番組紹介

ラジオNIKKEI第1 毎週土曜日 8:00~8:15

講談師 玉田玉秀斎が関西各地の史跡に纏わる人物を講談で紹介。興味を持ったご当地へのアクセスや見所、現況を競馬実況アナウンサーがナビゲート。

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藤堂高虎 その四

2017.02/25 番組スタッフ 記事URL


 藤堂高虎の物語は最終回を迎えました。今回の舞台は、大阪府八尾市本町にある常光寺です。


 高虎は、慶長19年・1614年の大坂冬の陣、翌年の夏の陣と徳川方(東軍)に従軍します。
 夏の陣では、高虎軍が豊臣方(西軍)である長宗我部盛親の軍と常光寺門前で遭遇。激戦の末、双方とも多くの戦死者を出しました(八尾の戦い)。

 藤堂軍は主な家臣71人、その部下約200人が犠牲となりました。


 しかしこの時、常光寺は何の被害も受けませんでした。
 当時、ここを抱え寺として保護していたのが以心崇伝。臨済宗の僧で、徳川家康に仕え外交事務など行政に関わっていた人物です。
 そのため家康は「寺を荒らすな」との禁札を出して、雑兵の心無い乱暴を厳重に戒めたといいます。


 戦が終わり、高虎はこの寺の縁側で敵軍の首実検をしたと言われています。首実検とは、討ち取った敵の首を、大将が本物かどうか確かめる作業のことです。
 とても残酷な光景ですが、部下が挙げた戦功をいかに表彰するか判定する材料としての側面もあり、当時は重要な儀式として行われていました。

 
 高虎が首実検をした廊下は一面に血が染み付いたため、後にその板は天井に上げられました。それが「血天井」と呼ばれ、現在も残っています。

 実際に見た感じでは、これが血の跡だと明らかに分かるところはありませんでした。
 しかし、褐色の天井板は、明らかに今使われている廊下よりも色が濃く、艶もありません。そもそも古い板ですし、血に染まったことで全体が変色したのでしょうか・・・。
 戦から400年を超えた今、できるのは想像することだけです。


 一方、境内には夏の陣で犠牲になった家臣71人の魂が眠っています。「藤堂家臣七十一士墓」です。前列には高さ90cm、または150cmの五輪塔が6つ並び、後列には小さな五輪塔が肩を並べるように配置されています。(写真)


       
     

 前列の6つの塔は右から、桑名弥次兵衛・藤堂勘解由・山岡兵部・藤堂仁右衛門(最も大きな塔)・藤堂新七郎・藤堂玄藩のもので、高虎軍の中で重要な職を務めた6人です。


 墓地の脇に「勢伊死事碑」と呼ばれる石碑があります。
 宝暦14年・1764年の戦没150回忌にあたり、遺族らが冥福を祈るために建てられたものです。
 この時には藤堂家が字を刻み、寺には銀千両が寄進されました。
 碑には東軍の動き、後の戦死者が奮戦した当時の状況、碑を建立した由来が彫られています。


 阿弥陀堂には、高虎と、上記で述べた重臣6人の位牌が祀られています。中央の最も大きい位牌が高虎のものです。その前にあるのが七十一士の芳名で、一人ひとりの名前が確認できます。


 また、寺のホームページでは貴重な古文書が見られます。高虎が夏の陣に参戦した際、遠距離にいるため参れないという便りを寺へ送った「藤堂高虎書状」や、家康が関ケ原の合戦後に常光寺を戦乱から守るため出した文書「徳川家康禁制」などです。


 常光寺は、近鉄八尾駅から徒歩約6分です。
 駅の西口からつながる商店街を約500m進み、左手に見える「ファミリーロード」を約50m進むと、右手に山門があります。寺の名前が書かれた看板がアーケードに面しているので、それを目印にして下さい。

 なお、今回ご紹介した血天井や墓、位牌は、本堂のある敷地とは隔てられた場所にあります。
 住職など寺の関係者を訪ねた上で、見せてもらうことをおすすめします。

 

藤堂高虎 その三

2017.02/18 番組スタッフ 記事URL

藤堂高虎は城を築く能力に長けていることから、"築城名人"の異名があります。
 今回はその点にスポットを当てます。ご紹介するのは彼が築いた城の一つ、伊賀上野城です。


 高虎は、関ケ原の戦いで相手方を寝返りさせる計略を行うなど勝利に貢献したことから、徳川家康にその手柄を評価されます。
 その後も高虎は家康の重臣として仕え、江戸城の改築などの功績を挙げました。


