番組紹介

ラジオNIKKEI第1 毎週土曜日 8:00~8:15

講談師 玉田玉秀斎が関西各地の史跡に纏わる人物を講談で紹介。興味を持ったご当地へのアクセスや見所、現況を競馬実況アナウンサーがナビゲート。

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石田光成 その三

2017.07/15 番組スタッフ 記事URL


今週は、豊臣秀吉に仕えるようになった石田光成が、賤ヶ岳の戦いでの活躍で頭角を現し、その後家臣に島左近を迎え、佐和山城の主となるまでをお聴きいただきました。

 賤ヶ岳の戦いに関する史跡は、以前にこの番組でも取り上げています。ぜひバックナンバーをご覧下さい。 今回ご紹介するのは、現在の滋賀県彦根市にある佐和山城跡です。

 
 まずはこの城の歴史を紐解いてみましょう。佐和山のある湖東地方は、東山道や北国街道、琵琶湖がある交通の要衝です。戦略上の拠点として、古くから幾度となく戦乱の舞台となりました。鎌倉時代初期に、近江を治めていた佐々木定綱の六男である時綱が、山麓に館を構えたのが佐和山城の始まりと伝えられています。

 やがて佐々木氏の勢力は湖南と湖北に分裂して対立。佐和山城は、両勢力の境目の場所として攻防が繰り広げられました。織田信長の時代には、安土城が築城されるまでの間、重臣の丹羽長秀を配した佐和山城がその代役を果たしていました。秀吉に代が変わっても、堀秀政、堀尾吉晴、そして光成の入城と、この城に重きを置く姿勢は変わりませんでした。それと同時に、城は次第に整備されていきます。

 光成が城主になったとされるのは天正18年・1590年。五層の天守を構え、山の上には本丸以下、二の丸、三の丸、太鼓丸、法華丸などが連なり、山の下には大手門が開き、堀の内には城下町も形成されていました。その後、光成が関ケ原の戦いで敗れ、彦根城の築城に伴い廃城となります。当時の建築物の多くは、彦根城や清凉寺、龍潭寺に移築されました。

 現在、麓にある龍潭寺から佐和山城跡まではハイキングコースとして整備されています。寺の参道脇には、「石田光成公像」と題された石台の上に鎮座する光成の銅像や、「石田光成群霊供養」と書かれた供養塔があります。山頂に至るまでの道のりには建造物こそ残っていませんが、石垣や土塁がわずかに見られ、城の堅固さがうかがえます。

 山頂に建っているのが「佐和山城址」の石碑です。(写真 *彦根市教育委員会文化財課提供)

  
 

 ここからは琵琶湖が一望でき、彦根城も見ることができます。光成が城主だった当時、「光成に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われた匿名の歌があったといいます。有能な島左近と立派な佐和山城は、光成にはもったいないという意味になります。いわゆる光成への風刺ですが、それだけ佐和山城が素晴らしいと思われていたことも分かるエピソードです。

 山麓には、その他にもゆかりの寺があります。清凉寺は島左近の屋敷地とされていますが、本堂の裏山には井伊家11代藩主が建てた「石田群霊碑」があります。仙林寺には光成が水を汲んだと伝わる井戸があり、山門脇にある石仏は「石田地蔵」と呼ばれ、佐和山城が落ちた後に領民たちが供養のために隠し祀っていたものです。

 彦根城周辺の寺にある宗安寺、ならびに妙源寺の通称「赤門」は、佐和山城の城門だったと伝えられています。宗安時には、光成が亡き母の菩提を弔うために建立した瑞岳寺に祀ってあったという地蔵尊像と千体仏が安置されています。一方、妙源寺の赤門に使われている柱材には無数の矢が放たれた穴の痕があり、佐和山城が攻められた時の激しさを物語っています。

 佐和山城跡は、JR彦根駅から徒歩約50分です。なお、この山は清凉寺や龍潭寺などが所有する山です。また、団体で登山を計画される場合は、山の所有者であるこれらの寺の了解を得るようにしてください。

 次回は、光成いよいよ関ケ原の戦いへ出陣です。どうぞお楽しみに!






