番組紹介

ラジオNIKKEI第1 毎週土曜日 8:00~8:15

講談師 玉田玉秀斎が関西各地の史跡に纏わる人物を講談で紹介。興味を持ったご当地へのアクセスや見所、現況を競馬実況アナウンサーがナビゲート。

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明智光秀 その三

2017.05/20 番組スタッフ 記事URL


 天正10年・1582年、明智光秀は主君・織田信長に謀反を起こしました。この本能寺の変により、光秀の名が後世に語り継がれることになったことは間違いありません。
 しかし、なぜ光秀が謀反を起こそうとしたのか、その理由は解明されず、今では歴史上の大きな謎の一つとなっています。今回の講談ももちろん物語の域を超えませんが、玉秀斎さんの真に迫る語り口によって、光秀の心中がリアルさながらに描き出されたのではないでしょうか。


 事件で有名になった本能寺ですが、寺自体はどのような歴史を辿ってきたのでしょうか。今回はその点についてご紹介します。実は、紆余曲折を経て現在に至りました。建立、再建、復興の歴史です。


 応永14年・1415年、京都の油小路高辻と五条坊門の間に、日隆聖人が寺を建設したのが始まりでした。当時の名称は「本応寺」。しかし3年後、宗派内の対立が起きて、後に破却されてしまいます。


 永享元年・1429年には、寺の援護者である豪商・小袖屋宗句の援助によって内野(現在の西陣辺り)に再建されました。次いでその4年後、同じく寺の援護者・如意王丸の発願で六角大宮に広大な土地を得て移転、再建となります。この時に「本能寺」と改称します。


 しかし、天文5年・1536年、比叡山をはじめとする諸宗が京都の日蓮宗に攻撃を仕掛けた宗教戦争・天文法乱が勃発したため、寺は焼失の憂き目に遭います。

 天文14年・1545年、第12代貫主・日承聖人によって場所を四条西洞院に移転し建立。本能寺の変の舞台となったのはこの場所です。光秀の軍勢が本能寺を襲撃する中、信長は「是非に及ばず」との言葉を遺し、寺に火を放ち、自ら命を絶ちました。


 事件当時に寺があった場所は現在、特別養護老人ホームや市立高校などが建てられています。老人ホームの敷地内には、本能寺に関する2つの石碑があります。 「此附近 本能寺址」と記された碑は北東側にひっそりと置かれています。 一方で西側には「本能寺跡」と題された碑があり(写真)、この中には寺を歴史が詳しく書かれています。事件当時の寺に関する遺構はもちろんなく、今やこれらの石碑が歴史の証言者です。


      

   

 天正20年・1592年には豊臣秀吉の命により、鴨川町(現在地の寺町御池)に移転が決まりました。しかし、寺に平安は訪れません。天明8年・1788年には大火事(天明大火)により焼失。天保11年・1840年には再建がなされましたが、同じ年に武力衝突事件である禁門の変(蛤御門の変)が起きて焼失。現在の本堂が建立されたのは、昭和3年・1928年のことでした。

 
 先ほどご紹介した本能寺跡の石碑、そして現在の本能寺の「能」という字をよく見ると、常用漢字の表記とは微妙に違っていることが分かります。
 これは、度々火災に遭遇してきたことから、ヒ(火)の字が重なることを忌み、字を替えたということです。


 本能寺跡碑は、阪急京都線の大宮駅または烏丸駅から、ともに徒歩約10分です。京都駅からは地下鉄・烏丸線の四条駅で降りて、直結する烏丸駅の出口からアクセスするのが便利です。一方、現在ある本能寺は地下鉄東西線の市役所前駅すぐのところにあります。年中行事として6月2日に信長の命日の法要である「信長公忌」も行われます。
 
 次回はいよいよ光秀シリーズ最終回。明智藪をご紹介します。どうぞお楽しみに!