 慶長13年・1608年、ついに家康は高虎に伊賀10万石、伊勢10万石、伊予2万石、計22万石を与え、高虎を津の藩主としました。この時に、大坂の豊臣方との決戦に備えるため、伊賀上野城の改築が行われました。


 伊賀上野城はもともと、天正13年・1585年に伊賀上野藩主・筒井定次によって築かれたのが始まりです。
 定次の城は大坂を守るように作られていたのに対し、高虎は大坂に対峙するための城として築きました。つまり、それまでとは正反対の役割を持たせたのです。


 慶長16年・1611年には本丸を西に拡張し、高さ30mの石垣を張り巡らして南を正面としました。高石垣は大阪城と並んで日本一の高さを誇ると言われています。たびたび映画やテレビドラマのロケ地にも選ばれています。


 しかし翌年9月、五層の天守閣は完成間近にもかかわらず、大暴風雨に襲われ倒壊してしまいます。その2年後の大坂冬の陣とさらに翌年の夏の陣で徳川方が勝利し、幕府が城の建設を禁じたため天守閣の再建はされませんでした。


 現在ある天守閣は昭和10年・1935年、地元出身の政治家である川崎克氏が文化産業振興のため、私財をもって復興されたものです。
 そのため正式には伊賀文化産業城と名付けられています。その優雅な姿からは"白鳳城"とも呼ばれ、今や伊賀市のランドマークとして親しまれています。


 天守閣の中は見学ができます。玄関を上がると、まず見えるのが木彫りの高虎像です。(写真)
 伊賀上野城のマスコットキャラクター・た伊賀ー(タイガー)くんと並び、訪問客を出迎えます。


         


 1階の中央には「藤堂高虎 出世物語」と題し、絵の描かれた大きなパネルが立てられています。
 節目となった出来事を11枚に分けて、高虎の生涯を分かりやすく解説しています。なお、顔出しパネルになっているので、高虎になりきって写真撮影もできます。


 その他1階には、藤堂家ゆかりの甲冑や武具、さらに伊賀焼などが展示されています。
 中でも見どころは高虎の兜「唐冠形兜」です。高虎が豊臣秀吉から拝領し長年愛用していたものですが、後に大坂夏の陣で一族の若武者・良重に与えました。良重はこの戦で討ち死にしましたが、この兜は代々受け継がれ、現在は伊賀市に寄贈されています。三重県指定文化財にもなっています。


 2階は、特別展・藩主藤堂家の遺品展になっています。藤堂家の調度品がメインです。
 高虎が大坂の陣で使用した大食籠や陣鍋、高虎が着用した脇差し、高虎の座像や肖像画などがありました。


 最上階の3階に高虎ゆかりの品はありませんが、「天井絵巻」が圧巻です。格子の天井には1m四方の色紙46枚がはめ込まれています。
 現在の天守閣が完成した際、日本画家の横山大観はじめ著名な画家、書家、政治家などが祝意を込めて寄贈したものです。
 当時の著名人一人ひとりの筆跡を見ることができ、個性あふれる空間が広がっています。


 伊賀上野城は、伊賀鉄道・上野市駅から徒歩約8分です。
 見学には入館料が必要です。大人(高校生以上)500円、小人(小・中学生)は200円です。開館時間は9時から17時まで、12月29日から31日が休館となっています。
 城がある一帯は上野公園として整備されていて、その他にも伊賀流忍者博物館、筒井古城跡、伊賀出身の俳人・松尾芭蕉の記念館や俳聖殿などがあります。
 

 次回は高虎シリーズの最終回。大坂夏の陣で高虎が首実検を行った常光寺をご紹介します。どうぞお楽しみに!

藤堂高虎 その二

2017.02/11 番組スタッフ 記事URL


 今月は三週目まで、藤堂高虎を語る上で欠かせないエピソードが詰め込まれている演目「出世の白餅」をお楽しみいただいています。


 その中には、「白餅」と、後に出世して「城持ち」になる高虎がうまく織り交ぜられています。しかし、これはただの言葉遊びではありません。城を持つほどの出世を果たした高虎は、旗指物に白い丸が三つ縦に並んでいるデザインを用いました。

 
 その旗を見ることができる場所が、岐阜県不破郡関ケ原町にあります。地名が示す通り、時代は慶長5年・1600年に始まった関ケ原の戦いに遡ります。

 豊臣秀吉に仕えていた高虎は、秀吉の死後、派閥の分裂とともに徳川家康に接近します。関ケ原の戦いでは東軍左翼縦隊の第二陣として、京極高知の隊とともに柴井(現在の関ケ原中学校付近)に陣を置き、西軍に備えていました。

