番組紹介

ラジオNIKKEI第1 毎週土曜日 8:00~8:15

講談師 玉田玉秀斎が関西各地の史跡に纏わる人物を講談で紹介。興味を持ったご当地へのアクセスや見所、現況を競馬実況アナウンサーがナビゲート。

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秀吉・紀州攻め その二

2017.11/11 番組スタッフ 記事URL


 羽柴秀吉が紀州攻めを行うために拠点としたのが先週ご紹介した岸和田城。一方で、相対する根来衆、雑賀衆などは積善寺城を本城とし、いくつかの城に立て籠もりました。


 今回の講談に登場した千石堀城はその一つです。現在の大阪府貝塚市橋本の東南1.5kmの範囲が城跡と言われています。東側には近木川、西側には見出川に挟まれた、南北約2kmにわたる三ノ丞山と呼ばれる標高約70mの丘の上に城は位置していました。根来方が籠る積善寺城、高井城を左右全面に控え、岸和田・貝塚地方を俯瞰できる形勝の地だったということです。

 城は四方を大小の池で囲まれた地形にあり、二重の堀が巡らされ、強固なものでした。紀州攻めの際には、根来方の大谷左大仁を大将として千数百人が立て籠もりました。そのため城は簡単には落ちませんでした。しかし、秀吉方の筒井順慶が放った火矢が城内にあった火薬の爆発を誘い、大爆発を起こして落城しました。

遺構は残っておらず、城の全貌は現在でも明らかになっていません。以前は説明板や石碑が置かれていましたが、後の調査でその場所とは少し離れた場所が城の跡地だということが判明しました。現在はその存在を示すものは何も置かれておらず、説明板を新たに設置するかどうかも未定だそうです。(写真は千石堀城跡遠景)


    

      

 一方、積善寺城についてもご紹介しましょう。永禄元年・1558年、根来衆が岸和田の三好氏と戦を交えていた頃、和泉国の4長者の1人「郡吉長者(ぐんきちちょうじゃ)」が所有する持仏観音堂を砦として築いたのが始まりと伝えられています。

 約60m四方の本丸に一部三重の堀を巡らした強固な城で、紀州攻めの際には、出原右京を大将として総勢約9500人が立て籠もりました。これに対し秀吉は地蔵堂村の丸山古墳に陣を置いたと言われています。秀吉方の攻撃にも落城はせず、最後は貝塚の地頭である卜半斎了珍の仲介により、和解、開城となりました。

 積善寺城も後の調査で堀が検出されていますが、遺構はなく、全貌は分かっていません。府道30号線と府道40号線が交わる所、貝塚中央病院前の旧熊野街道に架かる福永橋のたもとに説明板があるのみです。

 高井城も根来衆の出城です。高井城があった場所は、高井天神社(菅原神社)が祀られていましたが、明治41年・1908年に森の稲荷神社に合祀されまし た。これまでに平安時代の軒丸瓦や水煙の破片などが出土したことから神宮寺の存在が推測されています。

 紀州攻めの際、高井城には近隣の農民ら約200人が立て籠もりましたが、秀吉方の福島正則によって攻められ、落城となりました。現在は、水間鉄道の名越駅の裏側にある児童公園が城の跡地にあたります。遺構はありませんが、公園内にある説明板でその存在を知ることができます。

 千石堀城は、水間鉄道・名越駅から徒歩約15分。積善寺城は、JR阪和線・和泉橋本駅から徒歩約10分。高井城は、水間鉄道・名越駅から徒歩約5分です。

 次回は、根来衆の総本山・根来寺をご紹介します。どうぞお楽しみに!

