番組紹介

ラジオNIKKEI第1 毎週土曜日 8:00~8:15

講談師 玉田玉秀斎が関西各地の史跡に纏わる人物を講談で紹介。興味を持ったご当地へのアクセスや見所、現況を競馬実況アナウンサーがナビゲート。

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黒田官兵衛 その四

2017.04/22 番組スタッフ 記事URL


 前回から続く三木合戦のお話です。


  黒田官兵衛が仕える羽柴秀吉の軍は、謀反を起こし三木城に籠る別所長冶を攻めていました。開戦から数ヶ月が経った頃、事態は急転します。今度は、秀吉軍に属していた荒木村重が突然、戦線を離脱し、居城としていた有岡城に戻ってしまいました。
 こちらも織田信長に対し反旗を翻したのです。時は天正6年・1578年7月、有岡城の戦いの始まりです。


 さらにこの時、官兵衛の主君だった小寺政職も村重に呼応しようとしました。これを知った官兵衛は、村重を説得すべく有岡城に乗り込むことにしました。しかし、面会は叶わず、官兵衛は牢屋に幽閉されてしまいます。


 今回ご紹介する有岡城跡は、JR伊丹駅から出てすぐのところにあります。 

 南北朝時代から伊丹氏の城として発展してきた伊丹城がその前身です。その後、天正2年・1574年11月に村重が伊丹氏を破って入城を果たし、有岡城と改名しました。


 当時の城の構造としては、「主郭部」、家臣が住む「侍町」、一般の町人が住む「町屋地区」に分かれていました。
 これらを含む東西0.8キロ、南北1.7キロの範囲を堀と土塁で囲み、北・西・南にそれぞれ砦を配しました。なお、このような城下町をも城の中に取り込んだ構造を「惣構(そうがまえ)」といいます。


 後に廃城となっても、城下町のうち町屋地区はそのまま残り、江戸時代には酒造りの町として栄えました。一方、城は放置されたままで、地元の人たちからは「古城山」などと呼ばれていました。堀の跡や土塁が残っていましたが、明治時代に鉄道(現在の宝塚線)が開通したことで大半が取り壊されました。


 しかし、昭和50年・1975年から行われた発掘調査により、土塁の石垣や建物跡など貴重な遺構が残されていることが分かりました。発掘調査から4年後には、国の史跡に指定されました。


 現存する有岡城跡は平成5年・1993年、当時の主郭部を整備して史跡公園としたものです。 「史跡 有岡城跡」と記された石碑を入り口にして、模擬石垣を階段で上って行くと、様々な史跡を見ることができます。
 
 
 入ってすぐのところに、城主である村重の生涯が詳しく書かれている説明板や、城の歴史を説明した石板があり、基礎知識を深めることができます。そして石垣(写真)や土塁、井戸跡、礎石建物跡があり、発掘調査の成果が確認できると同時に、当時の様子が再現されています。


  

  

 一番奥には、さらには懐古園の石碑があります。

 懐古園は、明治時代にこの地一帯の所有者が城跡が朽ちていくのを惜しみ、修復して永く後世に伝えようとしましたが、果たせずに亡くなり、その未亡人が碑を建ててお祀りをした場所です。石碑とともに、碑文の概要が書かれた説明板があります。その他、村重とその妻が読み交わした歌が綴られた石碑も見られます。


 JR伊丹駅前カリヨン広場には、官兵衛ゆかりの藤があります。有岡城に幽閉された際、官兵衛は、力強く咲く藤の花を見て、生きる勇気を得たということです。これは官兵衛が城主だった姫路城内の藤を採取し、接ぎ木をして育てたものです。官兵衛が主人公のドラマが放映され話題になったのを機に、地元のPR活動の一環で行われました。


 有岡城跡が近くにあるJR伊丹駅は、大阪駅から宝塚線快速で2駅、13分で着きます。なお、伊丹市にはその他にも、有岡城の砦の一部が残されている猪名野神社、城に関する出土品が展示されている伊丹市立博物館、伊丹市立伊丹郷町館などがあります。こちらも訪ねてみて下さい。


 次回は、官兵衛シリーズ最終回。三木合戦の結末やいかに。どうぞお楽しみに!