 開戦したのは午前8時頃。当初は大谷吉継隊と戦を交えていました。
 なかなか戦況は良くなりませんでしたが、午後に西軍から小早川秀秋隊が東軍に寝返ったことで事態は一変します。

 大谷隊と小早川隊が壮絶な死闘を繰り広げる中、高虎・高知の両軍が突入し、これに呼応した脇坂安治隊らの攻勢も加わり、大谷隊を壊滅に追い込みました。

 関ケ原中学校の敷地内には、現在も高虎たちが陣取った跡地が残っています。
 「藤堂高虎・京極高知陣跡」は中学校入り口のすぐ右手に見ることができます。

 「柴井 藤堂高虎 京極高知 陣所古址」と刻まれた石碑を中央に、右側に高虎の旗、左側に高知の旗が翻っています。(写真)


          
  

 高虎の旗は黒地に三つの白い丸というシンプルなデザイン。
 取材当日は雪が多く残っていたこともあり、白い丸には降りしきる雪の粒や雪だるまなどを連想してしまいました。
 しかし、白い丸は高虎が若い頃に恵んでもらった白い餅の思い出が詰まっているのです。

 その恩を生涯忘れまいとする高虎の心意気を感じずにはいられません。
 石碑の横には説明版もあり、高虎隊がこの付近に陣取っていたことや合戦での活躍ぶりが書かれています。

 「藤堂高虎・京極高知陣跡」は、JR関ケ原駅から徒歩約15分です。
 中学校のホームページには「遠慮しないで校門から中に入ってください」とあります。

 場所は校門に入ってから校舎までしばらく広がる駐車場の一角です。
 あまり学校関係者の目は気にならないところに陣跡はありますが、訪問の際は周りの迷惑にならないよう配慮しましょう。

 校門前にある電柱には高虎や高知の簡単なプロフィールも貼られていて、基礎知識を得ることもできます。
 ちなみに陣跡は最初、学校の北側にある民家の中にあり、その後学校内の西側に移り、数年前から現在の場所にあるということで、3度場所が変わっています。


 関ケ原には、その他にも合戦ゆかりの地が多数あります。
 開戦の地、決戦の地はもちろん、家康や石田三成が陣取った場所、上記で述べた武将たちの陣跡も巡ることができます。

 これらの史跡を全て巡るには距離約13km、所要時間は徒歩で約4時間かかるということです。
 ルートは駅や駅前の観光交流館などに置いてある無料のガイドブックなどを参考にすることをおすすめします。興味のある方はチャレンジしてみて下さい。

 
 次回は、高虎が大改築を行った伊賀上野城をウォークします。どうぞお楽しみに!

藤堂高虎 その一

2017.02/04 番組スタッフ 記事URL


   今月ご紹介する関西ゆかり人物は、戦国時代には武将として活躍し、江戸時代には大名となった藤堂高虎です。

 何度も主君を変えた人物として知られる一方、城を築く技術に長けていることから"築城名人"の呼び声もあります。今でも様々な歴史的評価がなされる高虎にスポットを当て、その生涯や戦いの足跡、築いた城などをウォークしていきます。


 高虎は弘治2年・1556年、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町大字在士)で生まれました。現在もそこには高虎ゆかりの地があります。「藤堂高虎公 出生地跡」と「高虎公園(在士高虎公園)」です。


 在士村の民家が立ち並ぶ一角に、小さな公園があります。「藤堂高虎公 出生地跡」です。高虎の出生地であることを示す石碑がありました。表には「伊勢國安濃津城主 藤堂髙虎公出生地」と刻まれていて、裏には高虎の功績などが記されています。
 園内の説明板には、藤堂家の正史「宗国史」を紐解き、そこから高虎の出生地が今の在士村であることが裏付けされています。


 「高虎公園」は、平成元年・1990年に出生地としてのシンボル作りの検討が進められたのが始まりで、その2年後から建設が始まりました。やはり目を引くのが大きな高虎の騎馬像。出陣する高虎の勇ましい姿が精巧に象られています。

 高虎が指差す先は、藤堂家ゆかりの神社・八幡神社です。八幡神社については後ほどご紹介します。

 この騎馬像は彼の功績を称える史跡の中でも最高級のものと言えるのではないでしょうか。
 なお、公園の総面積の半分ほどを占める池の中央に像が佇んでいるので、玉秀斎さんの講談にもあった通り、近寄ることはできません。


 この騎馬像の周りにも、様々な史跡が見られます。
 「高虎公ゆかりの残念石」(写真)は、高虎が徳川幕府から命じられ京都府加茂町の大野山から切り出されたものです。



          

         