明智光秀 その二

2017.05/13 番組スタッフ 記事URL

 天正7年・1579年、織田信長の命を受けた明智光秀は、丹波国を攻略するため軍を進め、塩見信房が居城としていた横山城を猛攻の末に落城させます。

 今回ご紹介する福知山城は、光秀がその城を丹波の拠点として大修築を行ったのが始まりです。 もともと城地は標高約40m、幅約100mの丘陵の上に位置し、さらに周囲を由良川・土師川が流れ、四方が守られた場所にありました。

 光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町には地子銭(税金)を免除する特権を与えて、商家を育てたとも伝えられています。


 一方で、福知山城の縄張りを行う際には、治政に反抗的だった近隣の社寺を打ち壊し、石塔などを天守台の石垣に利用したとも言われています。

 いかにも戦国の乱世ぶりを物語るエピソードです。天守の一部は、その後の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されています。

 
 明治時代には、廃城令によって本丸、二の丸の建物が取り壊され、堀も埋められ、残されたのは天守閣周辺の石垣や門の番所だけになりました。

 しかし、市民の熱い思いで昭和61年・1986年に天守閣が再建されました(写真)。もちろん当時は写真のない時代なので、外観は絵図をもとに復元したということです。


         


 石垣は自然の石をそのまま用いて積み上げるという豪放なもの。乱雑にも見えますが、石材は奥に長く用いられていて、強固に組み上げられています。

 天守閣の内部は現在、福知山市郷土資料館として公開されていて、城に関する資料や福知山の歴史・文化財が紹介されています。しかし、残念ながら撮影はできません。最上階からの眺めは抜群で、城下町の様子や川の流れ、遠くの山並みなどがよく見られます。城として使われていた当時の様子に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 城には、石落としと呼ばれる、隙間から直下の敵に攻撃を行う防御施設も再現されています。天守閣の東側には、豊磐の井と呼ばれる深さ50mという大型の井戸があり、今も海抜30mの高さまで清らかな水をたたえています。
 城郭内にある井戸としては日本一の深さだということです。一方、福知山城の本丸跡は現在、福知山城公園として整備されています。


 外装を天守閣に似せた雰囲気の櫓が立っていますが、その内部は福知山市立美術館です。地元出身の画家による作品を中心に展示されています。
 福知山城(福知山市郷土資料館)は、JR山陰本線、福知山線、または京都丹後鉄道宮福線の福知山駅から徒歩約15分です。開館時間は午前9時から午後5時(入館は午後4時30分まで)。休館は火曜日(祝日の場合は翌日)。入館料は、大人320円・供(小・中学生)は100円です。

 次回は、光秀がついに信長に謀反を起こす、本能寺の変です。どうぞお楽しみに!




  

明智光秀 その一

2017.05/06 番組スタッフ 記事URL



 今月も戦国武将を取り上げます。物語の主人公は明智光秀です。

 光秀といえば、最も有名なのが本能寺の変。主君である織田信長に対して謀反を起こした事件です。なぜ光秀は本能寺の変を起こして信長を自害へと追い込んだのか、今でも歴史上の大きな謎の一つとなっています。
 シリーズ後半では、光秀が謀反を起こすに至るまでの心境を、玉秀斎さんならではの語り口でご紹介します。こちらもどうぞご期待下さい!


 さて、物語は光秀が信長に仕えるところから始まりました。今回ご紹介するのは、光秀が築いた坂本城です。
 信長は、比叡山の焼き討ちを行った後、抵抗勢力が陣取る延暦寺の監視や琵琶湖の西や南の地方をおさえるために、光秀に支配を命じました。そこで光秀は、琵琶湖に通じる交通の要所である坂本の地に元亀2年・1571年、城を築きます。


 光秀は築城に造詣が深く、琵琶湖の水を上手く利用し、城郭に大天守、小天守を持った豪壮華麗な造りに仕上げました。今回の講談の中にもありましたが、当時、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスは著書「日本史」で安土城に次ぐ名城であると記しています。

 
 その後、およそ10年にわたって光秀が城主を務めましたが、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた翌日、光秀の家臣である明智秀満が光秀の一族とともに城に火を放ち自害したため、坂本城は焼失しました。その後再建はされましたが、秀吉が大津城を築いたことで建造物などもそちらへ移築。結局、戦略的な役割も譲ることとなり、廃城となりました。

 
 坂本城のあった一帯はその後開墾され、現在は大半が宅地となっています。遺構はほとんどありません。しかし、その功績を称える場所があります。坂本城址公園です。道路に面して「坂本城址」と刻まれた大きな石碑が建っています。
 そこから駐車場を通り抜けると、芝生の広場が見えてきます。ここに、坂本城に関する石碑などが多数あります。


 坂本城の説明板では、当時の城の縄張り図が紹介されています。琵琶湖に面して本丸があり、その西側に二の丸、三の丸が広がっています。この図からは、城址公園が当時の城の敷地とは別の場所にあることが分かります。
 城の石垣は現在、琵琶湖の中に眠っていて、渇水の時でないと見ることはできませんが、説明板にはその石垣の写真が掲載されているので貴重です。その他、焼け落ちた瓦の写真や、城に関する歴史・年表もまとめられています。