黒田官兵衛 その三

2017.04/15 番組スタッフ 記事URL


  天正5年・1577年10月、黒田官兵衛は播磨国(現在の兵庫県)に入った羽柴秀吉を姫路城に迎えました。
  その頃、西の毛利、東の織田という二大勢力の狭間で、播磨にいた多くの将軍の心は揺れ動いていました。


 黒田官兵衛の説得により、彼らは織田信長への加勢を決めました。しかし、その中で別所長治は離反し毛利方につくことになります。長治は三木城に篭城して、毛利の援軍を待つ方針を決めました。


 これによって秀吉は、位置的に三木城の長治と毛利氏の勢力に挟まれるという窮地に立たされました。そこで官兵衛はまたもや知恵を働かせます。秀吉に書寫山圓教寺(写真)へ本陣を移すことを進言したのです。
  その理由は、信長からの大量の援軍を収容できる場所であること、山の上にあり相手方の監視を行えることなど諸説あります。



         
    

  標高371mの山頂にある書寫山圓教寺は、康保3年・966年に性空上人によって開かれました。比叡山・大山とともに天台宗の三大道場と並び称され、「西の比叡山」とも呼ばれています。

  境内は国指定の史跡であり、多くの重要文化財が現存しています。
  最近では、ハリウッド映画やテレビドラマのロケ地として数多く使用されたことでも有名になり、参拝客が絶えることはありません。

 秀吉軍の兵士たちは寺に入った際に仏像や仏具などを持ち出したり、摩尼殿の柱に小刀で落書きをしたりと、狼藉を働きました。
  実際に摩尼殿の柱には現在も、秀吉の弟・秀長の家臣が落書きをした跡が公開されています。さらに秀吉により多くの寺領が没収されてしまいました。
  そのような中で三木城に籠る長治の動向をうかがっていたのです。

 一方、相対する三木城についてもご紹介します。
  最寄りの三木上の丸駅を出て、程なくすると「ようこそ三木合戦の地へ」と書かれた大看板が目に入ります。アニメキャラクターのように格好良く描かれた秀吉、官兵衛、竹中半兵衛、長治とその夫人が登場し、城跡への行き方を案内してくれます。

 
  三木城は、室町時代の15世紀後半に別府氏によって築かれとされ、以後も別府氏の居城となりました。
  現在は保育所、図書館や美術館などが入る広い公園になっています。平成25年・2013年3月には国の史跡に指定されました。城跡の説明板の裏には三木城を包囲した秀吉軍の配置図、その側には24コマに分けて戦の様子を描いた三木合戦図があり、当時の状況を分かりやすく説 明しています。


  園内には、城外への抜け穴があったとされる「かんかん井戸」があり、当時の城の作りも垣間見られます。長治に関する史跡もありました。
  長治の石像は公園の中でも一際目を引きます。 「別府長治公像」と書かれた石台の上で馬に乗る勇ましい姿が象られています。説明板には、長治の生涯が簡潔にまとめられています。

 その他、長治の辞世の句、さらに別府家一族の辞世の句が刻まれた石碑がそれぞれありますが、詳しくは長治が最期を迎える再来週の回でご紹介します。

 書寫山圓教寺は、JR姫路駅から神姫バス「書写ロープウェイ行き」で終点まで約25分、書写山ロープウェイで山上駅まで4分、さらに徒歩約20分で摩尼殿に到着します。
  入山するには、志納金として500円が必要です(中高生以下は無料)。一方、三木城跡は神戸電鉄三木上の丸駅から徒歩約3分です。

  次回は、まだまだ続く三木合戦。その最中、事態は急転します。どうぞお楽しみに!

