で、強欲さにまみれた商人や、汚職に手を染める役人が減ることはありませんでした。

 その現状に耐えかねた大塩平八郎は、私塾の門弟や養子の格之助などに武装蜂起の計画を打ち明け、ついに挙兵を決意します。大砲などの火器や爆薬を整え、蜂起の前には心血を注いだ檄文(手紙)を書き上げました。

 "天下の民が生前に困窮するようではその国も滅びるであろう。政治に当たる器でない小人どもに国を治めさして置くと、災害が並び起こるとは昔の聖人が深く天下後世の人々に教戒されたところである。もう我々は堪忍できない。民衆を苦しめている諸役人を攻め討ち、驕り高ぶる金持ちを成敗することにした。生活に困っている者は一刻も早く大坂に駆けつけてほしい"(主旨)

 この檄文を極秘に摂津・河内・和泉・播磨などの村役人に送り同調を促し、建議書を江戸幕府に送りつけました。しかし、密告によってこの計画が漏れてしまい、準備が整わないまま、予定を大幅に早めた決起となりました。集合した場所は川崎東照宮です。

 川崎東照宮の跡地は、現在の大阪市北区天満にある滝川小学校となっています。入り口の脇に「川崎東照宮跡」と刻まれた石碑がひっそりと佇んでいます。遺構はありませんが、石碑の横に説明板があり、明治初期の東照宮の様子を写真で見られ、その歴史も知ることができます。

 「救民」と書かれた旗を掲げて進む平八郎の一団は、途中から農民や町民も加わり、300人ほどに膨れ上がったといいます。次々に豪商の屋敷に火を放ち、奪った米や金銀を貧民に分け与えました。しかし、幕府の鉄砲隊と対峙して死傷者が出ると、逃げ出す者もいたこともあり、味方は次第に減っていきました。

 「大塩平八郎の乱」ゆかりの史跡はもう一つあります。造幣局の正門付近、京阪国道沿いにある「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の石碑は、昭和59年・1984年に建立されました。石碑に書かれた説明によると、この場所には乱による砲弾で裂けた樹齢200年の槐があったということです。槐とはマメ科の落葉高木で、幹の高さが20mにも達します。当時の槐はすでに枯れ死してしまい、新たに若木を植えて、歴史を今に伝えています。

 結局、平八郎らによる蜂起は約8時間で制圧され、多くの町屋も焼失しました。平八郎と格之助は逃走し、靭油掛町の手拭い生地の仕入れ職だった美吉屋五郎兵衛の家に潜伏します。しかし、40日後に所在を突き止められ、2人は自決しました。平八郎、享年45。

 当時、平八郎が潜伏した場所の近く、現在の大阪市西区靭本町1丁目には「大塩平八郎終焉の地」と題された記念碑が置かれています。横にある説明板(写真)には、美吉屋宅があった場所を文化3年・1806年当時と現在で照らし合わせた2つの地図があり、興味深い資料を目にすることができます。


      

 
 平八郎の決起は失敗に終わりましたが、幕藩体制崩壊の重大な契機にもなり、新しい時代の到来を告げるものとなりました。一方、檄文は密かに書き写され、全国にその行動を伝えました。現在も大阪市北区末広町にある成正寺には、檄文の写しが保存されています。境内には、「大塩の乱に殉じた人びとの碑」や、平八郎と格之助の墓もあります。こちらも訪ねてみて下さい。

 今回ご紹介した川崎東照宮跡がある滝川小学校は、JR大阪天満宮駅から徒歩約7分。「大塩の乱 槐跡」はそこから徒歩約3分。いずれも造幣局の周辺にあります。一方、「大塩平八郎終焉の地」記念碑は、大阪市営地下鉄・四つ橋線の本町駅から徒歩約2分。その他、御堂筋線、中央線の本町駅からもアクセスできます。本町通りに面した天理教飾大分協会の前にあります。

大塩平八郎  その三

2017.08/19 番組スタッフ 記事URL


 今回は、講談の冒頭にも出てきた与力・同心という役職について、あらためて簡単にご説明します。江戸時代の警察機構のトップは町奉行で、市中の行政・司法・警察・消防などを司っていました。町奉行に就任した有名人としては、時代劇でもおなじみの大岡越前や遠山金四郎などがいます。

 大塩平八郎が属していた与力は、その直下の組織です。警察組織の中では中核の存在で、4~5人の同心を指揮し、捜査や治安活動、さらに庶務や裁判事務などを担当しました。つまり、町奉行から与力、同心、さらに岡っ引・・・というように組織が細分化されていきます。

 当時の大坂も江戸幕府の直轄地だったため、東西に奉行所が置かれ、平八郎が与力として働いていたことは前回ご紹介しました。現在も大阪には、その与力の歴史を今に伝える史跡があります。造幣局の敷地内にある与力役宅門です。(写真)


    

     

 この瓦葺きの武家屋敷風の建物は、東町奉行所の与力・中嶋家の門です。

 当時、この付近一帯には与力の役宅が軒を連ねていたということです。しかし、現在はこの建物が唯一現存するものとなりました。大正末期に現在の位置へ移築され、昭和23年・1948年に茶室として大幅に増改築されました。その後老朽化が著しくなり、平成12年・2000年にさらに改築となり現在に至っています。

 あくまで門構えだけですが、貴重な遺構には、所々に増築の跡があり、茶室として使われた内部も残っているということです。しかし、造幣局の官舎内にあるため、常に公開はしていません。見学の際には造幣局の許可が必要です。

 一方、大阪の北区には与力、同心の名を残す場所があります。造幣局から北西に10分ほど歩くと、与力町、同心1丁目、同心2丁目の3つの町に辿り着きます。マンションなどが立ち並ぶ閑静な住宅街で、残念ながら当時の与力、同心の歴史をとどめる石碑などはありません。東にある同心1丁目1から西の与力町2までの6区画は一直線に連なっていますが、1区画に少なくとも一つは寺があり、静かな中にも厳かさも感じさせます。町のほぼ中央に位置する運動場がこの周辺を代表する大きな施設と言えるかもしれません。

 後に平八郎は与力を退職し、私塾での講義に専念します。しかし、1833年に天保の大飢饉が起こり、平八郎の人生はここから激動の時を迎えます。大坂の民衆が飢餓に喘いでいることに心を痛めた平八郎は、上司の跡部良弼に対し、蔵米(幕府が年貢として収納し、保管する換金前の米)を民に与え、豪商に買い占めを止めさせることなどを進言します。

 しかし、その跡部が幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ強制的に米を輸送し、豪商と口裏合わせをしていた張本人であり、全く聞き入れようとしません。結局、平八郎は自分の蔵書を処分するなど私財を投げ打って救済活動を行いますが、それも限界に達する時が来ます。ついに考えたのが武装蜂起でした。

 今回ご紹介した与力役宅門がある造幣局は、JR東西線の大阪天満宮駅から徒歩約10分です。その他、様々なアクセス方法がありますので、造幣局のホームページを参考にして下さい。
 
 次回は、平八郎のシリーズも最終回です。どうぞお楽しみに!







   

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パーソナリティ

玉田 玉秀斎
たまだ ぎょくしゅうさい

2001年11月 旭堂小南陵(現・四代目南陵)に入門。

ブラジルにてポルトガル語講談、アメリカ・ボストンにて英語講談、上海にて中国語講談など各国で講談を行う。

またジャズ講談など音楽とのコラボレーションも大好評。

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