 
 その隣にあるのが光秀の石像。公園内で最も目を引きます。石台の下には彼の業績を説明した石碑、すぐ横には光秀が詠んだ歌が刻まれた碑もありました。(写真)
 光秀は優れた武将であっただけでなく、当代一流の文化人とも親交を持ち、茶の湯、連歌、詩歌などにも精通した文化人であった旨が記載されています。


    


 さらにその隣には、「光秀(おとこ)の意地」と題された歌詞が記された石碑があります。歌手の鳥羽一郎さんが2007年・平成19年にリリースしたシングルで、人間・光秀の生き様をとらえ、魅力を再発見しようと企画された作品です。石碑は坂本観光協会が建立しました。


 公園から北に歩いて数分の所には、「坂本城本丸跡」の碑があります。
 機器製造会社の研修所の入り口に石碑があり、坂本城の歴史や、当地の発掘調査の結果などが記されています。なお、本丸跡は現在、会社の敷地になっており、残念ながら入ることはできません。

 
 そこから西に数分歩くと、坂本城址を示すもう一つの石碑が建っています。二の丸と三の丸の中間ぐらいに位置しています。説明板によると、昭和54年・1979年に行われた発掘調査で、焼土の中から城の一部と見られる建物の磁石や、石組みの井戸、池、溝、石垣の基礎石などが検出されたことが分かります。

 
 坂本城に関する史跡以外にも、この地域には「明智塚」と呼ばれる場所もあります。坂本城が落城した際に光秀の脇差名刀や宝器物を埋めた跡、ならびに光秀一族の墓所であるということです。こちらも訪ねてみて下さい。坂本城址公園は、JR比叡山坂本駅から徒歩約20分です。

 次回は、福知山城をご紹介します。どうぞお楽しみに!

黒田官兵衛 その五

2017.04/29 番組スタッフ 記事URL



 黒田官兵衛のシリーズもいよいよ最終回、そして三木合戦もクライマックスに入ります。

 羽柴秀吉は三木合戦の際、平井山(現在の兵庫県三木市平井)に本陣を置き、二人の軍師を作戦にあたらせていました。一人はもちろん今月の主人公・黒田官兵衛。そしてもう一人は、美濃(現在の岐阜県)出身で秀吉とは主従関係を超えるほどの深い友情を分かち合ってきた竹中半兵衛です。二人は後に"両兵衛"、"二兵衛"、とも呼ばれ、高い評価を受けています。


 三木合戦の真っ只中、半兵衛は胸を病んでいました。秀吉の勧めで一時は京都に移って療養していましたが、なかなか進展しない戦況を心配し、また平井山の本陣に帰ってきました。
 しかし、病魔には勝てず、天正7年・1579年6月13日、半兵衛は36歳の若さで亡くなります。臨終の時には、秀吉に対して"将来の天下人"と予言し、息を引き取ったとも言われています。秀吉は人前もはばからず、遺体に取りすがったということです。


 半兵衛の墓は現在、平井山の東南の山麓にひっそりと祀られています。山に続くぶどう畑の真ん中、白い練り塀に囲まれた一角に、「竹中半兵衛重治墓」と刻まれた墓石があります。敷地内には墓に関する説明板も見られます。


 これとは別に地元の老人会が昭和48年・1973年に作成した説明板もありました。内容はこちらの方が詳細ですが、文字が薄れていて読みづらくなっています。しかし、それによると、秀吉は半兵衛の策略家としての才能を見抜き、何とか家臣として迎え入れるために何回も口説いていたことが分かります。
 その他には、江戸後期の儒学者・山田翠雨がこの墓地を参拝した際に詠んだ漢詩を紹介した説明板もあります。


 半兵衛の墓地からなだらかな丘陵を数分歩くと、平井山に置いた秀吉の本陣跡が見えてきます。
 天正6年・1578年7月、織田信長の長男・信忠が三木城を支援する神吉城や志方城(ともに現在の兵庫県加古川市)を攻略した後、ここに築城したとされています。8月には秀吉が入り、10月には茶人・津田宗久を招いて茶会が催されました。


 平井山は、30ヶ所以上ある三木城攻めの付城(城を攻めるための城)群のうち、最大規模を誇ります。主郭の南西方向には三木城を望むことができ、尾根上の山道は「太閤道」とも呼ばれていたということです。(写真)
 現在、遺構などは残されていませんが、山頂に展望台があり、三木市の町並みを眺めることができます。