黒田官兵衛 その二

2017.04/08 番組スタッフ 記事URL


 黒田官兵衛が頭角を現してきた当時、播磨国(現在の兵庫県)は、東から織田信長、西からは毛利輝元とそれぞれ巨大な勢力が迫り、どちらにつくかという緊迫した状況でした。小寺家に家老として仕えていた官兵衛は、家を代表して信長を訪ねることに決めました。そして、信長に臣従を誓うことになります。


 これを知った毛利輝元は、信長の勢力が育つことに危機感を覚え、天正4年(1576年)約5000の兵を引き連れ、英賀(現在の姫路市飾磨区)に上陸します。官兵衛が守る姫路城から約8キロの場所です。一方、迎え撃つ官兵衛の兵は500。前回ご紹介した青山の合戦と同様、多勢に無勢と言っても過言ではありません。そこで官兵衛は、様々な策を練ります。

 まず、毛利軍は水軍だったため、上陸して間もない頃は船に長時間揺られていた疲れで態勢が整っていないと判断し、そこを狙って奇襲攻撃をしかけました。さらに、近くの山に農民を潜ませ、大量の軍旗を持たせました。これで毛利軍は敵の援軍が来たと勘違いし、混乱に陥り敗走。官兵衛の勝利に終わります。


 古代から水の要所として知られていた英賀は、室町時代に大きな発展を遂げました。一時は「播磨最大の都市」と言われ、上記で述べた通り、戦に翻弄された都市でもあります。ここからは、英賀に古くから残る遺構をご紹介しましょう。


 英賀城は、別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び播磨三大城と称されました。英賀城の本丸があった場所は、今や住宅地に埋没しています。
 「英賀城本丸之跡」と記された石碑が、道路に面して生け垣で囲われた一角にありました。英賀城に関する説明板もあります。

 
 説明板によりますと英賀城は、南は海、西と東は川に面し、北は湿地帯で、守るのに都合の良い城だったということです。鎌倉時代には砦が作られていましたが、室町時代になると播磨の守護大名・赤松氏の一族が守りました。
 しかし、嘉吉の乱によって勢力を失った後は三木氏が城主となり、城をさらに整えました。


 天正8年(1580年)に羽柴秀吉に滅ぼされるまで約140年間、三木氏はその周辺を支配し、一大勢力を誇っていました。城内には本丸・二の丸をはじめ、一族がそれぞれ大きな屋敷を構えていました。また、多くの寺院や商人の住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町として大いに賑わいました。


 英賀城の土塁は現在、本丸跡の碑から歩いて10分ほどの所の英賀神社にあります。

 本殿の裏にある社殿の一角に、「英賀城土塁」と記された石碑のような佇まいで、その一部を見ることができます。
 秀吉による落城後は、城と城下は焼き尽くされ、各地に残っていた土塁も昭和13年(1938年)に行われた区画整理によってほとんどが消滅してしまったため、この土塁は大変貴重な遺構となっています。その脇にある参道を抜けると英賀城跡公園がありますが、その中央には当時を思わせる模擬石垣が広がっています。(写真)



  


 「英賀城本丸之跡」碑は、山陽電車・西飾磨駅から徒歩約10分、英賀神社ならびに英賀城跡公園はJR英賀保駅から徒歩約10分です。

 次回からは三木城主・別府長冶との戦い。
 官兵衛らが本陣を移した書寫山圓教寺をご紹介します。
 
 どうぞお楽しみに!