石田光成 その二

2017.07/08 番組スタッフ 記事URL


 石田光成と豊臣秀吉、初めての出会いをお聴きいただきました。その出会いの場所が、現在の滋賀県米原市にある大原観音寺です。今回は、この寺の歴史とともに、境内に残る光成ゆかりの史跡をご紹介しましょう。

 大原観音寺は、平安時代の前期にあたる仁寿年間(851~854年)に建立されました。もともとは伊吹山にあったことから、正式名称は伊富貴山観音護国寺。鎌倉中期の正元年間(1259~1260年)には現在の地に移築されています。寺の領主から手厚い庇護を受け興隆し、その後も湖北を掌握していた浅井氏から多くの寺領を保証されていました。

 本堂、鐘楼、惣門は平成4年・1992年に国の重要文化財に指定されました。その他にも様々な寺宝が所蔵されており、県や市の重要文化財に指定されています。境内には後鳥羽院が腰掛けたとされる石も置かれ、歴史にもゆかりの深い寺です。

 光成はこの寺で小姓(武将の身辺で雑用をする職)をしていましたが、鷹狩りの際にそこへ訪れた秀吉に茶を献じました。1杯目は大きい茶碗でぬるめのお茶を、2杯目は中くらいの茶碗でやや熱めのお茶を、3杯目は小さい茶碗で熱いお茶を差し出します。このいわゆる「三椀の才」に感心した秀吉にその才能を認められ、出世の糸口を作ったという話が、この寺には伝えられています。

 境内には、光成が秀吉に献じたお茶に使う水を汲んだ井戸が残されています。「太閤ニ茶ヲ献スル時 石田光成水汲ノ池」と書かれた石碑の下、小さく空いた穴に水がたたえられています。その付近にある説明板には、茶を献じるエピソードが江戸時代の逸話集「武将感状記」にも記されていることが分かります。

 一方、JR長浜駅前のロータリーには、茶を献じた様子を象った銅像があります。「出逢い」と記された石台の上に、光成、秀吉2人の全身の立像が建てられています(写真)。


    

 この頃はまだ光成は少年で、佐吉と呼ばれていました。横にある説明板には、「秀吉公と石田光成公 出逢いの像」と題され、「三献の茶」として今も語り継がれるこの時の状況が分かりやすく書かれています。像は昭和59年・1984年に建立されました。

 大原観音寺は、JR長浜駅から湖国バスに乗り、「観音寺前」停留所(先週ご紹介した「石田」停留所から2つ先)で下車、徒歩約5分です。駅前で出逢いの像をしっかり見届けてから、寺に行くと感慨がより深まるのではないでしょうか。

 次回から、いよいよ秀吉に仕えて数々の戦に向かう光成の勇姿をお聴きいただきます。どうぞお楽しみに!

石田光成 その一

2017.07/01 番組スタッフ 記事URL


 今月取り上げるのは安土桃山時代の武将・石田光成です。豊臣秀吉の家臣として活躍し、秀吉の死後、関ケ原の戦いでは徳川家康を打倒するために戦いました。このシリーズでは5回にわたって、光成が生まれてから生涯を閉じるまでのお話をお送りしていきます。一方、ホームページでは光成ゆかりの地をご紹介します。


 光成が生まれたのは、近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)と言われています。三成の父・正継は浅井長政の家臣で、石田村の地侍でした。この隣接地にも当時の豪族がいたことをうかがわせる地名がいくつかあるということです。石田町には現在、光成の出生を記念する場所があります。光成が生まれた屋敷跡に建つ石田会館です。光成に関する数々の資料が展示されています。

 町の公民館を思わせる外観で、光成の記念館としては存在感が乏しい印象はあります。しかし、入り口の周辺にある「石田光成公屋敷跡」と記された石碑やデフォルメされた光成の顔出しパネルがその存在を示しています。