 本来は大阪城再建のために使う目的でしたが、結局使われることなく木津川に取り残されていました。その後、村の顕彰事業として運び込まれ、平成11年・1999年に現在の場所に設置されました。
 重さは約11トンの巨大な石には、藤堂家の栄光を示す記号と寸法が刻まれています。


 「駒止め石」は、辞世の句が書かれている石碑ですが、詳しい説明板はありませんでした。
 「藤堂宗家 家紋入り灯篭」には、蔦の紋様のくり抜きと浮き彫りが見られます。
 この2つはいずれも藤堂家第15代の高正氏によって平成16年・2004年に寄贈されました。


 高虎公園から約200m続く「高虎の道」を進むと、八幡神社(在士八幡神社)が見えてきます。高虎の8代前の先祖にあたる景盛が石清水八幡宮の祭神の霊を分けて祀るために建立したのが始まりとされています。


 境内には、子孫繁栄を祈願した樹齢250年の「紫藤樹」があります。
 石清水八幡宮から分祀する際、藤を一株持ち帰って植えたのが始まりです。その子孫である二株が数百年の時を経て巨樹となり、現在に至っています。

 昭和40年・1965年には町の指定文化財・天然記念物に指定されました。
 毎年5月上旬には「藤切祭」が行われ、切り取られた藤の房を東京にある藤堂家に贈るのが慣わしとなっています。
 藤の房は希望すれば見物客にも贈られます。史跡巡りとともに、鮮やかな藤の絶景もお楽しみ下さい。


 出生地、高虎公園および八幡神社は、最寄りの近江鉄道・尼子駅からそれぞれ徒歩約20分です。JR琵琶湖線では河瀬駅が最寄りです。いずれの駅からも湖国バスが出ています。「甲良町役場前」の停留所で降りて下さい。
 3ヶ所とも近い所に集中しているので、高虎公園内にある地図などを参考にすれば簡単に巡ることができます。


 次回は、関ケ原の戦いで高虎が陣取ったとされる跡地をウォークします。どうぞお楽しみに!

豊臣秀吉 その四

2017.01/28 番組スタッフ 記事URL


 いよいよ太閤・豊臣秀吉のシリーズは最終回を迎えました。今回ご紹介するのは、秀吉が最期を迎えた場所、現在の京都市伏見区にある伏見城です。

 天正20年・1592年、秀吉は聚楽第(前回を参照のこと)を甥の秀次に譲り渡すと、隠居後の住まいとするために伏見指月に城の建設を始めました。これが初代の伏見城(指月山伏見城)です。しかしその後、大地震により倒壊したため、木幡山に移されました。初代と区別して木幡山伏見城とも呼ばれます。

 残念ながら移築して1年後に秀吉は亡くなってしまいますが(死因は病気など諸説あり)、五大老の一人・徳川家康がこの城に入り、政務を執りました。関が原の戦いの前哨戦・伏見城の戦いで城は焼失、その後家康の命により再建されます(徳川伏見城)。しかし、次第に軍事的な重要性を失い、元和9年・1623年に廃城となります。

 本丸の天守は二条城へ移るなど、多くの建物は全国各地に移築されました。廃城後は一帯が開墾されますが、その地に桃の木が植えられたことから、桃山という地名が生まれました。

 跡形も無くなった伏見城ですが、その遺構とも言うべき建物が現存しています。現在の伏見桃山城運動公園内にある天守です。〔写真)


    

 これは、近畿日本鉄道のグループ会社である株式会社・桃山城が昭和39年・1964年に開園した「伏見桃山城キャッスルランド」という遊園地の目玉建造物でした。いわゆる模擬天守です。キャッスルランドには当時、ジェットコースターやゴーカート、プールなどの遊戯施設もあり、ピーク時には100万人近くの入場者がいたということです。しかし、その後経営難となり、平成15年・2003年1月に閉園となりました。

 その後は、京都市により運動公園として平成19年・2007年に開設されました。模擬天守はその際に解体される予定でしたが、地元の要望もあり残されることになったのです。天守は今も伏見のシンボルとして親しまれ、映画やドラマの撮影などにも活用されています。

 キャッスルランドの入り口だった立派な城門をくぐると、すぐに大天守、小天守の2つが見えてきます。模擬天守とはいえ、本当に武将たちがいたのではないかと思わせるほどの精巧な造りで迫力がありました。しかし、耐震基準を満たしていない可能性があり危険なため、残念ながら中に入ることはできません。

 天守の他には、野球場や多目的グラウンドがあり、取材に訪れた日には運動に励む幾人かの子供がやってきていました。そこにはもはや遊園地時代の賑わいはありませんが、模擬天守には当時の活気が取り残されているような不思議な思いをしました。