秀吉・紀州攻め その一

2017.11/04 番組スタッフ 記事URL


 今月は、秀吉が豊臣の姓を名乗る前、羽柴秀吉として活躍していた時代のお話です。


 秀吉は、現在の和歌山県や三重県南部にあたる紀伊国を平定しようと動き出します。いわゆる紀州攻めです。当時の紀伊は、寺社など中央集権思想に真っ向から対立する勢力がしっかりと根を張っていました。その中心的な存在が根来衆、雑賀衆などです。

 彼らは大坂への侵攻の動きを見せていたため、秀吉は強く警戒し、彼らの拠点である根来寺(和歌山県に現存)を攻略する機会をうかがっていました。天正11年・1583年、秀吉は家臣の中村一氏を岸和田城に入れ、紀伊に対する備えを固めます。

今回ご紹介するのは、その岸和田城です。(写真)

 

        
 
   

 伝承によると、建武の新政があった1334年頃に楠木正成の一族・和田高家が築いたのが始まりとされています。紀州攻めの拠点になった後は、秀吉の叔父にあたる小出秀政が城主になり、五層の天守を築いて本格的な城構えとなりました。

 元和5年・1619年、松平康重の代になると、総構えと城下が整備されます。寛永17年・1640年に岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を統治しました。

 時は流れ、岡部長泰公が城主だった時代の元禄16年・1703年、京都伏見稲荷を城内三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈った稲荷祭を行いました。この稲荷祭が現在の岸和田だんじり祭の始まちと伝えられています。

 その後天守閣は、文政10年・1827年に落雷により焼失してしまいます。明治維新の時代には、櫓や門などの城郭施設を自ら破壊したため、在りし日の城の様子がうかがえるのは、今や堀と石垣しかありません。

 しかし、昭和29年・1954年に天守閣は再建されました。市民からの強い要望と寄付金、さらに城主だった岡部氏の子孫も復活を望んでいたことが、再建を後押ししたと言われています。また昭和44年・1969年には城壁・城門・隅櫓が再建されました。

 平成3年・1991年からは、天守閣の屋根葺き替え、外壁の塗り替え、内部の改修など、約1年かけての大改修を行いました。この時に生まれ変わった姿が現在に至っています。今や観光振興の拠点となり、天守閣はウエディング会場に、多聞櫓・隅櫓もギャラリーや各種イベントに使われることがあります。

 天守閣の前には、八陣の庭と呼ばれる庭園が広がっています。昭和28年・1953年に作庭されたものですが、その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値が高いことから、平成26年・2014年に国の名勝に指定されました。こちらも訪ねてみて下さい。

 岸和田城は、南海電鉄・蛸地蔵駅から徒歩約10分、同じく岸和田駅から徒歩約15分です。開場時間が午前10時から午後5時まで(入場は午後4時まで)です。毎週月曜日と年末年始(12月29日~1月3日)は休場です。入場料は大人300年、中学生以下は無料です。詳しくは、岸和田市のホームページをご覧下さい。

 次回は、根来衆や雑賀衆などが拠点の一つとした千石堀城をご紹介します。どうぞお楽しみに!

足利義昭 その四

2017.10/28 番組スタッフ 記事URL


 室町幕府最後の将軍・足利義昭の物語も今回が最終回です。

 織田信長との対立が決定的になり、天正元年・1575年、義昭は槇島城で挙兵します。しかし、信長は数万の軍勢で包囲し、攻撃を始めると城のほとんどを破壊。信長が圧倒的に有利の中、義昭はしぶしぶ降伏し、城を後にします。義昭が羽柴秀吉らに護送される形で向かったのが、河内国若江郡(現在の大阪府東大阪市若江南町)の若江城です。

 若江城は、南北朝時代の争乱期である永徳2年・1382年、幕府の命令により河内国内の武士の統率と取り締まりのため、河内国の守護に任じられた畠山基国が、北朝方の拠点として築いたのが始まりとされています。そこから約200年もの間、河内国を守護する役所としての役割を果たしました。

 城があった場所は、大和川とその支流が網の目のように流れ、湿田・湿地に囲まれた天然の要害です。古くから役所や寺・神社があり、経済活動も盛んでした。

 しかし、城を代々継いできた畠山氏の家督争いが原因で、ついに応仁の乱が勃発。城は争奪戦の渦中に巻き込まれます。乱が収まっても、畠山氏内部の勢力争いは60年にわたって続き、畠山家の勢力は次第に衰えていきました。