黒田官兵衛 その一

2017.04/01 番組スタッフ 記事URL

 
 放送開始から1年を迎えました。
 これからも、様々な関西ゆかりの人物・史跡にスポットを当てていきます。どうぞご期待下さい。

 今回ご紹介するのは、戦国屈指の軍師・参謀として知られている黒田官兵衛です。
 生まれは現在の兵庫県姫路市とされています。まずは、官兵衛と姫路の関係から紐解いてみましょう。


 黒田家は、官兵衛の祖父・重隆の代に姫路に移り住みました。
 秘伝の目薬に広峯神社のお札をつけて売り大成功をおさめ、財を成しました。その後、播磨の有力な豪族だった御着城の小寺氏の家臣となり、姫路城の管理・守衛を任されます。それは息子の職隆の代も続きました。


 黒田家の公式な記録「黒田家譜」によると、天文15年(1546年)11月29日、父・職隆、母・明石氏のもとで官兵衛は生まれました。その聡明さは早くから主君に認められ、16歳で側近に、22歳で家老にまで上りつめます。


 そんな中、事態が動き出します。
 永禄12年(1569年)8月9日、播州龍野城の主・赤松政秀は3000人余りの兵を率いて、姫路城を攻めようと進撃してきました。官兵衛は父・職隆のもとを離れ、赤松軍を迎え撃ちます。


 廃れ行く龍野藩の勢力を何としても奪回しようとする政秀、一方で生誕地である姫路城を何が何でも守らなければならない官兵衛、両者の思いがぶつかります。青山・土器山の戦いです。


 官兵衛は土器山(現在の姫路市下手野)に布陣し、そこへ赤松軍は菅生川(現在の夢前川)を渡って迫りました。官兵衛の手勢はわずか300、赤松軍のおよそ10分の1しかありませんでした。一時は赤松軍の多勢に押され悪戦苦闘、官兵衛は退去する策を練ります。
 しかし秘策を尽くし、敵の油断を突いて不意撃ち、挟み撃ちをした結果、青山(現在の姫路市青山)まで追い詰めて赤松軍を撃退しました。


 現在も残る古戦場跡は、何とゴルフコース内にあります。
 青山ゴルフクラブの10番ホールと18番ホールにまたがる千石池周辺がその場所と言われています。(写真)コースを仕切るフェンスの外側には、古戦場を示す石碑が置かれています。


    


 「史蹟 黒田官兵衛古戦場跡」と題された石碑には、官兵衛が赤松軍を破り初陣を飾った旨が記された碑文も刻まれています。石碑の傍には、黒田家の家紋である藤の木や目薬の木を植えるなど、ゆかりの地としての整備も行われています。
 さらに古戦場跡の説明板や、青山合戦絵図などもあり、当時の状況を詳しく知ることができます。


 「黒田官兵衛 古戦場跡」は、姫路駅から車で約20分です。徒歩で数分の範囲に最寄り駅がありませんので、車での移動をおすすめします。石碑はゴルフコースの敷地外にありますので、許可なく見学できます。
 そして石碑の後ろへ進むと、フェンス越しに戦場とされる千石池を望むことができます。


 次回、官兵衛は英賀の戦いに参戦します。どうぞお楽しみに!


 

濱口梧陵 その四

2017.03/25 番組スタッフ 記事URL


  地震や津波などに対する防災や、その後の復興について考えるきっかけにしていただきたいと取り上げた濱口梧陵ですが、いよいよシリーズ最終回となりました。


 今回は、故郷の広村(現在の和歌山県有田郡広川町)を大津波が襲った後、梧陵が将来に備えてどのように尽力したかを振り返ります。

 安政元年・1854年の安政南海地震による津波から多くの村人を助けた梧陵ですが、彼の活躍はそこで終わりません。100年後に再来するであろう津波に備えるため、巨額の私財を投じ、故郷の広村に大堤防を築くことにしたのです。


 というのも、広村は古来より幾度となく津波に見舞われてきました。
 遡ること安政南海地震の150年近く前、宝永4年・1707年にも津波による被害がありました。さらに、梧陵が堤防を築こうとした場所にはすでに室町時代の豪族・畠山氏による石垣の堤防がありました。
 これらが示す歴史から、災害は繰り返されると梧陵が考えたことは容易に想像ができます。