 玄関には大きな木の置物と翁のお面が正面に出迎えており、迫力を感じさせます。中へ進むと、「石田光成史料室」があり、数々の写真資料が展示されていますが、特に目を引くのが、光成の頭蓋骨です。京都の大徳寺にある三成の墓を、研究家らが改葬した際に発見されたものです。そして「三成公の復顔像」は、京都大学に残っていた頭骨の計測値と写真をもとに昭和51年に復元されました。

  一方で、実物の史料としては、光成ゆかりの大きく立派な鎧(写真)や、当時の光成の屋敷を再現したジオラマがありました。


            

     

 ジオラマは現在の会館よりも広大な面積を誇っていたことを物語っています。三成が城主をつとめた佐和山城の復元模型は、現在天守閣が復元されていない中、貴重な資料と言えそうです。

 入り口正面の大広間には、「石田光成公の事蹟」として、数々の図説資料が展示されています。三成が幼い頃からの出来事が年表などとともに、絵で紹介されています。しかし、残念ながらここだけは撮影禁止ですので、ご注意下さい。その大広間を囲む襖の上には、全国にある光成関連の資料を紹介する数々の額が張り廻らされています。各地の寺社や個人で所蔵される肖像画や鎧の写真、光成が城主だった佐和山城の古地絵図、光成直筆の書状などがあります。あくまで写真での展示ですが、光成ファンも驚くほどの資料数ではないでしょうか。

 館の外には、三成の座像、出生地を示す石碑、三成を顕彰した歌の歌詞が書かれた石碑、関ケ原の合戦軍記を読んだ西郷隆盛が感想を述べた歌が記された石碑もあり、見所が満載です。

 なお、石田会館から北西に100mほど行ったところには、光成が産湯を汲んだといわれる井戸があります。細い路地を入ったところにあるので、道路沿いにある標識を頼りに訪ねてみて下さい。

 石田会館は、JR長浜駅から湖国バスの近江長岡行きに乗り約20分、「石田」の停留所で降りて下さい。そこから徒歩約3分でアクセスできます。入館は無料です。会館時間は、平日が午前9時30分から午後12時30分まで、土日は午後1時から午後5時までです。基本的にはほぼ毎日会館していますが、不定休となっていますので、事前に電話で確認するか、地元の観光情報サイトでパンフレットをダウンロードしてご参照下さい。

 次回は、ついに三成、秀吉との初めての出会いを迎えます。舞台は大原観音寺です。どうぞお楽しみに!

 

新島八重 その四

2017.06/24 番組スタッフ 記事URL


 新島八重のシリーズもこれが最終回です。四回を通して、八重が同志社の創立者である夫・襄とともに教育に力を入れるところまでのエピソードをお聴きいただきました。ここでは、八重のその後の人生も簡単に振り返ってみましょう。


 襄が亡くなった明治23年・1890年、八重は日本赤十字社の正会員となり、社会奉仕に力を注ぎます。その4年後、日清戦争の際には広島の病院で看護師の取締役として従軍しました。怪我人の看護だけでなく、看護師の地位向上にも努めました。その功績が認められ、勲七等宝冠章が授与されました。さらに明治27年・1904年の日露戦争でも大阪の病院で看護師として従軍し、翌年には勲六等宝冠章が授与されます。


 八重はこれら多くの功績によって、昭和3年・1928年、銀杯を下賜されました。しかし、その4年後の6月14日午後7時40分、急性胆嚢炎で亡くなります。享年86。葬儀は徳富蘇峰らの協力により、同志社社葬として執り行われ、約四千人もの参列者があったということです。


 八重の墓所は現在、京都市左京区にある同志社墓地の一角にあります。墓石には「新嶋八重之墓」と刻まれ、襄の墓と並んで建っています。(写真)墓地にはその他にも、兄の山本覚馬などの墓もあります。


             


  この墓地は、もともと京都市の共葬墓地で、襄が亡くなり埋葬され、その2年後に覚馬がその傍らに葬られて以降、新島、山本両家をはじめ、同志社にゆかりのある人たちが次々と埋葬されるようになりました。