 やがてその支配は細川氏、三好氏へと移り、永禄11年・1568年には信長が三好義継を城主にしました。この義継、実は妻が義昭の妹、つまり義昭の義理の弟にあたります。義昭が若江城に護送されたのも、この辺りの事情があったのかもしれません。

 その後信長は、政教分離を巡って、仏教宗派である一向宗と対立を激化させました。城は、一向宗の本拠である石山本願寺を攻撃するための拠点になります。和解が成立すると、その役割も終わり、ついに廃城となりました。歴史から姿を消して数百年もの間、その実像が知られることはありませんでした。

 しかし、昭和47年・1972年以来の発掘調査で、二重の堀や土塁、各種建物、溝、井戸などの跡や、瓦類、土器類、武器類など、城跡の存在を裏付ける多数の資料が出土しました。

 現在、遺構は残っていませんが、城跡を記念する石碑があります。府道24号線を挟む形で石碑と説明板が置かれています。「旧若江城跡」と刻まれた石碑(写真)がある一角は小さな神社のようになっており、鳥居はもちろん、その他様々な石碑が建てられています。「道路拡張記念」と題された石碑には、大阪城築城の際に、この城の重宝や石垣などが利用されたことも記されています。


                         

     

 一方、道路を隔てた向かい側、若江公民分館の敷地内に説明板があります。ここで城の歴史を知ることができ、発掘調査が行われた当時の写真も見ることができます。

 若江城跡の石碑は、近鉄奈良線の若江岩田駅から徒歩約15分です。

 今回の講談の最後にもありましたが、義昭は晩年、秀吉の御伽衆に加えられました。御伽衆とは、主君の側近として仕え、政治や軍事の相談をしたり、世間話の相手も務めたりする役職のことです。戦国時代は参謀としての役割が強く、多くは第一線から退いた武将などが務めていました。秀吉の時代には町人なども召し出され、文化の担い手となりました。彼らの講釈話が庶民に広がり、後の講談や落語の源流になったとも言われています。

 来月は、羽柴秀吉による紀州攻めのお話をお聴きいただきます。どうぞお楽しみに!

足利義昭 その三

2017.10/21 番組スタッフ 記事URL


 足利義昭は本拠として二条城を整備しました。ついに正統な血筋による将軍家を再興したのです。


 しかし、幕府の再興を念願としていた義昭とは裏腹に、信長は武力による天下統一を狙っており、両者の関係は徐々に悪化していきました。信長は幕府の権力を制約するために、「殿中御掟」という9ヵ条の掟(後に21ヵ条に増える)を義昭に承認させます。

 その後も、信長が幕府の威光を利用する形で様々な戦を繰り広げる一方、義昭は独自の外交を展開していました。義昭の行動を信長が批判。これに不満を持った義昭は、上杉謙信や毛利輝元、武田信玄などとともに信長包囲網を敷きます。

 信玄が徳川家康に勝利したことや、信長包囲網などで義昭の立場が有利となり、信長は和睦を図りますが、義昭はこれを拒否します。両者は絶縁となりますが、信玄が西上する途中で死去したことで、立場が逆転。信長はすぐさま京へ軍勢を出します。追われた義昭は二条城から槇島城に居を移します。槇島合戦の火蓋が切って落とされました。

 今回ご紹介する槇島城跡は、現在の京都府宇治市槇島町にあります。遺構はありませんが、住宅街の一角にある小さな公園に「此の附近 槇島城跡」と刻まれた石碑と説明板があります。(写真)


         

  

 それによると、槇島城は元々、室町時代から安土桃山時代にかけて、足利将軍家の家臣・真木島氏が本拠としていた城でした。城のあった場所は交通の要衝であり、また回りを川で囲まれた天然の要害にもなっていました。義昭が真木島昭光のいるこの城に入ったのは、元亀4年・1573年のことです。