    


 三木合戦で秀吉は、三木城の周辺にあった別所長治方の城を順に滅ぼし、最後に三木城を多くの軍勢で包囲しました。これで長治軍は補給路が断たれて苦しい状況に追い込まれました。三木の干し殺しとも呼ばれる兵糧攻めです。長治は2年近く籠城を続けましたが、やがて食料は底をつき、飢える兵士が増え、戦力を失います。


 打つ手はないと考えた長治とその一族は、城内の家臣や領民を助けるため、自ら命を絶ちました。三木合戦はついに幕を閉じます。
 以前にご紹介した三木城跡にある長治の辞世の句碑には、「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」(自分が死ぬことで、長年親しんできた多くの領民の命が救われるならば、何の恨みもない)と記されています。

 今回ご紹介した竹中半兵衛の墓、ならびに秀吉本陣跡は、神戸電鉄恵比須駅から徒歩約30分です。近くには三木平井山観光ぶどう園があり、ぶどう狩りのシーズンである8月から9月にかけては恵比須駅から無料送迎バスが運行しています。

黒田官兵衛 その四

2017.04/22 番組スタッフ 記事URL


 前回から続く三木合戦のお話です。


  黒田官兵衛が仕える羽柴秀吉の軍は、謀反を起こし三木城に籠る別所長冶を攻めていました。開戦から数ヶ月が経った頃、事態は急転します。今度は、秀吉軍に属していた荒木村重が突然、戦線を離脱し、居城としていた有岡城に戻ってしまいました。
 こちらも織田信長に対し反旗を翻したのです。時は天正6年・1578年7月、有岡城の戦いの始まりです。


 さらにこの時、官兵衛の主君だった小寺政職も村重に呼応しようとしました。これを知った官兵衛は、村重を説得すべく有岡城に乗り込むことにしました。しかし、面会は叶わず、官兵衛は牢屋に幽閉されてしまいます。


 今回ご紹介する有岡城跡は、JR伊丹駅から出てすぐのところにあります。 

 南北朝時代から伊丹氏の城として発展してきた伊丹城がその前身です。その後、天正2年・1574年11月に村重が伊丹氏を破って入城を果たし、有岡城と改名しました。


 当時の城の構造としては、「主郭部」、家臣が住む「侍町」、一般の町人が住む「町屋地区」に分かれていました。
 これらを含む東西0.8キロ、南北1.7キロの範囲を堀と土塁で囲み、北・西・南にそれぞれ砦を配しました。なお、このような城下町をも城の中に取り込んだ構造を「惣構(そうがまえ)」といいます。


 後に廃城となっても、城下町のうち町屋地区はそのまま残り、江戸時代には酒造りの町として栄えました。一方、城は放置されたままで、地元の人たちからは「古城山」などと呼ばれていました。堀の跡や土塁が残っていましたが、明治時代に鉄道(現在の宝塚線)が開通したことで大半が取り壊されました。


 しかし、昭和50年・1975年から行われた発掘調査により、土塁の石垣や建物跡など貴重な遺構が残されていることが分かりました。発掘調査から4年後には、国の史跡に指定されました。


 現存する有岡城跡は平成5年・1993年、当時の主郭部を整備して史跡公園としたものです。 「史跡 有岡城跡」と記された石碑を入り口にして、模擬石垣を階段で上って行くと、様々な史跡を見ることができます。
 
 
 入ってすぐのところに、城主である村重の生涯が詳しく書かれている説明板や、城の歴史を説明した石板があり、基礎知識を深めることができます。そして石垣(写真)や土塁、井戸跡、礎石建物跡があり、発掘調査の成果が確認できると同時に、当時の様子が再現されています。


  

  

 一番奥には、さらには懐古園の石碑があります。

 懐古園は、明治時代にこの地一帯の所有者が城跡が朽ちていくのを惜しみ、修復して永く後世に伝えようとしましたが、果たせずに亡くなり、その未亡人が碑を建ててお祀りをした場所です。石碑とともに、碑文の概要が書かれた説明板があります。その他、村重とその妻が読み交わした歌が綴られた石碑も見られます。


 JR伊丹駅前カリヨン広場には、官兵衛ゆかりの藤があります。有岡城に幽閉された際、官兵衛は、力強く咲く藤の花を見て、生きる勇気を得たということです。これは官兵衛が城主だった姫路城内の藤を採取し、接ぎ木をして育てたものです。官兵衛が主人公のドラマが放映され話題になったのを機に、地元のPR活動の一環で行われました。


 有岡城跡が近くにあるJR伊丹駅は、大阪駅から宝塚線快速で2駅、13分で着きます。なお、伊丹市にはその他にも、有岡城の砦の一部が残されている猪名野神社、城に関する出土品が展示されている伊丹市立博物館、伊丹市立伊丹郷町館などがあります。こちらも訪ねてみて下さい。


 次回は、官兵衛シリーズ最終回。三木合戦の結末やいかに。どうぞお楽しみに!