  八重は、その共葬墓地のうち148坪を新島・山本家の墓地とする許可証を交付されていました。彼女の死後は墓地の使用権と管理権を同志社が継承しました。昭和10年・1935年、同志社の理事会で「校祖墓地を聖地として永遠に保存する」ための決議が取られ、整備が進められました。

 
 先ほど述べた3人の墓以外にも、八重の父・権八、母・佐久、弟・三郎、覚馬の娘・久栄、同志社設立に尽力したアメリカの宣教師・デイヴィス、襄の志を受け継いで同志社をサポートした徳富蘇峰など多くの人の魂が眠っています。

 昭和61年・1986年には不慮の事故で墓碑が倒壊するという事態に見舞われましたが、アメリカの教会から石材輸送のための献金が寄せられたというエピソードもあります。

 現在も在校生や卒業生が墓参し、祈りを捧げています。同志社の創立記念日である11月29日と、創立者・襄の永眠の日である1月23日には、毎年この場所で、早天祈寿会(早朝の祈りのための集会)が行われています。

 八重が眠る同志社墓地は、熊野若王子神社までアクセスして下さい。観光名所としてもおなじみの哲学の道も近くにあります。神社までは、京都市営バスの南禅寺・永観堂前で下車、徒歩約5分、または同じく市バスの東天王町で下車、徒歩約5分です。神社からは約200mの山道を登ると、到着します。徒歩約25分です。

 その他、同志社大学今出川キャンパスの東側には、新島遺品庫があり、書簡、日記、ノート類、説教・演説草稿、公務記録・文書、軸物、絵画など、襄や同志社に関係する資料、約6,000点を収蔵しています。原資料は非公開ですが、襄にまつわるストーリーや収蔵品などの資料が、同志社大学ホームページのデジタルアーカイブで見ることができます。

新島八重 その三

2017.06/17 番組スタッフ 記事URL


 新島八重は、同志社の創立者である新島襄の妻としても有名ですが、今回は2人の初めての出会いをお聴きいただきました。そこでこの度は、八重ゆかりの地として今も残る新島旧邸をご紹介しましょう。

 新島旧邸はその名の通り、八重と襄の私邸です。もともとこの場所は、幕末まで天皇や幕府の御用大工棟梁だった中井家の屋敷がありましたが、明治の初めには江戸後期の公卿・高松保実が所有していました。その後、明治8年・1875年に現在の同志社大学の前身である同志社英学校が開校した際に、襄は高松邸の半分を借り受け仮校舎としました。つまり、この場所は同志社発祥の地でもあります。翌年に校舎は旧薩摩邸跡地(現在の同志社大学今出川キャンパス)に移転します。

 襄は、八重と結婚した当初は借家住まいをしていましたが、ボストンの友人であるJ.M.シアーズによって自宅建設のための寄付を受けました。そして襄は高松邸を購入し、明治11年・1878年に自宅を建設しました。新島旧邸は現在、一般にも公開されています。寺町通りに面した入り口から、小道を進むと玄関が見えてきます。外観は和洋折衷というよりも、和に洋を取り入れた建築様式になっています。(写真)




         


  2階建てで、2階とも東・南・西の3面にバルコニーがめぐらされています。2人が住んでいた頃、東のバルコニーからは大文字山がよく見えていたということです。

 邸宅の中を見ていきます。玄関右にある18畳ほどの応接間も、当時のテーブルセットやソファーなどがそのまま置かれています。教室、職員室、会議室、事務室、教会の集会室など多くの目的に使われていました。ここには、八重が愛用したオルガンもあり、今でも演奏できる状態で保存されています。襖を間仕切りに応接間と隣合わせになっているのは食堂です。ダイニングテーブルには、西洋風の食事が並んだということです。台所との間にはハッチ式の配膳棚もあり、当時としては近代的な造りでした。

 さらに奥へと進むと、東南側の角部屋は書斎になっています。襄が使っていた机などの家具も当時のまま残っています。木箱でできた書類入れには書き込みがされており、襄の直筆を見ることができます。壁一面に書棚があり、8割が洋書でした。当時、同志社の学生は図書室のように自由に利用していたといいます。