 伏見城の模擬天守がある伏見桃山城運動公園は、近鉄・京阪の丹波橋駅から徒歩約15分、JR奈良線の桃山駅からは徒歩約10分です。

豊臣秀吉 その三

2017.01/21 番組スタッフ 記事URL


 今回ご紹介するのは、豊臣秀吉が修築を行った京都市上京区にある京都御所です。

 賤ヶ岳の合戦で、信長の後継者争いに勝利した秀吉。その後も順調に出世を重ねていきます。実権を握った秀吉は天正十五年・一五八七年、平安京の大内裏(皇居)跡にあった場所を利用して聚楽第を建設し、本邸としました。新装となった聚楽第には、当時の御陽成天皇や正親町上皇らを招き、権力者としての地位を内外に示しました。周辺には武家や公家の屋敷、町屋などが整然と区画されて城下町のような景観を呈していたといいます。

 その一方で行ったのが京都御所の修築です。それ以前から、御所は度重なる焼失と戦乱による荒廃で、再建が繰り返されていました。信長の時代にも修築は行われていましたが、秀吉が行ったのは新造とも言うべき大がかりなものでした。約2年の歳月をかけた結果、御所は様相を一変します。現在ある京都御所の原型がほぼ出来上がりました。聚楽第の建設と御所の修築によって、この地一帯の景観を完全に変えたのです。

 東西約700m、南北約1300mと長方形の広大な敷地を持つ京都御苑は京都市の中心部にあり、京都のシンボルともいえます。御所はその北部にあります。ベージュ色の「築地」と呼ばれる土塀で囲まれた敷地は約11万平方メートルあります。

 六つの御門があり、それぞれ格式と用途が定められています。南に位置する建礼門は最も格式が高いとされ、現在は天皇と外国の首脳のみに開かれます。北に位置する朔平門は、皇后が使用した正門です。西には3つの門がありますが、宜秋門はかつて公家などが出入りしました。



       

 

 御所の内部もご紹介します。南側には政や儀式を執り行う御殿、ちょうど中央には日常の住まいとしていた御殿、北側は皇后と若宮・姫宮の御殿と、大きく3つに分けられます。紫宸殿を中心に重要な御殿を南に配するのは、天守が南に面して座し、国を治めた中国の故事に起源があります。

 では、公開されている順路を辿ってそれぞれの御殿を簡単にご説明します。

 まずは南側。紫宸殿は、歴代天皇の即位式などが行われる最も重要な場所。現在の建物は幕末に平安時代の姿を復元したものです。紫宸殿の前に広がる屋外の大広間・南庭は、儀式の場として使用されました。

 これと並ぶ儀式用の御殿である清涼殿は、かつては日常の御殿としても使われていました。東からの風を受けて、京都の夏を涼しく過ごすために東に面して建てられています。小御所は、皇太子の儀式や、将軍・諸大名の謁見の場として使用されました。これと並んで江戸時代に作られた御学問所は、和歌の会など学芸に関する行事のほか,臣下との対面にも用いられました。

 次に中央です。東側には御内庭が広がり、奥深く静かな大自然の趣を醸し出しています。それに面して建つ御常御殿は御所内で最も大きな建物で、室町時代から天皇の住まいとなりました。大小15の間があります。現在残っている御常御殿は孝明天皇、明治天皇が使用しました。その西側にある御三門は、涅槃絵、七夕、盆などの年中行事に使われました。

 ここまで歩いて約1キロ¥、60分ほどかかります。なお、北側にある皇后宮常御殿や若宮・姫宮御殿などは公開されていません。

 京都御所は、最寄りが地下鉄烏丸線の今出川駅で徒歩約5分です。同じく丸太町駅からもアクセスできますが、御苑の中をしばらく歩くので多少時間がかかります。今年から御所の通年公開(毎週月曜日や年末年始などは休み)も行われるようになり、より身近なものになりました。

 御苑には約5万本といわれる樹木が生育し、散策や休養、自然や歴史とのふれあい、スポーツなど多目的の空間としても親しまれています。残念ながら秀吉に関する史跡はありませんでしたが、所々に史跡を示す説明板が設置されているので、それらを探しながら探索するのもおすすめです。

 次回は、秀吉が晩年を過ごした伏見城をご紹介します。どうぞお楽しみに!



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パーソナリティ

玉田 玉秀斎
たまだ ぎょくしゅうさい

2001年11月 旭堂小南陵(現・四代目南陵)に入門。

ブラジルにてポルトガル語講談、アメリカ・ボストンにて英語講談、上海にて中国語講談など各国で講談を行う。

またジャズ講談など音楽とのコラボレーションも大好評。

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