 さっそく梧陵は、同じ濱口家の吉右衛門とともに、畠山氏が築いた堤防の後方に高さ5m、幅20m、長さ600mの大堤防を築く計画を立てました。

  安政南海地震による津波の翌年から着工、海側には松並木を植林し、3年10ヶ月の工期を経て完成。広村堤防と名付けられました。延べ人員は56736人を要したということです。
 この大工事に村人を雇用することによって、津波により職を失った人々に仕事を与えることができ、村からの離散も防ぎました。


 そして安政南海地震による津波から92年後、梧陵が案じた未来はついに現実のものとなってしまいます。
  昭和21年・1946年12月21日の未明(4時20分頃)に昭和南海地震が発生し、約30分後に高さ4~5mの大津波が広村を襲いました。
  しかし、梧陵たちが築いた広村堤防は村の居住地区の大部分を津波から守りました。
  現在も気象庁のホームページでは、安政南海地震津波と昭和南海地震津波、両方の浸水域が確認できますが、その効果は歴然。広村堤防の周辺にはほとんど浸水していないことが分かります。


  実際に広村堤防に登ってみると、湯浅港と目の鼻の先であることがよく分かります。(写真)



            

         

 堤防の中央部には、実際に昭和南海地震による津波の侵入を防いだ当時の扉を現在に引き継ぐ、通称・赤門があります。その近くには感恩碑があり、広村の歴史や災害から守り発展させた幾多の先人の遺徳、さらに梧陵の偉業を称える内容が刻まれています。昭和8年・1933年12月に建立されました。


 広村では毎年、津波防災の日である11月5日に津浪祭がこの碑の前で行われます。
  町内の平穏無事と津波の犠牲者たちのご冥福をお祈りするとともに、梧陵たちの遺業に感謝する行事です。
  なお、広村堤防は昭和13年・1938年に国の史跡に指定されています。


 一方で、広村堤防に関連する史跡としては、安政の津波跡の柱があります。これは1週目にご紹介した東濱口公園の中にあるものですが、柱の上部に横線が引かれているのは、津波がここまで上がってきたことを示しています。
 海抜は5.04m。広村堤防の海抜は高い所で6.13mあることから、この津波高を参考に築かれたことが分かる貴重な記録です。


 梧陵はその後、駅逓頭(その後の郵政大臣)に就任したのをはじめ、和歌山県議会初代議長にも選任、その後は民主主義を広める活動を展開し、明治18年・1885年にその生涯を終えます。
 広川町には梧陵の墓が現在も残っています。これまでご紹介してきた耐久舎や広村堤防などとは少し離れた場所にあり、その魂は山の麓でひっそりと眠っています。こちらも訪ねてみて下さい。


 今回ご紹介した広村堤防は、JRきのくに線の湯浅駅から徒歩約20分です。以前に取り上げた稲むらの火の館で基礎知識を得てから、堤防を歩くと感慨の深さが違います。

濱口 梧陵 その三

2017.03/18 番組スタッフ 記事URL


 濱口梧陵が、故郷の広村(現在の和歌山県有田郡広川町)のために教育施設・耐久舎を建ててから2年後、悲劇が襲います。

 安政元年・1854年、梧陵が広村に帰郷していた時、突如大地震が発生し、その後紀伊半島一帯に大津波がやってきました。


 梧陵は波にのまれながらも、村人たちに高台にある広八幡神社へ避難するよう必死に呼びかけ、自らも何とか神社へ逃れました。
 しかし、だんだんと日が暮れて辺りが見えず、どこへ避難すればいいか分からなくなる人たちがまだ大勢いたのです。


 そこで梧陵は、稲むら(稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導しようと考えました。その結果、多くの村人が安全な場所に避難させることができました。災害後も蔵の米がなくなるほど炊き出しを供し、村人のために尽力しました。


 この梧陵の活躍は、明治29年・1896年に物語として世に広まります。ギリシャ生まれで後に日本国籍を取得する作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「A Living God(生ける神)」です。