 その向かい側には茶室があります。これは襄の死後、八重が洋間を改造した「寂中庵」です。八重は茶道流派の一つである裏千家に入門し、茶道教授の免許を受け、ここで稽古や茶会を開いていました。洋風の生活を送っていた八重が襄の死後に純和風の生活へと変わっていったことを物語る場所です。

 その他、木製板張りの腰掛式トイレは、日本にある洋式トイレとしてはごく初期のものと言われていて貴重です。2階に上がると、寝室が3間、居間が1間あります。寝室のベッドは八重が使っていたものも残っており、当時としては珍しいアメリカ製です。

 新島旧邸は、京都市営地下鉄・丸太町駅から徒歩約15分、京阪電車・神宮丸太町駅からは徒歩約10分です。旧邸の離れには附属屋があり、襄の両親の隠居場として建てられました。現在は展示のために使われています。こちらも訪ねてみて下さい。

 次回は、八重シリーズもいよいよ最終回です。どうぞお楽しみに!

新島八重 その二

2017.06/10 番組スタッフ 記事URL


 京都の町は、戊辰戦争の端緒となった鳥羽・伏見の戦いなど度重なる戦乱によって荒廃し、明治政府の東京遷都によって活気も失われていました。京都の復興は大きな課題とされ、そのための人材も探さなければいけない状況でした。そこで新政府は、新島八重の兄・山本覚馬に復興の役目を託したのです。


 その中で、新政府は欧米の先進国にならって、女性の教育に力を入れます。東京では「官立女学校(東京女学校)」、京都では「女紅場」が女性の教育機関が開設されます。覚馬を頼りに京都へやってきた八重は、兄の推薦によって女紅場で働くことになりました。


 八重が働いた女紅場の正式名称は「新英学校及び女紅場」です。女紅とは「女工・女巧」と同じ意味で、女子の手仕事を習得させることを意味します。
英語や数学を教え、卒業すると教員免許が得られた新英学校に、女性が裁縫などを習い手に職をつける場所である女紅場を併設した施設でした。


 茶道や日本画、生け花、書道など、当代一級の講師陣が揃う中、八重は小笠原流礼法、養蚕、機織りなどを教えていました。小笠原流礼法とは、江戸時代に諸藩で採用されていた武家の礼法で、会津藩の上級藩士だった八重も習得していました。養蚕は会津の主要産業で、養蚕や機織りの技術も身に付けていたといえます。さらに、八重は女紅場の寄宿舎で舎監(寮母)として生徒の世話にもあたっていました。


 京都市上京区駒之町には、当時の女紅場を示す史跡があります。鴨川に架かる丸太町橋の西詰南側には洋館・旧京都中央電話局上分局(現在はスーパーマーケット)があり、その北東の角に「本邦高等女学校之濫觴 女紅場址」と刻まれた石碑が建っています。(写真)

              

 

 女紅場は後の明治37年・1904年には、京都府立京都第一高等女学校に改称されました。さらに昭和23年・1948年には戦後の学制改革によって、男女共学の「京都府立鴨沂高等学校」となり 現在に至っています。


 鴨沂高校の正門は、女紅場の正門を移築したものです。立派な門構えでその他の高校とは趣を異にしています。校内には、当時の京都府知事・槇村正直の筆による「女紅場之創始」の扁額があります。槇村知事も教育熱心で、一般に女子教育が重んじられていなかった時代に、女子教育の必要性を説き、女紅場を開校しました。槇村知事の力強い筆勢は、高校のホームページで見ることができます。


 女紅場址碑は、京阪鴨東線の神宮丸太町駅から西に約120m、徒歩約3分です。

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パーソナリティ

玉田 玉秀斎
たまだ ぎょくしゅうさい

2001年11月 旭堂小南陵(現・四代目南陵)に入門。

ブラジルにてポルトガル語講談、アメリカ・ボストンにて英語講談、上海にて中国語講談など各国で講談を行う。

またジャズ講談など音楽とのコラボレーションも大好評。

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