 説明板には、現在の周辺地図と合戦当時の地図が二つ並べられていて、位置関係が分かりやすく記されています。そこには、合戦での信長軍の進路も示されています。信長配下の豊臣秀吉、明智光秀、柴田勝家らは北から、同じく稲葉一鉄らは南東方面から進軍しており、城が挟み撃ちのような格好になっていたことが分かります。

 開城後は信長・秀吉によって管理されますが、文禄3年・1594年頃には廃城になったと考えられています。城があった場所は、秀吉による堤の築造や宇治川の改修などにより景観がすっかり変わったということです。その後は城の位置だけでなく、存在そのものも忘れ去られようとしていました。

 石碑がある公園から、さらに北へ5分ほど歩いた場所には槇島公園があります。田畑に囲まれた緑豊かな公園の一角に、槇島城記念碑が置かれています。その存在を後世に伝えるため、また歴史と自然に恵まれた町のシンボルとして記念するため、平成16年・2004年に建立されました。

 槇島城跡は、JR奈良線の宇治駅、または京阪電鉄の宇治駅から徒歩約30分です。同じ宇治駅ですが、JRと京阪ではかなり離れた場所にあるので、それぞれのルートを確認の上アクセスして下さい。

 次回、義昭の物語もついに最終回です。どうぞお楽しみに!
 

足利義昭 その二

2017.10/14 番組スタッフ 記事URL

足利義昭は、織田信長を後ろ盾に室町幕府第15代将軍に就任。仮の御所を本圀寺に定めるも、その翌年には襲撃を受けます。相手は三好三人衆。兄の義輝を暗殺した勢力です。信長が本国である美濃に戻り、本圀寺の警護が手薄になった隙を狙いました。

 義昭を守ろうと織田の軍勢は何とかこれを凌ぎましたが、本圀寺での防衛に脆弱さを感じた信長は永禄12年・1569年、城を築くことを決めました。それが二条城です。二条城といえば江戸時代に徳川家康が築いたものが有名ですが、それとは別の城で、区別するために「旧二条城」とも呼ばれます。

 現在、京都御所の西側、京都市上京区五町目町にある平安女学院大学の敷地内に「旧二條城跡」と書かれた石碑があります。(写真)


        

     

 石碑の背後にある説明板には、当時の建設現場に立ち合ったポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス・フロイスがまとめた記録などが書かれ、在りし日の城の様子を知ることができます。

 フロイスの記録によれば、この石碑を中心とした約390m四方の敷地に、70日近くで二重の堀や三重の天主を備えた堅固な城が築かれたということです。城を築くには短い期間でした。工事には日々15000人から25000人が従事し、本圀寺の建築物から荘厳・華麗なものを選んで解体、調度品とともに運んで再建されました。

 また、濠の石垣構築に際しては、洛中・洛外の石仏・五輪塔・庭石・石灯籠等を手近な所に求め、単なる用材として石垣に積み込みました。急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀を散りばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったといいます。

 旧二条城は後に、信長が東宮誠仁親王を迎え入れ、「二条御所」としても使われていました。しかし、室町幕府の滅亡により廃城となりました。天正4年・1576年に旧二条城は解体され、安土城の築城に際して建築資材として再利用されました。

 現在ある二条城の本丸西側には、復元された旧二条城の石垣を見ることができます。これらの石垣は、地下鉄烏丸線の工事中に発見されたものです。その石組みからは、「犬走り」と呼ばれるテラス状の防御施設が城を巡っていたことも分かっています。石垣の近くには説明板があり、旧二条城の範囲が、北は出水通り、南は丸太町、東は烏丸通りから京都御所に少し入った辺り、西は新町通りの東側にあったという推定図も見られます。

 烏丸丸太町交差点を北へ約120m行った、京都御所の椹木口を入ってすぐの所にも旧二条城の石垣が保存され、石仏などの発掘品は京都文化博物館や洛西竹林公園内などに展示されています。ちなみに、旧二条城跡の石碑の近くには、兄・義輝の邸宅跡を記す石碑もあります。義輝はここで政務をとり、暗殺に伴い邸宅は焼失したということです。こちらも訪ねてみて下さい。

 旧二条城跡の石碑は、地下鉄烏丸線の丸太町駅から徒歩約5分です。一方、旧二条城の石垣が見られる二条城は、地下鉄東西線の二条城前駅を下車してすぐです。

 来週は、義昭と信長の関係に変化が起きます。どうぞお楽しみに!