 ハーンはこの中で、日本の神の概念は諸外国のそれとは著しく異なっていて、日本では尊敬される人物は生きながらにして神として祀られることがあるという趣旨を述べています。

 つまり、津波から村人を救出する梧陵の姿を神になぞらえたわけです。


 ハーンはこの年の6月に、三陸海岸を襲い22000人もの犠牲者を出した大津波のニュースを知り、かねて伝え聞いていた梧陵の逸話をヒントにこの物語を一気に書き上げたそうです。ただ、今回の玉秀斎さんのお話にもあったように、実話と異なる点がいくつかあります。

 物語では、梧陵は「五兵衛」として登場し、「老人」と紹介がありますが、実際は35歳。また、濱口家の住居は作中では高台であるのに対し、実際は低い平地の集落。村人の数は作中400人に対し、実話では1323人。地震の揺れ方も、作中は「長くゆったりした揺れ」である一方、実際は激しい揺れでした。 さらに、五兵衛は神として祀られたのに対し、梧陵は祀られることを固辞したとも言われています。

 ハーンが紡いだ物語は、次の世代に受け継がれます。「A Living God」を学び、深く感動した小学校の教員・中井常蔵は、その真髄を小学生にも分かるよう短い作品にした「稲むらの火」を昭和9年・1934年に文部省の教材公募に応募し、採択されます。

 その3年後に小学国語読本で10年間掲載され、児童に深い感動を与えました。今や不朽の防災教材として語り継がれています。


 実際に梧陵をはじめ村人たちが避難した広八幡神社は、現在も村の緊急避難場所に指定されています。

 応永20年・1413年に造営したという記録があるほど歴史の長い神社で、本殿は国の重要文化財に指定されています。


 境内には濱口梧陵碑があり、梧陵の生涯が数々の功績とともに詳しく書かれています。石碑の横には説明板があり、碑文の内容が現代語訳されています。文章は、梧陵の死後に濱口家に依頼されて勝海舟(勝安房)が綴ったものです。


 一方で、梧陵の故郷・広村、現在の広川町では津波防災教育センターが設けられ、様々な展示や体験コーナーから防災意識を高めることができます。

 長さ約16mの津波実験水槽「津波シミュレーション」(写真)は、スイッチを押すと水槽の水が波に変わり、家など建物の模型に押し寄せます。自然の力がいかに恐ろしいかがよく分かるコーナーです。

 防災体験室では、防災川柳や解説グラフィック、体験映像、ゲームで楽しみながら、「応急」「復旧」「予防」の3つの知恵を学べます。


   


 2階に上がると、梧陵の功績をまとめたパネルや稲むらの火展示室、日本の津波の歴史をたどる「継承の道」などがあり、3階には研究発表や新聞記事などの企画展示やガイダンスルームなどがあります。 階を上がるごとに内容が濃くなっていく印象がありました。


 広八幡神社は、JRきのくに線の広川ビーチ駅から徒歩約30分、レンタサイクルもあります。
  一方で津波防災教育センターは、前々回ご紹介した濱口梧陵記念館に隣接しています。JRきのくに線の湯浅駅から徒歩約15分です。

 センターがある「稲むらの火の館」は、開館時間が午前10時から午後5時、休館日は月・火曜日と年末年始です。
 なお、毎年11月5日も津波防災の日は開館となります。入館料は一般500円、高校生200円、小・中学生は100円です。


 次回はいよいよシリーズ最終回。梧陵が将来の津波に備えて築いた「広村堤防」をご紹介します。どうぞお楽しみに!

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パーソナリティ

玉田 玉秀斎
たまだ ぎょくしゅうさい

2001年11月 旭堂小南陵(現・四代目南陵)に入門。

ブラジルにてポルトガル語講談、アメリカ・ボストンにて英語講談、上海にて中国語講談など各国で講談を行う。

またジャズ講談など音楽とのコラボレーションも大好評。

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