黒田官兵衛 その三

2017.04/15 番組スタッフ 記事URL


  天正5年・1577年10月、黒田官兵衛は播磨国(現在の兵庫県)に入った羽柴秀吉を姫路城に迎えました。
  その頃、西の毛利、東の織田という二大勢力の狭間で、播磨にいた多くの将軍の心は揺れ動いていました。


 黒田官兵衛の説得により、彼らは織田信長への加勢を決めました。しかし、その中で別所長治は離反し毛利方につくことになります。長治は三木城に篭城して、毛利の援軍を待つ方針を決めました。


 これによって秀吉は、位置的に三木城の長治と毛利氏の勢力に挟まれるという窮地に立たされました。そこで官兵衛はまたもや知恵を働かせます。秀吉に書寫山圓教寺(写真)へ本陣を移すことを進言したのです。
  その理由は、信長からの大量の援軍を収容できる場所であること、山の上にあり相手方の監視を行えることなど諸説あります。



         
    

  標高371mの山頂にある書寫山圓教寺は、康保3年・966年に性空上人によって開かれました。比叡山・大山とともに天台宗の三大道場と並び称され、「西の比叡山」とも呼ばれています。

  境内は国指定の史跡であり、多くの重要文化財が現存しています。
  最近では、ハリウッド映画やテレビドラマのロケ地として数多く使用されたことでも有名になり、参拝客が絶えることはありません。

 秀吉軍の兵士たちは寺に入った際に仏像や仏具などを持ち出したり、摩尼殿の柱に小刀で落書きをしたりと、狼藉を働きました。
  実際に摩尼殿の柱には現在も、秀吉の弟・秀長の家臣が落書きをした跡が公開されています。さらに秀吉により多くの寺領が没収されてしまいました。
  そのような中で三木城に籠る長治の動向をうかがっていたのです。

 一方、相対する三木城についてもご紹介します。
  最寄りの三木上の丸駅を出て、程なくすると「ようこそ三木合戦の地へ」と書かれた大看板が目に入ります。アニメキャラクターのように格好良く描かれた秀吉、官兵衛、竹中半兵衛、長治とその夫人が登場し、城跡への行き方を案内してくれます。

 
  三木城は、室町時代の15世紀後半に別府氏によって築かれとされ、以後も別府氏の居城となりました。
  現在は保育所、図書館や美術館などが入る広い公園になっています。平成25年・2013年3月には国の史跡に指定されました。城跡の説明板の裏には三木城を包囲した秀吉軍の配置図、その側には24コマに分けて戦の様子を描いた三木合戦図があり、当時の状況を分かりやすく説 明しています。


  園内には、城外への抜け穴があったとされる「かんかん井戸」があり、当時の城の作りも垣間見られます。長治に関する史跡もありました。
  長治の石像は公園の中でも一際目を引きます。 「別府長治公像」と書かれた石台の上で馬に乗る勇ましい姿が象られています。説明板には、長治の生涯が簡潔にまとめられています。

 その他、長治の辞世の句、さらに別府家一族の辞世の句が刻まれた石碑がそれぞれありますが、詳しくは長治が最期を迎える再来週の回でご紹介します。

 書寫山圓教寺は、JR姫路駅から神姫バス「書写ロープウェイ行き」で終点まで約25分、書写山ロープウェイで山上駅まで4分、さらに徒歩約20分で摩尼殿に到着します。
  入山するには、志納金として500円が必要です(中高生以下は無料)。一方、三木城跡は神戸電鉄三木上の丸駅から徒歩約3分です。

  次回は、まだまだ続く三木合戦。その最中、事態は急転します。どうぞお楽しみに!

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パーソナリティ

玉田 玉秀斎
たまだ ぎょくしゅうさい

2001年11月 旭堂小南陵(現・四代目南陵)に入門。

ブラジルにてポルトガル語講談、アメリカ・ボストンにて英語講談、上海にて中国語講談など各国で講談を行う。

またジャズ講談など音楽とのコラボレーションも大好評。

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