足利義昭 その一

2017.10/07 番組スタッフ 記事URL


 今月の主役は、室町幕府最後の将軍・足利義昭です。

 第12代将軍・義晴を父に持ち、兄には第13代将軍・義輝がいます。しかし、義昭はもともと将軍家の跡継ぎではなかったため、慣例によって仏門に入ります。奈良の一乗院で門跡(皇族・公家出身の住職)となり、覚慶と名乗っていました。

 しかし、兄の義輝が三好三人衆らによって暗殺。覚慶も捕えられ幽閉されていましたが、義輝の側近らに助けられ脱出することに成功しました。ここで覚慶は将軍家の当主になることを宣言します。還俗(僧侶になった者が俗人に戻ること)して、その後織田信長に擁されて京都に入り、第15代将軍に就任しました。

 この時、義昭が仮の御所としたのが本圀寺(六条御所)です。現在は京都市山科区御陵にありますが、以前は別の場所にありました。ここからは本圀寺の歴史を紐解きましょう。建長5年・1253年8月、日蓮が鎌倉に法華堂を構えたことが始まりとされています。当初は本国寺という表記でした。

 鎌倉幕府が滅び、政治の中心が京都に移った貞和元年・1345年3月、第4代の日静が光明天皇から寺領を京都の六条堀川に授けられたことにより移転しました。寺の領地は北が六条坊門(現五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めたといいます。

 天文5年・1536年に起きた天文法華の乱で焼失し、一旦は堺に非難しますが、11年後には元の場所に再建されました。義昭がここを仮の御所としたのは永禄11年・1568年のことです。現在の京都市下京区には、その痕跡を記す石碑があります。(写真)



                        

 
 西本願寺の北側・大宮通り沿いと、さらに北上した堀川通り沿いの2ヶ所で、ともに「大本山本圀寺」と刻まれています。堀川通り沿いの石碑の横には説明板がありますが、義昭が御所としていた時代の言及はありません。そして残念ながら、いずれの地にも遺構はありませんでした。

 義昭が御所を構えた翌年、兄の義輝を暗殺した三好三人衆らが義昭を襲撃する「本圀寺の変」が起きます。寺は損傷を免れましたが、防衛上の脆弱さから新たに二条城を建築することになりました。その際に寺の一部を解体、移築しました。江戸時代には徳川家康が寺領を継承します。その後徳川光圀が生母の追善供養を行うなど様々な交流があったことから、光圀より圀の字が贈られ、名を本圀寺に改めます。

 しかし近代に入り、末寺の解体、戦後の農地改革、寺所の散失など時の流れに抗うことはできず、経営難に陥りました。昭和46年・1971年に敷地を売却して、山科に移転、現在に至ります。門や鳥居などには金色の装飾が多く施されている煌びやかな寺院です。天智天皇の御陵と並び、桜並木と美しい幹の松林に包まれ、四季折々の風情にも彩られています。

 本圀寺跡の石碑はそれぞれ、JR京都駅から徒歩約15分です。一方、現在ある本圀寺は、京都市営地下鉄・御陵駅から徒歩約15分です。

 次回は、ついに襲撃を受ける義昭。舞台は本圀寺から二条城へと移ります。どうぞお楽しみに!


     






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パーソナリティ

玉田 玉秀斎
たまだ ぎょくしゅうさい

2001年11月 旭堂小南陵(現・四代目南陵)に入門。

ブラジルにてポルトガル語講談、アメリカ・ボストンにて英語講談、上海にて中国語講談など各国で講談を行う。

またジャズ講談など音楽とのコラボレーションも大好評。

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